7、たそがれに、誰ぞ哭く
微塵に砕けていく形見の剣を見つめて、エルカは虚脱していた。
見えていた結末、いや、見えていたよりはるかにひどい結末だった。
(ああ、計算違いばかりだよ、くそったれ)
全身を焼き貫いたコボルトの雷撃弾、盾も鎧も燃やし砕く炎の剣。
そして、あらゆる魔法を消去した力。
あんなものは情報になかった、人づてだが、かなり正確に能力を調べられたと思っていたのに。
いや、身をもって体験してきたじゃないか。
コウジの鎧や剣に始まって、大陸を統べる兵力を労せず生み出す少年、たった一枚の札で魔法使い数十人分の効果を生み出す『ゲーム』を編んだ少女。
このコボルトもまた、神の勇者なんだ。だとすれば、どんな奇跡やインチキが飛び出してもおかしくない。
「あ……あ、あぁっ、あああっ!」
まるで、生まれたての赤ん坊のように、柄だけになった剣を呆然と振り回すリィル。その痛々しい背中に、彼女の絶望した姿を思い出す。
夕暮れの中、おびただしい血にまみれた鎧と、岩に突き刺さった剣。勇者の墓標の前で泣く顔を。
『……探して、あのコボルトを』
神を崇める事しか知らなかった、貴族の娘は、その時に憎悪を知った。
『そして殺してください。あの忌まわしい畜生を!』
その憎悪はたちまち全身を侵し、彼女に剣を取らせた。
狂奔を見咎められ、彼女は実家から謹慎を命じられたが、家を抜け出して再び自分の前に現れた
『助力を、どうか。この財貨で足りなければ、私そのものを、自由にお使いください』
止められなかった。その憎しみのいくらかは、自分の中にもくすぶっていたからだ。
そこからは、ひたすらに茨をかき分け、泥沼を歩くような日々だった。
連れ戻しに来たアクスルを引き込み、昼はコボルトを求めて尋ね歩き、夕方には慣れない剣の修業。
見る見るうちに彼女はささくれ、世間知らずで夢見がちな姿は消えた。
いや、消えたのではない、穢された夢の代わりに、悪夢で遊ぶようになっただけだ。
「うわあ、ああああっ、あああああああああ!」
叫び、喚き散らすだけになったリィルを、コボルトは冷ややかに見つめるだけだった。
また間違ってしまった。
コウジに伝え損なった言葉を、リィルにも教えてやれなかった。
「もうやめな!」
その背中に取り付き、羽交い絞めにする。汗と血と、恐怖に堪えきれなかった下の臭いが、鼻を突く。
自分の罪業を抱き締め、エルカは叫んだ。
「アンタにも分かったろ、力の差が!」
「いやっ、いやっ、いやあああっ!」
「剣は砕けた! 決闘は終わったのです!」
前から抱きすくめる鎧の男。兜の隙間から、その目に涙がにじんでいる。こいつもあたしと同じ、リィルを止めたいと思いながら、仇を討ちたいという気持ちに負けた。
「決闘は終了しました。勝者は、コボルトのシェート」
「まだ終わってない、まだっ!」
食ってかかるリィルに、勇者の青年は心持ち冷えた顔で告げた。
「決闘の約束を、守ってくれなかったんですね」
「うるさい! そんなの知らない! あいつを殺すんだ!」
「試合場の仕掛けも、貴方が命じたんですか」
「あいつは勇者を罠にかけた! それをし返しただけだ!」
彼は顔を歪めたが、予想された罵倒は何一つ言わなかった。
その代わり、もっとひどい言葉を投げた。
「その姿を、振る舞いを、貴方の勇者が見たら、なんて言うでしょうね」
「――――っ!!!!!!!」
その途端、リィルがぱっくりと『裂けた』。
瞳を見開き、口は呪詛を撒き散らす、昏い穴に変わった。
「ふざ、けるなぁっ、なにが、英傑の神の勇者だ! おまえは会わなかっただけなのに!あのコボルトに会わなかっただけのくせに!」
去りかけていた観衆が驚いて振り返る。列最前にいた勇者の仲間たちが、明らかな怒りでこちらを睨みつける。
「私の勇者を何も知らないくせに! 奪われたこともない、ぬくぬくとした世間知らずのぼんくらめ! おまえなど勇者じゃない! おまえも殺されろ、いまいましい畜生に殺されてしまえ!」
勇者は怒らなかった、憤りもしなかった。だが、その顔には露わな悲痛が浮き上がっていた。それさえも押し隠し、背中を向けた。
「俺は、これ以上協力できません。もし、これ以上シェートを狙うなら、あなた方を、排除します」
「なぜ!? そいつは魔物なのに! 魔物を殺して魔王を殺して、世界を救うのが勇者ではないの!?」
「悪を糺し、正義を問い、善を布く。それが俺の――"英傑神"の勇者の在り方です」
「目の前の外道を見逃すのが、勇者の振る舞いか!」
振り返った悠里の顔にあったのは、強烈な意思だった。その目に射すくめられて、リィルが首を振りながら、後ずさる。
「正当な決闘を申し入れながら罠を仕掛け、仲介を頼んだ者に嘘をつく。今、止めるべきものがあるとすれば、貴方の無道です」
「うぐ……ああぁ……ぁ、あぁ……っ」
抱きとめたリィルの体が、萎えしおれていく。決定的な何かが、消えていく。
生暖かい体温から、生気が失せていくのが分かる。肉が生きながら腐っていくような感覚とともに、膝をついて彼女はうつむいた。
「……エルカ殿、傷は」
「死ぬほど痛いけど、生きてるよ。アンタこそ、ケガは」
「こちらも、武器と鎧を砕かれただけだ。私もお主も、手を抜かれていたのだろう」
こちらを見つめていたコボルトが、背を向けて歩き去っていく。その左腕に残った傷跡に気がつき、エルカは首を振った。
「違うよ。アイツは決闘をしに来たんだ。決められた約束通りにね。だから、アタシらがズルをするまで、力を使わなかった」
その指摘に、リィルの背中がびくりと跳ねた。
「アイツは最後まで、度を失わなかったんだ。アタシらが申し入れたとおり、武器を砕いて命を取らずに終えた」
「……つまり、約定を汚した我らの、完全な――」
言葉は最後まで続けられなかった。
伏せていたリィルが起き上がり、走り出す。
「うわあああああああああああああああああああっ!」
エルカの腰に鈍い痛み。吊り下げていた、藪払いの小刀が奪い取られている、鈍く光る一刀を構えた少女の体が、まっしぐらにコボルトへ突き進む。
「やめろリィル!」
「リィル殿!」
勇者の少年が腰の剣に手をかけ、驚いたコボルトがそれでも身構える。
二つの影が交錯する瞬間。
「ぐっ、あああああああああああ……っ!」
舞い降りた、三つ目の何かが、絶叫した。
何も考えられないまま、割り込んでいた。その行為を止めるために、後先など考えていられなかった。
「あ、っく……うぅっ!!」
青い背中に、痛みが走る。右の脇腹下、痛みが鼓動と共に浮かび上がり、フィーの全身に伝わって、体から力が抜けていく。
最初に反応したのは、その痛みを握り締めた存在だった。
「な……なんだ、なんなんだ、お前……っ」
その声はひび割れ、ざらつき、歪んでいた。
記憶にある原型を残しながら、止まない雨に打たれ、錆びついてしまった声だった。
「フィー……お前、なんで」
目の前のコボルトを見上げ、喉が締め付けられる。こちらを心から心配し、手を差し伸べようとしてくる顔。
その手を、払いのける。
力を込めたわけでもない、軽い衝撃。それでも、シェートの体がよろめき、しりもちをついた。
「じゃまを、するかぁっ!」
こじり入れられる鉄片から、激痛がほとばしる。それでも歯を食いしばり、肩越しに彼女の顔を振り返る。
知っている、その顔を知っている。でも、深い記憶の底にあった彼女とは、まるで別人だった。
髪は短くなり、日差しと埃と風雨にさらされて瑞々しさを失い、目じりと眉間に苦痛と憎悪で刻んだひびが入っている。
今もナイフで自分を刺し貫こうとしている手は、ささくれと血豆と、あかぎれでボロボロだ。
安物の革鎧も、目の粗い麻の服も、何一つ似合っていると思えなかった。
「ごめんな……こんなこと、させて」
「……え」
場違いな言葉にうろたえ、彼女の手がナイフを手放す。それを無理矢理引き抜くと、地面に放り捨てた。
「フ、フィー……血、けが……手当……」
振り向きたかった。こちらの身を案じてくれる声に、答えたかった。
でも、俺にはもう、その資格はない。
血が流れるのに任せ、地面に降りた仔竜は、彼女に歩み寄る。そして、彼女を止めうる言葉を口にした。
「コムナ村の宿」
「――え?」
「俺の部屋に来て、言ってくれたよな。勇者を守り、共に歩むのが、巫女の役目だって」
憎しみに歪んだ顔が、驚愕と疑念に変わった。視線の動きで、リィルが過去の記憶に思い至っているのは読み取れた。
彼女の目がこちらに注がれたのを見て、フィーは追憶の言葉を継いだ。
「魔王を倒したら、子供のころに住んでた屋敷に、案内するって言ってくれたよな。遠くにストラ山が見えて、雪解けの白と、春の花の取り合わせが、綺麗だって」
「ひ……あっ! ひ、あ、あっ、あ、あ、あ……っ」
瞳孔が開いて、顔から絶望以外の感情が消える。片膝を突き、頭を抱えようとして、両手にべっとりと付いた赤い血に、悲鳴を上げた。
「いやあああああああああああああっ! なんで、なんで、なんで、あなたが!」
首を振り、後ずさる。顔についている穴という穴から、液体を垂れ流しながら。
その悲惨な顔から眼をそらさずに、フィーは歯を食いしばりながら、それでも手を差し伸べて、一歩近づいた。
「ごめんよ、リィル。俺は、バカだ。君に、こんなことさせたなんて」
「やだ! やだ! いやだ、こんな、こんなのいやだ! やだ、やだ、やだ、やだ、いやだあああああああああ!」
その頭が後ろから抱えられ、魔法の光が意識を閉ざす。ぐったりとなった彼女の体を横たえると、真っ白な激怒の顔が、自分を見下ろしていた。
「――アタシの、出身は?」
「ここだろ。ケデナの、フランジって村だ。モラニアで勇者の、誰かに仕官すれば、楽に稼げるだろうって。城を出て、二日目の野営の時に――」
「もういいっ!」
いつでも冷静で、ひょうきんさを失わなかったエルカの顔が、完全な激情に染まっていた。シェートとの決闘の時さえ、浮かべていなかった表情で、こちらを射貫いた。
「なあ……聞かせてくれよ。アタシらのしたことは、なんだったんだ?」
「……っ」
「アンタにとっては、ただの遊びで、アタシらの気持ちも、思いも、なにもかも、どうでも良かったってのか!?」
「そんなこと、ないよ」
「だったら、そのザマはなんだ! 自分を殺したコボルトの隣で、仲間面することが、アタシらよりも大事だってのか!?」
目の前に勢いよく膝を突き、こちらの両肩を掴む。逃げることも、目を逸らすことも許さず、エルカは赤髪を燃え立たせて、絶叫した。
「アンタはアタシらの勇者じゃなかったのか!? 答えろよ、イツミコウジっ!」
ああ、夕暮れだ。
いつの間にか、もうこんな時間になっている。それにしても、ひどい耳鳴りがする、空全体が鳴っているみたいに。
シェートは呆然と、目の前の赤毛の女を見た。そうだ、こいつが今、何か叫んだんだ。
よく聞こえなかった。ひどい怒鳴り声で、耳鳴りがする。
「かえろう、――」
意味のない音が、口からこぼれる。
喉がカラカラだった。動き回ったから、決闘をするために動き回って、水分が足りてない。腹は空いていないが、そのうち元通りになるだろう。
飲んでいないし、食べていないから、声が出ないんだ。
「本当に、貴方なのですか――殿」
髭面の男は、兜を脱いでひどい顔を晒していた、苦し気で今にも叫び出しそうな、そんな気持ちをこらえているように見えた。
その手が、目の前の小さな青い体に触れる。
「やめろ、――、俺、――」
視界が歪んでいる。立ちたいのに、立ち上がって近づきたいのに、何もできない。
耳鳴りが、薄れていく。声が聞き取れる。でも、嫌だ。
聞きたくない。
「ああ、そうだよ」
振り返った顔には、表情がなかった。
見つめる目に、こちらに向ける感情はなかった。
仔竜は、こちらに向けて声を、打ち込んだ。
「俺の名前は、逸見浩二。"審美の断剣"の、元勇者だ」
なにが、なんだって。
耳鳴りはしない、何もかもはっきりと聞き取れる。風の音も、遠くの人のざわめきも、自分の心臓の音さえ。
だから、その言葉だって、はっきりと聞こえていた。
「……ごめんな」
日が暮れていく。何もかもが影に沈んで、その輪郭が暗がりに消えていく。決闘を挑んできた三人も、審判を務めた青年も、野次馬も取り囲む柵も。
仔竜が背を向けて、去っていく。
立ち上がった赤毛の女の後について、歩き去っていく。
夕闇に沈んだその顔を見ることは、できなかった。