20、野原を行く、ケモノのように
彼の部屋は、砦の北にある小さな塔の中だ。
それが、捕虜を捕えておく場所に使われていたことも知っていたし、他の人たちの目に付かないようにという、腫れもの扱いの意味であることも、イフは知っていた。
階段を昇っていく途中で、小さな子供が勝手に部屋に入っていくのが見えた。
「しぇーと! あそぼ!」
避難民の、カーヤという名前の少女。なぜか彼が一緒に連れてきた、どこかの村で焼け出された子供だ。
イフにとって、彼は不思議な存在だった。
コボルトのシェート、女神の加護を受けて勇者を狩った魔物。
「人形、どうした?」
「もにょおじさんくれた!」
戸口に立って、盗み見るように二人の様子を見る。首に抱き着かれ、困惑しながら、子供の手の届かないところへ、作りかけの矢柄を遠ざけ、木くずを払っている。
まるで仲のいい兄弟姉妹のような、そんなやり取り。
「カーヤ、もにょおじさん、好きか」
「すき! ぷぷおじさんきらい!」
モーニック、と言い切れないので、カーヤは彼を『もにょおじさん』と呼ぶ。言われた騎士は気にする風でもなく、顔を合わせるたび、じゃれつくカーヤをあやしていた。
「ダメだ。カーヤ、危ない」
「ぶーん、ぶーん! もにょおじさん、ぶーん!」
どうやら剣の稽古でもしているつもりなのだろう。矢柄を振り回すカーヤと苦笑するシェート、もう少し見ていたいが、仕事はしなければならない。
開けっ放しの扉を叩き、顔を出す。
「シ、シェート、さん。おはよ、うござい、ます」
「ああ」
彼は何も隠さない。顔も覆わず、手足もむき出しのまま。その腕や、ちらりと見える胸元にある、むごい傷さえ気にしないでいた。
私と同じか、それ以上に忌まれる存在として、生まれたのに。
「お、おとりこみ、中ですか?」
「しぇーと、カーヤと遊ぶ!」
「すまん、カーヤ。下、手伝い、行く。遊ぶ、まただ」
「……やだ」
またかんしゃくが起きる、そんな危険な雰囲気を察したのか、部屋の隅で寝転がっていた星狼が、素早く子供を鼻面で放り上げ、背中に乗せた。
「ぐーと! おんまやって! おんま!」
「……すまん。グート」
「きゅぅん」
白い狼には悪いが、こちらも仕事だ。シェートを連れだすと、そのまま塔を降りる。
「今日、仕事、なんだ」
「サンジャージ師匠が、空飛ぶ、マント、試作したいって。実験、です」
「分かった」
「あ、あと、巡回、偵察任務、お願いできますか」
「グート、外出したい。いいぞ」
彼の態度は淡々としていて、私が知っている人たちの誰とも違う。冷たいわけじゃないけど、熱くもない。
そこに居て、静かにたたずんで、何かのきっかけで動き出す。
まるで、草原に生きる動物のような。
でも、カーヤといる時の彼は、暖かいように見えた。
「あ、あのっ!」
「なんだ?」
「カ、カーヤ、さんって、あなたの、おこさんとか、じゃない、です、よね?」
彼は目を丸くして、それから笑う。
ああ、またやってしまった。思ったことがあると、つい口にしてしまう。ユーリさんはそれが私のいい所だと言ってくれたけど。
「カーヤ、焼けた村、生き残り。俺、助けた」
「え、っと、た、食べたいとか、は」
「ない。コボルト、人喰うな、言われる。俺、食わないぞ」
正直、彼には驚かされてばかりだ。
粗暴で凶悪なゴブリン種に比べ、コボルトはこの大陸にはそれほど見かけない。自分にとっての彼らは、焦点の定まらない目で必死に襲い掛かってくるか、怯え隠れていく背中の印象、それだけ。
書きつけ用の羊皮紙を取り出し、要点を書き記す。
サンジャージ師匠曰く「魔術師は目の生き物」だから。気になったものは記録する。
「モ、モラニアの、コボルトも、みんなシェートさん、みたい、ですか?」
「……違う。俺、変わってる、言われた」
「ご、ごめん、なさいっ。変な事、聞いて……」
「いい。書き物、世界、知るため。そうだな?」
「……は、はいっ! こうして、一杯、記録して、それで、わ、私、知りたいです!」
口にしてから、改めて気が付く。
この不思議なものを、もっと知りたい。
「私、シェートさんのこと、知りたい、です」
「俺、コボルト。それだけ」
「……違い、ます。きっと」
ユーリさんは言った。この世界には『もしも』って、思う自由があるって。
ずっと、私の世界には、一つしかなかった。
誰かに痛みを与えること。私が生まれた理由は、それだけだった。
■■――それが、私に与えられた名前。
でも、もしも(if-then)、そうでなかったとしたら? そう言ってくれたのが、ユーリさんだった。
そして、彼もまた『そうではない』という、事実の一つに思えた。
「遅いぞイフ! 待ちくたびれたわい!」
新しく繰りぬかれた地下の奥に、サンジャージ師匠の研究室はあった。
ジェデイロの研究所は無くなってしまったけど、ここに来て二週間もしないうちに、あの懐かしい、ガラクタだらけの部屋が出来上がっていた。
「念のため確認しとくが、魔法は使えんのだな?」
「ああ。サリア、加護貰った。あと、腕輪。俺、魔法、わからない」
「よかろう。であれば……飛行であるよりは浮遊、後は風を受けて……いや待て?」
作業台に肘を突き、思いついたアイデアを書きつけていく。さらにいくつもの銀片や宝石をかき集め、ごちゃごちゃとした塊に組み上げた。
「ま、試作はこんなもんだろ。では、実験だ」
「え……魔法、道具、作る。もっと……違う」
「なんだ、魔法を知らんくせに文句はつけるのか!? 安心しろ! この世に儂ほどの天才、魔法道具の匠はおらん!」
その時、初めてイフは見た。
悲しそうに、声もなくつぶやく彼の顔を。
「あいつ、もっと、上手」
そんな風に、言っている気がした。
午後からは彼と組んでくれ。ユーリ殿からそう言われた。
フランバールにとって、勇者の命令は絶対だ。忠誠を誓ったというだけではない、初めて会って、彼とあの廃砦を攻略したときから、この身も心も彼に捧げると決めた。
馬に乗り、進むこちらの隣で、狼に鞍を掛けて進むコボルトを見る。
その少し後ろに、隻腕の同僚が追随している。
「ミルザーヌ卿、轍だ」
砦を出て少し経った頃、大地に刻まれた『戦車』の痕跡を見た。
最初にあれを倒して以後、連中はこちらとつかず離れずを保っている。イツミコウジと名乗る仔竜の進言で行った対戦車攻略を、避けるように。
「まだ新しいですね。土が乾いていない」
「追うのか?」
「……軍師殿の基本戦略は『撃退』です。ここは砦から離れている。狩り込めるにしても援軍を呼ぶには時間かかかります」
蛮勇で我が身を危機にさらすつもりはない。神の教え通り、我々は勝つまで死ぬわけにはいかないからだ。
フランバールは、定められた巡回経路を思い出し、轡を向けようとした。
「どうした、シェート」
だが、同僚はそうしなかった。声を掛け、下馬してコボルトの脇に立つ。
そういえば、この二人は砦に来た時から距離が近い。モーニック卿と言えば、きわめて厳格で規則に厳しく、騎士の鑑と呼ばれるほどの堅物だ。
ただ、子供や女性には人気があり、人当たりが悪いというわけではない。
魔物と仲良く肩を並べるという性格でもないはずだが、なにか気に入る要素でもあったのだろうか。
何事かを確かめていた様子のコボルトが顔を上げて、土の一部を差した。
「足だ。ふたつ、みっつ」
「ああ……これか。素足に……血か。良く見つけられたな」
「……追われてる。戦車、人、狩ってる」
コボルトは狼にまたがり、方向を確かめる。
片手に神器を取り、こちらに振り返った。
「助け、行く。来るか?」
「無論だ。ミルザーヌ卿、よろしいな?」
「であれば貴殿は伝令に。援軍を頼みます」
彼はためらわなかった。隻腕で馬を駆る技量は驚くべきものだが、激しい遊撃戦になる戦車との戦いでは、どうしても不安があるのを、理解しているからだ。
こちらが『駆け』で進むや否や、コボルトの狼も一層加速する。まれにゴブリンが狼乗りとなることがあったが、連中より軽い体が幸いしてか、機動力が桁違いだ。
「いた。お前、人、助けろ」
それは、三台に合流した黒い金属の塊だった。一組の轍は三組に増え、蛇行しながらゆっくりと何かを追っている。
子供とその親、疲れ果て、足をもつれさせて、子供が地面に転がった。
その瞬間、
「しっ!」
神器の光が叩きつけられ、一台の車輪が吹き飛ぶ。連中の『砲塔』が、ぐるりとこちらに向き直った。
「走れ! 行け! 助けろ!」
それを引き付けるように前に出て、体を狼の上で立て、流れるように斉射する。八つに分かれた銀光が、外部に取り付けられていた髭のような物を、正確に叩き潰す。
遅れて、コボルトの周囲で爆発が起こり、それを突き抜けて狼の乗り手が進撃する。
『アンテナ――まあ、遠くと話せる魔法の道具みたいなもんだよ。可能ならそれを潰してくれ。それであいつらは撤退するはずだ』
馬以上の速度で進行する物体に生えた、常に揺れる一本の草を射貫くような行為を、走り抜ける狼に乗って行う技量。
確かにあの銀光は、必中の力を持つ『凍月閃』だが、『術士が目を付けた箇所』に当てるのは、相当な訓練がいると聞いていた。
「無事か!? 無事なら走れ! あちらに砦がある、そこに避難せよ!」
親子が身を起こし、涙ながらに感謝して去っていく。戦車は轟音を立てて去り、仕事を終えた狩人が、神器を消して戻ってきた。
「見事なものだ」
「俺、仕事、しただけ」
「いや……それでも見事と言おう」
思えば、ヴィルメロザで初めて会った時から感じていた。
異質で異常、それでいて静かにたたずむこの生物の、生き方を。
仕事に忠実だが、騎士のそれではなく、その強さの源は、弓兵や戦士のそれではない。
「なるほど、狩人か」
「……そうだ」
フランバールの感嘆に、狩人のコボルトは不思議そうな顔をした。
なぜこいつは、そんな当然のことを言うのかと。
「俺、ずっと、そうだ」
「……では、その狩人の腕に賞賛を」
「いい。獲物、狩った時、言え」
なかなか頑固な一言に、思わず笑ってしまった。
援軍を連れて戻った青の騎士が、馬蹄を響かせながらやってくる。それを眺めつつ、彼女は同僚に声を掛けた。
「一当てして疲れたろう、合流して休憩だ、シェート殿」
「……ああ」
気に入らない潮目だ。グリフは忌々しさを、胸の奥で吐き捨てた。
そして、地下の会議所に並ぶ面子を眺める。
フランや騎士たちは、もうすっかりなじみだ。騎士団領にいた頃のぎすぎすした感じはもうなくて、本当に同じ奴かと疑いそうになる。
エルフのババアは未だに気にくわなかったが、コスズのおふくろということもあり、気持ちの面では問題ない。ドワーフのおっさんは好きだが、さすがに付き合い酒は二度とごめんだ。
イフとその師匠のイカれた爺さん。妙な実験に付き合わされるのは勘弁だが、"繰魔将"の城では助けられたし、悪い奴でもないのは知ってる。
ドラゴンのシャーナは、いつにもまして機嫌が悪い。
たぶん、その不機嫌の幾らかは、俺と同じものだろう。
仲間内で一番最後に合流したコスズは、状況を飲み込めない、という感じでユーリの方を見ていた。
「これで全員そろったな。じゃあ、最後の作戦会議だ」
俺の気に入らないもの、その一が口を開く。
知らない間に懐に入り込んで、仲間面していたチビのドラゴン。
いや、ドラゴンのガワを被った、負け犬の元勇者だ。
「おいコージ、ちょっといいか」
「なんだい?」
「なんでテメエが仕切ってんだ。ここはユーリの砦だぞ」
ユーリが口を開く前に、俺はきっぱりと言い切る。
「立場の上下ってもんは、しっかりしとくもんだろ。違うか、フラン」
「グリフ殿、気持ちは分かるが」
「分かってねえよ。元々、俺たちはユーリのために集まったんだろ? それを、こんなうさんくせえ奴に仕切らせて、良く平気でいられるな!」
全員の目が俺に突き刺さるが、そんなことは知ったことじゃない。
こいつらは、全員甘すぎる。
「言っとくが、俺はこんな奴、信用してねえからな」
「グリフ、俺が彼に参謀役をお願いしたんだ。それを信用できないか?」
「その信用とやらに、何度も付け込まれたろうが! 俺と会った時、あの村でどんな目にあったか、忘れたとは言わせねえぞ!?」
ユーリとの出会いは最悪だった。
傭兵稼業の途中、魔物に襲われた貧乏な村という触れ込みで、仕事を受けた。そのきっかけが、お人よしのユーリだ。
「テメエらの金はしっかり隠したまま、俺たちにはパンと銅貨だけ。取り戻した財宝とやらも、半分もよこさなかったよな!」
「あれは、もう話が付いただろ!」
「それだけじゃねえ、ヴィルメロザ、ジェデイロ、エルフの森、ドワーフの坑道、おまけに"繰魔将"の砦まで! そのお人よしで、どれだけ死ぬ目にあった!?」
よくもまあ、あれだけ騙され、不利な状況を押し付けられたものだと呆れてしまう。
その原因がユーリでなければ、とっくに投げ出していただろう。
「でも……それでも俺は、勇者だ。困ってる人を疑って接することは、したくない」
「ああ、ご立派な態度だ。俺だってお前のその甘さ、嫌いじゃねえよ。だがな、こいつらは違うだろ!」
あの下らない決闘とやらで、確信した。
こいつらはろくでなしの、ごろつきだと。
「見ただろ、あの決闘。あのコボルトは、方々で勇者を殺して恨みを買った! このチビは、テメエのケツさえ拭かず、自分を殺した相手にヘラヘラ引っ付いてた!」
「グリフ!」
「なあ、そんな不実なことをする連中を、お前は、お前らは、本気で信じられんのか?」
刺すような視線が部屋中から突き刺さる。
ああそうだ、俺は野蛮で、身勝手で、ろくでなしな人間だよ。
でも、裏切りなんてものを平然と許せるほど、甘くもねえ。
「俺は、勇者ユーリの、一番の仲間だ。だったら、ユーリの身の安全を真っ先に考える。そのためなら汚名も被る、この命だってくれてやる!」
あの村を出て、その日暮らしのごろつき同然に生きてきた俺に、世界を救う仲間なんて役割を与えてくれたのが、ユーリだ。
そいつを傷つける者は、誰だろうと許さない。
「そういう覚悟があって、ここにきたんじゃねえのか、お前らも!」
「……そうだ、グリフ殿。しかし彼らは」
「その仲間に、いっちょかみしてやろうなんて考えの奴は、必要ねえ。覚悟のない奴は、平気で人をだまして、裏切りやがるからな!」
ようやく、すまし顔の仔竜が顔色を変えた。最初に会った時は、鉄でできてるんじゃねえかと思ったが、やればできるじゃねえか。
だが、
「違うぞ、お前」
全身の毛が抜き尽くされるような、鋭い痛みが体をなぶった。冬の岸壁にぶち当たる、身を切るような波しぶきを思わせる殺気。
部屋の隅にいたコボルトの両目が、暗闇のかがり火のように、ギラギラと燃えていた。
「な、なにがだよ」
「俺、悠里、仲間、違う」
「そ……そうかよ! だったら、なんだってんだ!?」
「道具、狩りの道具」
それは、深い水底のサメのように、こちらから視線を外さない。
こいつはただのコボルト、じゃない。
手負いのケモノ、手を出せばただじゃすまない。
決して手を出してはいけない、年を経た海域のヌシ。そんな錯覚がちらついた。
「俺、道具だ。道具、裏切らない。魔王、倒すまで」
「そ……そうかよ。さすが、勇者をぶっ殺してきたケモノは、言うことが違うな」
「気がすんだか、グリフさんよ」
いつの間にか、仔竜の顔が冷たく冴えていた。
ただのチビのドラゴンもどき、のはずだった表情が一変している。
「あの"魔王"相手にいっちょかみなんて、温い考えで立ち向かおうなんて奴は、この場に一人もいない。もちろん、俺もだ」
「その割には、軍師様なんて、後ろで控えの役を選んでるじゃねえか」
「だったら、アンタがやってくれよ。俺の代わりを」
シャーナの本性を見たときは、さすがに肝が冷えた。これこそドラゴン、寝物語に聞かされた凶悪な化け物だと。
だが、目の前のこいつは、シャーナさえちゃちに思えるような存在だった。
毒だ。触れただけで肉を腐らせる、毒の化身。
「知った仲を死地に送り、死なせるために物資を手配し、どんなに苦しくても、後ろで笑って策を出し、負けたら恨みを喰らって殺される。その頭と覚悟が、あるってんならな」
大潮のような、口元まで迫る、冷たい窒息の感覚。
その強烈な威圧が、唐突に遠のいた。
目の前の仔竜は、睨んでいない。それどころか、しおらしく頭を下げた。
「……ごめん――言いすぎた。グリフ、お前の気持ち、考えもしてなかったよ」
「え……」
「しばらく悠里と離れてたら、いきなり俺みたいなのがデカイ面してるんだ、不審に思うのも当然だよな。さすが悠里の一番の仲間だ。以後、気を付ける」
まるで、いきなり座ろうとした椅子を、寸前で引っこ抜かれたような感覚。あわててにらみを利かせるが、仔竜は穏やかに謝罪の姿勢を取ったままだ。
「司会進行を頼むよ、悠里。内容は全部知ってるだろ」
「ああ、わかった。その前に、グリフ」
そこで俺は、自分の失態を悟った。
俺たちのユーリは、侮辱することを許さない。それが誰でも、どんな相手でも。
「二度とだ。二度と、シェートと浩二を、悪く言うな」
後はもう、何もわからなかった。
聞き取れたのは、ユーリと一緒に、空飛ぶ船で魔王城に突入することぐらいだ。
それでも、俺は納得いかなかった。
会議前よりも、一層強い不安と嫌悪が、錨のように深く沈んでいく。
あいつらは、危険だ。
毒蛇と野のケモノ。
いつか、俺たちの勇者を殺し得る、災厄の化身だ。
「騙されねえぞ、俺だけは」