11、決戦前夜(後編)
ジェデイロ市外、東にある林に、シェートはたどり着いていた。
この辺りは町の者が薪や木の実を拾いに来る程度の小さなもので、すれ違った人々から、大げさに避けられたりもした。
「そら、脇、開けるぞ」
グートから鞍袋と鎧を外してやると、左腕の腕輪を取り去る。それを鞍袋へ入れて、適当な木の根方を掘り出した。
グートの前足にも手伝って貰い、自分の腰がすっぽり埋まるほどの深さになると、鞍袋を沈め、土を掛けていく。
『"英傑神"殿は、快く受け入れてくださった。後は、我々がこの地を去るだけでいい』
「そうか」
『ただ、私との契約は、魔王が倒されるまでは解くなと言われた。万が一があったときのために、とな』
だが、その万が一が起こってしまえば、この世界は終わりだ。
たった一匹のコボルトに、何ができるとも思えない。そうなるのであれば、せめて故郷で最期を迎えたかった。
『さすがに、鞍袋まで、今埋めずともよかったのではないか?』
「グート、窮屈、させた。俺、戦わない。だから、いいんだ」
よく見てみれば、自分が鐙を掛けた部分の毛が、だいぶ薄くなってしまっている。その部分を撫でてやると、星狼は顔を擦りつけてきた。
「帰ろう、グート。モラニアへ」
「うぉん」
鞍袋の代わりに貰った麻の袋を肩に掛け、林を出る。そこから見える都市の姿は、だいぶ歪になっていた。
自分の何倍も高い胸壁の上には巨大な弩が並び、手前の平原には、土や石で作った防塁が二重三重に積み上がっている。
そんな陣地の中に翻る旗は、騎士たちのもの。馬のいななき、鎧のぶつかる音、人と馬の生み出す濃密な異臭が、鼻を突く。
守りの陣地は、ようやく完成を見たらしい。
『さすがに、悠里殿へ礼を言う暇はあるまい。私から伝えておくから、そのまま北を目指そう』
「案内、頼むな」
『任せてくれ』
振り返らず、歩き出す。これからのことは、自分には関わり合いのないことだ。
もう自分は戦わない。いや、戦えない。そして、戦わなくていい。
「悠里、いい奴」
『そうだな』
「あいつ……勝てるか?」
サリアは答えなかった。むしろ、こんなことを問いかけた自分が、どうかしている。
何もしないと決めた以上、こちらが何を言えることもない。
だが、背後から走り寄ってくる気配を感じ、シェートは足を止めた。
共もつれず、たった一人でやってきた勇者の少年は、悲しげに問いかけてきた。
「挨拶もなしに行くなんて、酷くないか?」
「……お前、仕事、ある。俺、気にするな」
「そうじゃない。その、俺……」
相手が何かを言い出す前に、シェートはその動きを射貫くことにした。
「俺、ただのコボルト、戻る」
「うん……」
「だから、お前、勝て」
我ながらひどい一言だ。願うだけなら誰でもできる、そしてこの言葉こそ、目の前の勇者の青年に、最も効果的な一撃だった。
「魔王、いなくなる。コボルト、少し、生きれる」
「……分かった。必ず勝つよ。そして今度こそ、君のことを、みんなに知ってもらう」
「じゃあな、悠里」
後ろも見ずに歩き去る。
北の港町までは、歩きで二十日ほどかかる。その間に、適当な森で道具でも作ろう。
そうしてコボルトは街道を離れ、人知れず姿を消した。
気まずい思いをしつつも、仔竜はリィルのされるがままになっていた。
最初は怯えながら、今では昼夜の区別なく、ずっとそばにいる。朝起きてから夜寝る時まで、抱き上げて肌を寄せ、こちらを何度も確かめていた。
今では与えられた部屋からほとんど外出もせず、一日過ごすようになっていた。
「ほら、飯時ぐらいは放してやりな。死にそうな顔してるじゃないか」
「……ご、ごめんなさい」
三人と一匹で囲う食事の風景も、違和感は無くなりつつある。
リィルは自分の隣にこちらを座らせ、何かと構ってくる。それが愛情と罪滅ぼしのごたまぜなのは分かるが、赤ん坊のように扱われるのは、気恥ずかしかった。
「ところで、そろそろハッキリさせときたいんだけどね」
食事を終えると、エルカは目を猫のように細めて、尋ねてきた。
「アンタのことは、どう呼べばいい?」
「好きに、言っていいよ。俺はもう」
「ふざけるんじゃないよ。コウジって呼ぶたびに、背中が縮んでるくせに」
「さすがに我らも、あなた、ですとか、そちらの、などと呼びかけるのも、心苦しいものがありますので」
アクスルの方は、柔らかく笑う。こっちの騎士の方が鷹揚なのか、それとも周囲を暗くしないために、無理を押してやっているのかもしれない。
「正直、いつ帰るかもしれないんだ。というか、俺の正体が分かった以上、天界の方で」
『その事であれば、心配はありません。"刻の女神"の裁定は『問題なし』でした』
「いいのかよ、そんなので」
『文句を言うはずの神が、居なくなっていますからね。その手の罰則は、基本申告制による合議ですから』
いい加減なのか、権力によるご無体が横行しているのか。いずれにしろ、自分にはまだ猶予が残されているらしい。
『とはいえ、今の貴方の状況は、予断を許しません。何かの拍子に魂魄と肉体が拒絶反応を起こしかねない。特に、聲の使用などは厳禁です』
「取り越し苦労だよ。聲が使えてたなんて、信じられないくらいだ。それと、その貴方呼びも、やめてくれ」
『現状はともかく、貴方は主様の望んだ『転輪聖王』となった。であれば、対応も自然と変わります』
「聲も使えない、出来損ないの仔竜に価値なんてないだろ」
こちらの嫌味を気にすることもなく、天の赤竜は事実を淡々と告げた。
『抗体所有者候補となった魂魄のデータ、魂の形質は貴重です。そのサンプルを『人の形質を残したまま』神去に戻すこと、これが今の竜洞の使命です』
「ドラゴンになった状態じゃ、駄目なのか?」
『もし、竜種になった魂で戻った場合、貴方と地球との関係は『消滅』します』
それは、自分に課せられた最後の秘密。すでに小竜たちはこちらに、何も隠す気がなくなっていた。
『ドラゴンという『異物』に対し、神去がアナフィラキシーを起こす。その結果、貴方は神去から切り捨てられる』
「つまり、俺が、居なかったことになる、ってことか」
『肉親や兄弟、友人知人に至るまで、すべてが貴方という存在を『排斥』するでしょう』
その一言で、胸が強烈に締め付けられた。
今まで意識していなかったはずの、家族や兄の顔、友達や自分の過ごしてきた環境が、何もかも失われるという事への、強烈な恐怖がこみ上げる。
ドラゴンでなくなったことで、隠されていた人間の感情が、脳を締め付けていた。
「う……っ、ぐ……ふ、ぁ……っ」
「だ、大丈夫ですか!? ああ、ど、どうすれば!」
「ホントに、アンタら神はろくなことしないね! こんなことで生み出した神の力で、神去とやらが蘇ると思ってるのかい!?」
「『答えの切れ端』。そして『膨大な試行錯誤の一つに過ぎん、かもしれんもの』。それが主様の回答です」
すがすがしいほどに竜神は、予測と実証と『どうでもいい』精神の塊だった。
結論を急がない、成功を夢見ない、方程式に数字を代入して、その結果を基に新たなトライアル&エラーを続けていく。
その合理性に救われたと思ったこともあった。だが、それを突き詰めた先にあるのは、徹底的な効率主義だけだ。
「嫌にならないのか、こんなの」
『もしや、私たちの主様に対する態度を、ただのじゃれ合いと思っていたのですか?』
『そういう意味もあるけど、文句の一つも言わないと『やってらんねー』からだよ』
『笑えない状況こそ、笑い飛ばすほかはない。主様の合理主義に付き合うということは、そういう事さ』
ドラゴンとしての『脳力』だけは、まだ利用できた。だから、遠い昔にどこかで聞いた皮肉が、自然と口を突いていた。
「地獄への道は、善意で舗装されている、か」
『当たらじとも遠からじ、ですかね。主様も、友の故郷を復活させるという、善意で動いているのですから』
「おっさんにとっては、道路を敷くのに使う、砂利の一粒か。俺なんて」
特に答えは期待していなかった。小竜たちの言葉を借りるなら、言わなければやってられない、という奴だ。
だが、側にいた女の子にとっては、そうではなかった。
こちらの体を抱きすくめ、静かに泣いていた。
「砂利なんかじゃ、ないです。貴方は、私の好きな人です」
ため息をつき、それから彼女の手をさする。荒れ果てた手を、綺麗に治してあげたかったが、力は失われている。
やっぱり、自分はダメだ。
でも、今だからこそ、できることもある。
「浩二って、呼んでくれ」
抱き締める力が少し、強まる。
ゆっくりと、呼吸をしながら思いを吐き出す。
「こんな姿だけど、そう呼んでくれ。逸見浩二、それが、俺の名前、だったんだ」
「はい……コウジ、様」
「様なんて、つけなくていいよ」
彼女の顔を見上げ、浩二は優しく告げた。
「俺は、勇者でも何でもない、ただの――子供なんだから」
大きく不格好な体をゆすりつつ、彼は倉庫の中を歩いていた。
自分の伝手で、集まってきた大量の物資を、丁寧に検品していく。箱や樽の中味は、軍隊の維持に必要な食料や酒だ。
特に、暗黒大陸のドワーフたちは、世界の底が抜けたような大酒飲み。連中に動いてもらうためには、必要不可欠な戦略物資だ。
「へぇ、ふぅ、それにしても、どういう量らすけ。こらぁ」
貴族の居館を徴収した仮の倉庫。そのどこに行っても箱や樽がある。本来なら自分は、小さな荷馬車ひとつでどこにでも行く、そんな商売をしていたはずだ。
それが、どういう訳か、暗黒大陸と呼ばれたケデナにいる。
「……ほんと、おら、らしくもねえ」
商売人としては、うだつの上がらなかった自分。
仲間からはぼんくら、三流と笑われながら、それでもモラニアの狭い土地を行商し、他の大陸など思うこともなかったはず、なのに。
今や、ドワーフの連中と交渉し、その利益で莫大な物資と金を、右から左へと流せる立場になっていた。
何かがおかしい、何かが。
巡りの悪い頭の中で、それでも何かがおかしいと。
『"山奥に、雉の啼く声響く時"』
そいつは、箱の上に腰かけていた。
白い仮面と、灰色のローブで身を包んだ、何者か。
「"山狗は逸り、影の如く往く"」
符丁が、自然と口をついた。
そのまま、何気ない調子で自分も箱に腰を下ろす。
腰に下げた手拭いで顔を拭きながら、反応を待つ。
『我、問わん。獲物の導』
「陣容は『葉の影』。勇者の動きは『芥の中』に」
『承知。『山の端』に陰りは?』
「清明たるも村雲あり。『狗』と『蜥蜴』は逃散せり」
面を付けた影が、身じろぎする。それでも、それ以上の動きは見せなかった。
『委細承知。"影は去りぬ"』
そこで、商人はほっと一息をついた。
「まんず、気苦労耐えねえでらすなぁ」
目の前には仕事の山、近づいてくる魔王の城。考えることがありすぎて、自分の鈍い頭ではとても追いきれない。
「ああ、いかんでらす。気が付くと、腰降ろしておるの、歳くった証拠でらすな」
休憩などしている暇はない、仕事を片付けなくては。
狭くて窮屈な倉庫の中を歩きながら、商人はひたすら在庫を帳面に記し続けた。
壮行会は迎賓館の大広間を使って行われた。外に広がる扉を開放し、そこにもかがり火を焚き、長く伸びたテーブルをしつらえてある。
自分が市長になって二十年以上、これほどまでの盛大な宴席を整えたのは初めてだ。
いや、この先にもっと大きな戦が待っている。この都市が灰燼と帰するかもしれない、恐ろしい決戦が、目の前に迫っている。
だが見ろ、彼らの姿を。
「市長、そろそろ皆様に挨拶を」
促され、演壇へと歩んでいく間、自分を見つめる人々の顔を確認する。
見慣れた市庁舎の職員、大商人たち、都市防衛の衛兵長。みな自分に尽くしてくれた、良き部下たちだ。
「挨拶は手短に頼むぞ! 旨酒を前に、もう堪えがきかんわ!」
はやし立てるドワーフの長、その少し離れた場所で渋い顔をするエルフの長老。彼らとのさらなる共存も、この戦の後になるかもしれぬと思えば、ここで踏ん張りを効かせねばという思いが新たになる。
「諸君、謹聴せよ! 謹聴せよ! ジェデイロ市長、フルムルウ殿の言葉を聞け!」
赤の騎士団長が声を上げ、蒼の騎士団長が嬌声を制する。
これまで頑なに自分たちの領域を守るばかりだった騎士団も、この都市を守るべく旗を掲げてくれた。
「……ありがとう、みなさん。僭越ではありますが、壮行会の音頭を取らせていただく」
その全てをまとめたのが、私を見つめ、笑顔で頷く青年だ。
彼には感謝してもしきれない。四方に問題を抱え、誰も信じられぬほどに追い詰められた私を、この都市を、救ってくれた勇者だ。
「かつて、この都市はケデナという、脅威と困難のうごめく暗闇の如き場所に、灯火として建てられました。ジェデイロ――すなわち『灯台』と名を冠された。しかし、その炎は熾火となり、雨風に消えゆくところでした」
今やその火は再び燃え上り、四方を照らして人々を導くものとなった。この場にいる皆の顔を、希望に輝かせる光を見て、胸が熱くなる。
「ですが、今や我らは、互いの志を手に、高く希望を掲げ合う者となった! 暗闇を照らし、人々を導くものとなったのです! その要こそ、かの勇者であります!」
すべての視線が勇者に収束する。自分も自然と、そちらを見ようと、した。
「…………あ」
あらゆる目線が交差するはずの空間で、そこだけが空虚だった。
炎に照らされず、鎧の反射をかわし、銀器や食器の輝きさえも逃れ得る影。
無貌の白仮面をつけた、『灰色』の者。
そして悟った。
『今がその時だ』と。
「ではみなさん、盃を、お取りください」
静かにほほえみ、自分も杯を掲げる。みなが笑っている、笑顔に包まれている。
私は、言うべき言葉を、口にした。
「今こそ寿ぎましょう! 魔王万歳! 勇者に死を!」
そして、一息に盃をあおると、私は成すべきことを成す。
腰に吊るした短剣で、己の喉を――。
誰も、口をひらなかった。
その代わり、壇上の男だけが雄弁だった。自らの喉を貫き、痛みで体をのたうたせながら転げ落ちる。
「市長!」
それは自分の叫びか、それ以外の誰かだったか、悠里にはわからなかった。
ただ、分かることだけが一つあった。
地面にくずおれ、あらぬ方に首を捻じ曲げた市長が、もう死んでいることを。
「な、なんなんだ、なんなんだ、これは!?」
「市長の叫びを聞いたか! まさか、彼は裏切り――」
「何かの間違いだ! 市長は誰よりも魔王を、家族の仇を恨んでいて――」
それまで高揚していた人々が、互いを見回し、不信感をぶつけあっている。何かしなければ、自分に何かできることは。
『皆、落ち付いてほしい。この場で算を乱せば、魔王の思うつぼだ』
虚空に響き渡る"英傑神"の声に、混乱が静まっていく。さすがに、神の言葉は絶大で、こちらの動揺も静まっていく。
『この場よりは勇者の言葉に従いなさい。彼こそはこの場で唯一、魔王の姦計に染まっていないと言える者なのですから』
いきなり指揮権を丸投げされて気持ちがくじけそうだが、それでもやるべきことをしなくてはならない。
「みんな、市長の死体はそのまま! 彼は操られていた可能性がある。"繰魔将"の時を思い出してくれ! お互いを疑わせるのが、奴らの狙いだ!」
『なるほど。さすがは"英傑神"とその勇者、人心掌握の手際の良さは、折り紙付きだな』
その声は、空気全体に広がるようだった。
若くて張りのある、だが、確実に邪な感情を感じさせる、嘲りの声だ。
「ゆ、勇者殿! ご、ご報告を!」
会場の外から走り込んできた斥候らしい男は、館の外を指さしつつ、叫んだ。
「胸壁北方面、上空に……魔王城が!」
走り出て、空を見上げる。
星のない暗い夜空、その遥か北の中空に、不自然に浮かぶ岩の塊が見える。
それは質量を感じさせない軽やかさで、音もなくたたずんでいた。
『ごきげんよう、諸君』
皮肉気な笑い冴え見るような声で、そいつは告げた。
『俺は"魔王"。今宵、諸君らに絶望を届けに参った者だ』