36、世界の晒し者
痛みをこらえて起き上がる。
そして悠里は、部屋の外が様変わりしているのに気が付いた。
まるで巨大な球の中に入ったような、驚くほど広い空間。さっきまでのモダンなオフィスのような施設は無くなっていた。
魔王の背後で、さっきの子供部屋が床に沈んでいく。
ほの白い空間に、落とされた大粒のインク、そんな印象を受けた。
「まったく、お前のような奴の相手は疲れるな。どこぞの鬼の首魁が、あきれ果てる気持ちも、よく分かろうというものだ」
言いざま、巨大な剣が降られる。真っ黒な波がこちらに突き進み、痛みをこらえて横っ飛びに飛んだ。
「っぐっ!」
「幸いなことに、ここにやってきた勇者は、お前で二人目だがな!」
立て続けに剣の波が悠里に叩きつけられ、必死に走って逃げ交わす。
近づけない、それどころか、痛みで体力が落ちていく。
「"いと貴き、慈しみと勇気を授け"――」
半分も詠唱を口にできないまま、黒い波がいくつも叩きつけられる。何とかよけきったが、このままではジリ貧だ。
せめて、コスズやイフがいればよかったが、二人はどこにもいない。
「回復魔法なんぞ使ってんじゃねえ! と言ったところか。さあ、どんどん行くぞ!」
今度は横に広がる壁のような波。避けられない、であれば。
痛みをこらえ、片手で刀を掲げる。
「ちええええええええええっ!」
意思と気合が刃に乗り、白刃が黒を両断する。
開けた視界の先に、魔王がいた。
「で?」
横薙ぎに払われた大剣に、鎧が悲鳴を上げる。砕けていないが、衝撃でいくつかあばらがへし折れる感触。
「げぅ、っぐうううっ!」
「ドワーフの防具は優秀だな。それと、貴様の神規も中々だ」
なぜか追撃を行わない魔王に、悠里は痛みをこらえつつ、いぶかしんだ。
神規、という言葉に、自分の鎧を剣を見た。
白々と輝く光は、間違いなく神規の力。
「【万民の祈り】!? でも、こんなに強く働いてるなんて……どうして」
「ようやく気付いたか。それでは、ステージ演出を変えよう」
ぱきり、と魔王が指をならした途端、白かったドームの壁に、何かが映し出された。
『勇者さま!!!!』
耳が潰れそうな声。そして群れる人々の顔。
それはどこかの村、あるいはどこかの町、集落、人々の集う場所の光景だった。
いくつかに分割された画面に、無数の顔がある。何かを見上げ、祈るように両手を握り合わせていた。
「折角のラスボス戦だ。観客もないのでは寂しいと思ってな。全世界中継だ」
「……な、なに?」
その問いかけの間にも、鎧を通して加護が増強される。痛みが消え、傷が治り、体力が回復していく。
息をつき、刀を構え直すと、悠里は問いかけた。
「な、なんで、俺に有利になるようなことをした」
「お前が悠里だから。悠里が有利になるように、ってな」
笑えなかった。むしろ恥ずかしいくらいだ。
それは、この名前を言うたびに、繰り返しいじられて来たネタだからだ。いきなり自分の名前で駄洒落なんて言ってくるとか、それを全世界に流されるとか。
「どうした。世にも珍しい、シリアスな魔王のダジャレだぞ? いっつ、あーくえねみーじょーく、HAHAHA!」
「こ、このぉっ!」
煽られ、思わず走り出していた。笑っていた魔王の体が、急激に床へ沈み。
「隙あり」
少年姿の魔王が、背後から細身の剣を首筋に突きこんでくる。振り向き、剣を払った瞬間。
「あっぐ!」
火花が散る三連撃、それは自分が魔王に見せた、三段突きだった。
傷はないが、思いきり距離を取って、守りを固めた。
「こんなもんかな。大丈夫、さすがに岩蔵流をマスターした、なんて言わないからさ」
そのまま少年が魔王に変わり、巨大な剣を構えた。
悠里は必死に呼吸を整え、焦りを消そうとした。
完全に気おくれしている。さっきから、何をやってもこっちを上回られる。言葉でも、剣術でも、何一つ敵う気がしない。
(駄目だ。飲まれるな、こいつを倒さなきゃならないんだ!)
「参ったな。思ったより、退屈な展開になってきたぞ」
突然、魔王は剣を消し去り、構えを解いた。
飽きた子供が、おもちゃを放り捨ててしまうみたいに。
「もっとないのか、なにか。例えば剣からビームを出すとか。神去で流行ってただろう、剣からビーム」
「あ、あるか、そんなもの!」
「マジで? 嫌だなあ。これだからバエないんだよ、"英傑神"の勇者は。全体的に地味でダサくて」
いつの間にか、黒い鎧の少年になった魔王は、にやにやと煽り立ててくる。
これ以上、こいつと会話するのは駄目だ。どんどんペースを握られる。
「しっ!」
呼気を鋭く、間合いを削ぐように切り上げ。それをかわした魔王が、更に言い募る。
「【万民の祈り】ったってさ、うぞーむぞーの、雑魚の民から貰った力なんて、たかが知れてるじゃん?」
「黙れ!」
「あーあ、これならまだ『審美の断剣』の勇者の方がましだったな―」
切っ先は確かに魔王を捕えている。でも、その一撃が全て、影になって散っていく。
完全省力の回避と防御に特化した姿。大柄な魔王の姿より戦いやすいが、攻めても勝てるビジョンが見えない。
「観客のみなさーん、別のスクリーンをご覧ください。そちらに写ってるのが『審美の断剣』ゼーファレスの勇者、逸見浩二君でーす!」
その言葉に、うっかり横目で見てしまう。
映し出されたのは、古びた砦跡を爆炎で染める、青い鎧の勇者だった。
「一日三回、強力な魔法を撃てる腕輪に、達人の剣技を約束する魔法の剣、そして敵の攻撃を何でも防ぐ無敵の鎧。しかも青一色でコーディネート。な? かっこいいだろー?」
あれが、ドラゴンになる前の浩二の姿。その剣に雷を宿し、巨大なオーガを切って捨てる姿は、確かにいかにもな場面だった。
「でもこいつ、負けちゃったんだけどね。ま、その話はいいや」
言い捨てると同時に、抜き放つのは黒い双刀。こちらの刀を払い飛ばし、そして『弓』に変形させた。
「そらそらっ!」
黒い弓から無数の矢が放たれる。地面に転がって矢避けをするが、少しでも遅れれば足を刺し貫かれてしまう。
大きく地面を蹴り、何とか屋の雨を抜けたと思った、瞬間。
「貫け『黒馬頭の忌矢』!」
視界いっぱいに広がる闇。それが凍るような痛みで五感を焼き、悠里を吹き飛ばした。
「うがああっ!」
「うん。試運転としては上々だな。次にあいつらと撃ち合うために身に着けた技だけど、どうだった?」
守り越しでも、強烈に感じる力。いや、守り自体の力が、落ち始めている。
「気が付いた? お前の加護が、どんどん下がってること」
「……っ」
「しょうがないよなー。出てきてからお前、俺にやられてばっかだもん。そりゃ、民衆の皆さんも、飽きて離れるよなー。分かるわー」
何度目だろう。こいつの悪辣さを思い知るのは。
魔王がこの戦いを、世界中に見せつけている理由。それは"英傑神"の神規を、直にそいでいくため。
悠里の弱く、情けない姿を見せて、信仰心と信頼を失わせるためだ。
「支えてくれる人がいるからーとか、みんながいるから頑張れるーとか、しょうもなー」
少年魔王は、冷めた目でこちらを見つめ、片手に何かを取り出した。
それは、なにかの頭の骨だ。
牛に似てはいるが、歯の形がおかしい。肉食獣を思わせる牙が生えていて、自分が知っている生物とは別の存在だった。
「何かの後ろ盾が無きゃ立てない力とか、ないも同然じゃん。だから、お前みたいなクソ雑魚、最初から興味なかったんだよ」
頭骨を床に投げ出し、魔王は命じた。
「横臥せし遺臣よ、再び起て。黄泉路をさかしまにたどり、我が下に帰陣せよ」
それは影に覆われ、黒い肉体を持って、現れた。
『……盟約に従い。帰陣いたしました。我が王よ』
魔王の足元にひざまずくのは、牛頭の魔物。その状態でも、すでに少年魔王の頭と同じぐらい大きかった。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
「これが俺の、ただ一人の"魔将"、ベルガンダだ」
巨大な斧、分厚い体と鎧。そして、眼窩に灯る青い光。威圧と闇を練り固めたようなそいつに、命令が下る。
「我が"魔将"よ。そこな雑魚を刈り取れ」
『御意』
命令を下すと、魔王は呼び出した玉座に腰かける。
完全に、こちらに興味を失った顔で、魔王は告げた。
「貴様は俺が戦うに値しない。自分の惨めさを噛みしめて、死ね」
魔王城の前面に投影された映像を、■■は絶望的な気持ちで見ていた。
あいつの力が以前よりも増している。それどころか、使っている能力は、明らかに自分たちを意識した対抗手段だ。
なにより、あの召喚は。
「ベ、ベルガンダとか、マジかよ……」
「モラニアの魔将、でしたね。それを蘇らせて使っているなんて」
不安げに、リィルがこちらを抱き締めてくる。後方に下がると言っていたものの、諦めきれずに、城壁の補給部隊に紛れ込んでいたらしい。
万が一迎撃が間に合わなかったら、なんて想像もしたくなかった。
「しかし、ありゃマズイね」
「うむ。悠里殿は完全に、魔王に飲まれておられる様子」
戦闘に関して一家言あるエルカとアクスルにも、焦りの表情が見える。魔王自身の強さもそうだが、悠里の剣には一切余裕がない。
「仕切り直そうにも、今度は魔将とやらを当てられて、気持ちの整理がついてない。こういう時は」
「こういう時は?」
「ケツまくって逃げる」
一瞬ずっこけかけたが、エルカの顔は真剣だった。
「無理なんだよ。あそこはアイツの城で、場の空気も完全にあいつのもの。そんな場所でまともにケンカなんてするより、逃げる方がまだいい」
「ケンカって……まあ、そうかもだけど」
悠里は攻めない。目の前のミノタウロスが、余りに大きく見えているのだろう。
相手が一歩進むごとに、神経質に間合いを切っている。
「しかも、あの場には彼の仲間たちがおりません。たった一人で強大な魔王と、その臣下と戦う。並大抵の圧ではないでしょう」
「くっそ! でかい口叩いておいて、グリフの奴……っ」
『……我が主よ、貴方もお人が悪い』
画面の向こうがで、ベルガンダが笑っていた。
あの豪放で、あけすけな声。自分も一瞬引き込まれかけた漢気は、少しも損なわれていない。
でも、続く言葉は辛らつだった。
『目覚めてすぐの相手が、雛鳥以下の小僧ですか。これならば"知見者"の勇者の方が、まだしも気骨がありましたぞ』
『同感だ。だが、仕方なかろう』
部下の言葉を受けて、魔王はまた嗤う。その嗤いこそが、悠里を削ぎ殺す、陰惨な剃刀だと理解しているから。
『あれでもプロ棋士を目指していた、盤上の戦士だぞ? 勝負にかける気構えが違う。所詮こいつは、甘やかされて育った、田舎道場主の息子。比べる自体が失礼だ』
激情した悠里の剣が、怒りに任せてベルガンダに叩きつけられる。
激しい激突音、それでも太いミノタウロスの体は、びくともしなかった。
『温いわ!』
目に見えて、悠里の力が落ちている。
払い飛ばされ、膝を突いて、立ち上がろうとする。その動きがひどく鈍い。
『いや、マジでエグイな。さすがの魔竜でもドン引きだよ』
『気に入ったのか、その表現。とはいえ、えげつないというのは同感だ』
悠里は気づいていないようだが、城内の映像は、しばらく前から流されていた。
シャーナが対物ライフルで狙撃され、イフとフランバールが分断され、グリフとコスズが辱められた。
そして、魔王の計画の全容を、知ることになった。
『あれほど立て続けに、仲間を侮辱され、仲を裂かれ、その上、遊戯の勝利も意味がないと言われているのだ。むしろ今すぐ逃げ出してもおかしくない』
『観客連中も、ヤバい状況に気づいてるみてーだしな』
ジェデイロ北平原に浮かぶ魔王の城に集まった人々は、かなりの数に上っていた。
生き残った者、遅ればせながらはせ参じた者、魔王に憎しみを抱いた難民。あるいは、野次馬の類まで。
■の聞こえない今の自分でさえ、周囲の連中の感情が、手に取るように分かる。
失望と疑念、それが次第に、悠里から力を奪っていくとさえ思えた。
「クソ……っ。もう一度、なんとか、ここから援護を」
『やめろってんだろうが! いくら契約したからって、自殺は手伝わねーぞ!?』
「あ……う」
『リィル、その無鉄砲者を、抱き留めておいてください』
思いきり力強く抱き締められ、観念して首を降ろす。
自分にできることは、もう何もない。
もし、今この瞬間に頼りになるものがいるとしたら、それは。
『うぐあっ!』
受け損なった斧の一撃によろめいた悠里を、ベルガンダが蹴り飛ばす。
すでに刃を当てる気がない、完全になぶりものにする気だ。
「も、もうダメだ……あんなんじゃ」
「勇者とか言っても、結局、魔王には敵わねえんだ……」
違う。そんなことはない。
少なくとも、あいつはまだ、生きてるはずだ。
「……頼む」
目を閉じて、祈る。
神にではない、悪魔にでもない。
たった一人だけ、自分が、信じている者に。
「悠里を、助けてやってくれ」
その願いを打ち砕くように、角の奥に響くような、破壊音が響き渡った。
へし折れた、と思った。
鎧は確かに自分を守っている。ドワーフたちの鍛冶は、完璧だった。
でも、無理だ。こんなの。
目の前の怪物は、斧を置き去りにして、悠里を拳で殴りつける。殺しきれなかった衝撃は内臓をえぐり、重量と加速度を込めた蹴りが、両腕を折り砕く。
そして、振り降ろされた拳が、鼻っ柱を砕いていた。
「ぶ、ぐっ」
膝を突き、うずくまる。
もう、どうしようもなかった。こんなに自分は弱かったのかと、思う。
「どうした、岩倉悠里。それで終わりか」
答えられない。
「さて、ここでお前に、残酷な答え合わせをしてやろう」
止めてくれ。
「貴様の冒険はな、すべて俺がプロデュースしたものだ」
その言葉が、俺を殺していく。
「お前が最初に出会った、村の少女だが。あれは俺が差し向けた者だ」
違う、あの子は、俺が助けたいと、思ったからで。
「お前の降臨を察知してから、お前の行動はこちらで、一日も欠かさず、記録した」
止めてくれ。
「貴様が受けた冒険、自分が潜り抜けてきたと思っていた、すべての戦いが、俺の仕向けた茶番劇だ」
否定したい。否定させてくれ。
「グリフの件で明らかだろう? 俺の手が入っていないものなど、何一つない」
やめて。
「貴様の仲間も、貴様の協力者も、貴様がこの世界に来て出会った、すべての者が」
やめて、ください。
「俺の息が掛った、俺の手駒だ」
涙が、流れていた。
そんなことはない、そんなことはないと言いたい。
みんな俺の大切な仲間で、大事な人で、幸せにしたい人たちのはずで。
「すべては、お前に勇者ごっこをさせ、適度に楽しませるための、NPCだ」
体が冷えていく。加護が消えていく。祈りが散っていく。
失望を感じる。軽蔑を感じる。諦観を感じる。
「でなければ、お前が今まで戦ってこれたはずがない。なにしろ、手加減されていたんだからな」
腕が上がらない。立ち上がれない。否定できない。
「つまりこれが、"英傑神"の勇者の、攻略法だ」
ああ、そうか。つまりこれは『クソゲー』だ。
運営する側の魔王が、絶対にクリアさせないために創り上げた、バッドエンドしかないシナリオチャートだ。
その通りに動く限り、どれほど素晴らしい成功を収めようが、最後には死ぬ。
「お前を助ける仲間は、もういない。そもそも、お前に仲間など存在しなかった」
そうだ。俺は誰とも向き合えなかった。
それぞれの抱えたものを、打ち明けてもらえなかった。
「首を刎ねてやれ、"魔将"よ」
顔を上げて、それを見る。
太くたくましい腕が、するとい斧を振りかぶる。あれが落ちてきたとき、自分は死ぬ。
「さらばだ、岩倉悠里。くだらぬ悪夢から覚め、くだらぬ現実を生きるがいい」
死が降ってくる。
それがたとえ仮初のものでも、生まれて初めての死が。
でも、嫌だ。
「死にたく、ない!」
動け、動け、動け、動け!
悠里の周りで、世界が引き伸ばされる、時間が遅くなる。遅くなった分だけ、自分がさらに遅くなって――。
「うわああああああっ!?」
閃光、熱、爆発が同時に襲ってきた。
体が吹き飛び、地面を転がる。急に時間が早くなり、体に痛みと動きが戻る。
立ち込める、きな臭い煙。
振りかぶっていたミノタウロスの大斧は、柄だけを残して消滅していた。
「生きてるか、悠里」
ドームの一部が、十字に引き裂け、砕けていた。
その向こうに広がるのは、ガラクタの積み上がった、みすぼらしい舞台裏。
がれきを踏み越え、歩み出たのは小さな姿だ。
魔将どころか、少年魔王ににさえ届かない、小柄な体。
それでも、悠里にはとても、力強く見えた。
「来たぞ、魔王」
神器の弓を手に、コボルトのシェートは告げた。
「お前、狩りに」