5、風雲は急を告げ
スマホを変形させた観測器を掲げると、フィーは行動を宣言した。
「【サンダーボルト01】よりコマンドポストへ。現在、高度三千メートル、観測座標に到着。当方周囲の雲量は二、観測対象付近は三ないし四、これより敵要塞の観測を開始する」
『了解。コリオリ影響下による観測位置の変化、敵の電探に注意されたし』
ソールの口調は極めて冷静で心地がいい。わざと軍隊式の用語を使った応対や、コールサインを使用するのも、状況を客観的に見るための『儀式』であり、心に平静をもたらすための『術式』でもあると聞いていた。
「……要塞周辺、一キロ圏内、飛行魔による哨戒騎を確認。ワイバーンが一、僚騎と思しきグリフォンが二、スリーマンセル……四部隊、前回と同じく、三時間交代と思われる」
『了解した。前回、前々回の映像と照会する。他に変化は?』
「特に――いや、何か変だ。地上【ファイヤーワークス02】、大気成分の変化、十キロ圏内に土壌の異常振動、および敵斥候の存在は?」
フィーのはるか下、森の中で草や泥にまみれた赤い姿が、ぶるっと身震いをした。
そこは自分たちが上陸した港の東側、人の手が付いていない森と、丘陵が続く地帯であり、あの巨体を隠すのにちょうどいいと、選ばれた場所だ。
ギリギリという歯ぎしりと共に、強烈な不満と罵声交じりの聲が届く。
『すべて異常なし! その不愉快な綽名を付けた罪、このような汚い泥だらけにした罪、きっと贖ってもらおうぞ!』
「作戦行動中だ。感情を殺すぐらいしてくれよ、無能がすぎると勇者に嫌われるぞ」
『……この、この――っ』
「通信以外で、聲の使用禁止! 以上。ったく、これだからアホ地竜は」
ともあれ、状況の再確認は済んだ。
フィーは聲を震わせ、光学的に消える。それからいくつかの偽装を施しつつ、敵に向かって飛翔を開始した。
「【サンダーボルト01】、光学迷彩、並びに探知波吸収効果を展開。敵要塞へ近接行動に移る。【ファイヤーワークス02】周辺空域の、あらゆる変化を逐次報告せよ」
『貴様如き仔竜に、なんで吾が』
「仕事をしろよ、地竜の女王。天下星辰に比類なき、猛き大地の基――」
『りょ・う・か・い・だっ。勝手に"奉銘"を祷ずるな、厭味ったらしい仔竜めが!』
今回の作戦、実のところ下の地竜は必要ない。上のソールたちにフォローを任せるほうが、はるかに成功の確率が高まる。
魔王の偵察任務にかこつけた『岩倉悠里の切り札』の検証、それがこの活動の隠された任務だ。
『"英傑神"とて、我々の行動を予想しているでしょう。その上で、切り札を差しだしてきた意味は』
『知られても気にしない、ってとこだろーな。竜種でさえ、アイツにとっては、勇者のおまけなんだよ』
小竜たちの解釈はともかく、直に接した結果は『規格外』だ。
自分のような『チート行為』をせずに、恒星クラスの炎を扱える資質、こちらが伝えた聲や概念を、苦も無く操る知性。
性格に難があることを除けば、自分など足元にも及ばない。
知られたところで、こちらに勝つ目はないという自信の表れか。
「普通なら、だけどな」
フィーは嗤い、すぐに任務に集中する。
実のところ、竜洞の方はこちらの進言に従って『対魔王』と並行し、『対"英傑神"の勇者』への腹案を練っているらしい。
『見て驚くぜ? てか、笑うかもな。期待して待ってろ。最終決戦までには上がるから』
そんなことを思う間に彼我の距離は詰まり、流れていく雲の向こうに魔王の城が見え始めた。
以前、自分たちが昇った尖塔が、基部から撤去されたのは確認済みだったが、今回の変化はそれだけではない。
仮設の建屋がすべて撤去され、きれいさっぱり無くなっている。その上、中央に残った居館の周囲には土嚢が積まれていて、裏庭に当たる部分に、金属で出来たハッチのようなものが設けられていた。
「コマンドポスト、今から映像を送る。そちらの判断を乞う」
『了解した。……おい、グラウム、これは』
『あーらら、こりゃ『嫌な予感』が、完全に当たったな』
上の二竜が絶句し、回答をためらう。その間に、目の前の要塞が騒がしくなった。
哨戒中のワイバーンたちが、こちらを目指して飛来してくる。
『おいバカ仔竜! なにやらそちらに無数の『ハジケ』が飛んだ! それと、森の外から何奴かが引いてゆく!』
「チッ、警告が遅ぇんだよ! 【サンダーボルト01】撤退する!」
すべての偽装を解き、一聲で加速。急行して来た飛行魔が引き離されていくが、装備していた四角い箱のような物から、なにかが射出される。
それは白煙の尾を引き、こちらの全力を追い抜かすほどの加速で、まっしぐらに飛来してきた。
『【01】、緊急回避! 欺瞞分身展開!』
「くっそっ! あれ、痛ぇんだぞ!?」
体を横滑りに回転させながら、鱗の数枚を千切り飛ばす。空に舞った青い欠片がフィーの似姿になり、飛来したそれとぶつかり合った。
途端に、赤い爆炎が空中に花開き、空気圧がこちらの体をなぶる。
『石弓で魔法弾を射出する『ミサイルランチャー』もどきってか!? やっぱあいつ、やべーこと考えてんぞ、フィー!』
妙にうれしそうなグラウムの叫び。あの"魔王"が城内で『なにをしていたか』、これではっきりした。
歯を食いしばると、フィーは司令部に向けてコールを送った。
「【サンダーボルト01】、敵制空圏より離脱。地上部隊と合流後、帰投する」
気にくわない、だが、侮れない。
それが竜の峰の長としての、アマトシャーナが抱いた、気味が悪い仔竜への評価だ。
今も手元の奇妙な板切れに向き合い、何事か訳の分からぬことをしている。
あれ一枚で、文書の作成、視認した情景の精緻な保存、遠距離の者との意思疎通、そして正確な計測や計算を行うことを可能としている。
同じものを、吾が背も使っていただろうと聞かされたが、異世界の人間の潜在力も侮れぬものがあるようだ。
「いつまでやっておるのだ。敵は見た、必要な情報も得た、それでよいではないか!」
「黙ってろアホ地竜――っと、結果が出たぞ。やっぱり連中、全方位へ高出力のレーダー波を撒くことで、『不自然に何もない空間』を検出したみたいだな」
『文明未開の蛮族相手だからできる手か。レーダー網がある近現代じゃ、作戦行動を読まれるからって、勘定に入れない暴挙だぜ?』
何を言っているのかは分からない。だが、連中はこちらの知恵が及ばぬ領域まで見通して、得られる事柄をすべて、盗み取っていくつもりだ。
ガラクタだと思っていた有用な魔法の道具を、まんまと取り上げられる気分だ。
「貴様ら、それ以上、この地で妙な振る舞いをするでない! その薄汚い盗人の指が」
「お前の大事な勇者さまが、あっさり死んでもいいなら、今すぐやめるけど?」
「な、なに!?」
『詳しい説明は省きますが、今回の接触で、魔王軍には透明化による欺瞞作戦が通用しないと確定しました』
それは竜洞とかいう異質なドラゴンの聲だ。初めて連中の姿を見たときに、決して知られまいとした感情がこみ上げる。
未知の存在に対する、畏れ。
確かに形はドラゴンであり、強力な存在であると分かった。だが、連中にはその奥が、知られざる別の『容』が存在する。
あの港で、万が一この仔竜を殺していたなら、もしや吾の身は――。
(無用な怯懦ぞ! こんな者ども、何を畏れる必要がある!)
「姿を消す術か。確かに、人共の拙い魔術であればそうもあろう。だが吾が聲ならば」
『無駄です。如何なる欺瞞をしようと、いいえ、欺瞞を重ねるほどに、そこには『なにもない』という『なにかがある状態』が生まれる。連中はそれを検出するのです』
面倒な物言いだが、含意は分かった。そこにある者を無きが如く見せる、その繕いこそを連中は探すのだと。
「だが、そんなもの、素早く空を行き、術士共の目を搔い潜れば」
「アホ地竜」
「な、なに?」
「忘れたのか。それをやってたんだぞ、俺は」
腹立ちまぎれに、全身に被っていた泥土をふるい落とし、仔竜に跳ねかけてやる。
だが、そんなものなどまるで気にしない、いや、歯牙にさえかける暇もないほど、仔竜は真剣な顔で告げた。
「お前の足先ぐらいの大きさで、空の色に紛れる体色で、小鳥より素早く飛ぶ、どこにいるか分からない『一粒』を、正確に探せる目がある。ここまで言えば、そのうすら鈍い頭でも、意味が理解できるか?」
「ぐ……っ」
「俺の聲が、お前より未熟だからって言うなら、それでもいいぜ。大人のドラゴンが狩られるのは、相手を舐めてかかった時だそうだしな」
これ以上、余計なことは言うまい。
この仔竜の聲は異常だ。この齢で、鱗どころか腕や尻尾、翼の一挙動まで総動員して聲を操れるなど、聞いたことがない。
自分でさえ鱗目に聲を通したのは百を超えた辺りであり、峰の成竜でも、まともに使える者は十頭を下回る。
これでもし、吾と同じ年まで育ったなら。
このドラゴンを止められる者は、一匹たりともいないだろう。
「吾とて用心は心得ておる。吾が背の命に係わるなら、なおのこと。で、検分とやらは終わったのか?」
「終わるには終わったよ。あんたらにとって、重くてきつい報告になるだろうデータも、たっぷり集まった」
「では疾く戻るぞ。一刻も早く、背と睦み合いたい」
仔竜は手元の板を眺め、方角を定めている。その内容を見て、シャーナは思いついたことを口にした。
「そう言えば貴様ら、方々で怨恨を撒いておるようだな」
「ご忠告どうも。どんな評判かは直に聞いてるよ。それで、うちの勇者さまとは大違いって、いつもの惚気を始める流れか?」
「いやなに、今回は貴様の哀れなコボルトについての話だ」
ようやく顔色を変えた仔竜に満足すると、シャーナは口元を寛げた。
「吾が背が、忌々しい"魔将"を血祭りにあげ、街へ凱旋した折のこと。みすぼらしい雌がすり寄ってきたのだ。貴様のコボルトを仇と狙い、その始末に助勢せよ、とな」
「……な、なに!?」
「その雌と群れの一党は、ジェデイロに滞在しておる。例のコボルトを待つためにな」
「まさか、俺をシェートから引きはがすために!?」
その目に怒りを灯し、仔竜がこちらの鼻面まで浮かび上がる。焦げ付く大気の臭いを片手で払い、シャーナは呆れを吐き出した。
「戯け。吾が背を侮るな、仔竜。雌の言い分ばかりでは公正ではないと、助勢を断っておるわ。おそらく、当人同士で話をさせるつもりであろうよ。狼藉を禁じてな」
「そ……そうか。良かった」
「聞けば貴様ら、海を渡った大陸で、数多の勇者を喰ってきたそうだな?」
勝気で生意気な仔竜が、ここまでうろたえるのは、見ていて胸の空くものがある。
業腹な仕事を押し付けられたのだ、もう少し弄り回してもよかろう。
「その調子では、貴様らを仇と狙う者に、枚挙の暇もあるまい? 復讐の槍をかき集めたなら、さぞかし立派な居館の柱が出来上がるであろうなぁ」
「……うるせぇ、知った風な口を聞くな」
「例の雌など、はるばる海を越えた、モラニア貴族の娘と名乗っておったか。こんな遠国まで、ご苦労なことだ」
仔竜の顔から、感情が抜け落ちた。
こちらの頭蓋の内側まで覗き込むように、目が見開いて。
「――名前は」
「斯様なこと、吾が気にすると――」
「ドラゴンなら嫌でも覚えてんだろ! とっとと言えよ!」
「面倒な。たしか、リィルなにがしとか言う、地方領主の娘」
横殴りの衝撃が、シャーナの顔を吹き飛ばした。
攻撃ではない、目の前にいた仔竜が、大気のあらゆる要素を聲で操り、その結果に出来上がった『何もない空間』の反発に、顔が激しく揺さぶられた結果だ。
「っぐ、あぅ、ぶ、無礼な……っ!?」
文句をつけることさえできなかった。すでに仔竜は地平の彼方に飛び去り、姿を消している。しかも、出発点となった辺りの木がなぎ倒され、火の手を上げて燃えつつあった。
今から追いかけても、間に合わない。
そもそも、己を含めた地上に生きるすべての竜種の中で、あの飛翔を自ら発見できる者は、一匹もいないだろう。
「……バケモノめ」
そう吐き捨てるシャーナの体は、震えていた。
未知にして異形の、仔竜の底知れなさに。
宛がわれた天幕の中で、シェートは吐息をついた。
長椅子の上には水差しとカップ、地面はきれいに均されていて、土の地面がむき出しになっている。
出入り口の部分には覆いが掛かっていて、外の景色は見えない。左腕の腕輪を見て、狼の彫琢を指で撫でた。
『よし、完成っ! これが、この神器の最終形態だ』
ヘデギアスにいる間、フィーは"魔狼双牙"に更なる力を与えるためにいろいろやっていた。使い心地はそのままで、こちらの強さを引き上げるために。
『ただ、使い方には注意しろよ? 撃ち出すだけなら百でも二百でも行けるけど、宿す時間は、短い間にしてくれ。同時に使ったら……分かるよな?』
試しに使った感触は『強すぎる』だった。もちろん、実際の敵に使ったわけではないから、これから評価は変わるかもしれない。
でも、これはコボルトが持つには、強すぎる力だった。
『……もし、俺がいなくなっても、お前が生き延びられるように。もちろん、約束は覚えてるよ。でも、絶対は、ないからな』
フィーの懸念は、当たっていた。
むしろ、この戦いにあいつを巻き込むわけにはいかない。だからこそ、悠里から言われた時、決闘を承諾したのだ。
『彼女の気持ちも、分からなくはないよ。でも、身内を殺されたのはシェートだ! それに、俺たち勇者は厳密には死んでいるわけじゃない!』
悠里は必死になって、こちらの心配をしていた。本当にあいつは優しい。
でも、優しいからこそ、分かっていない。
『俺、勇者、怒った。理由、分かるか』
『……仲間や家族を殺されたんだ。当然だと、思う』
『そうだ。でも、それより、一点、された。嫌だった』
命としてではなく、地面に描いた一本の線として、喜びも悲しみも無視され、結果だけを記されたこと。
それが自分の、復讐の原点だ。
『だから、戦った。俺、一点、違うから』
『……まさか、君は』
『俺、戦った、勇者だ。経験値、違う。なら、仲間、戦う、逃げない』
悠里はそれ以上何も言わず、"英傑神"の言葉に促され、決闘の場を整えてくれた。それから今日まで、一言も口をきかなくなっていたが。
『いつか、こんな日が来るのではと、恐れていた』
サリアはずっと悲しんでいた。
それでも、こちらを否定するような言葉は、言わなかった。
『そしてこうも思っていた、お前は挑まれれば、逃げぬだろうと。たとえ愚かだと、誹られようとも』
『サリア、俺、バカ、思うか?』
『……誇るに決まっているだろう! そして、それが悲しいのだ』
もちろん、こちらの悲しみと損失を積み上げ、神の権力を盾として、相手を突っぱねることもできただろう。
だが、自分を命として見なかった者へ憤った自分が、ルールを押し付けるのは、嫌だ。
『せめてフィーが帰るまで待っても』
『駄目だ。フィー、待たない』
これは自分の問題で、あいつには何の関わりもない。
巻き込めないし、巻き込みたくない。
『竜たち、フィー、知らせるな』
『……了解』
『サリア、俺、駄目な時、フィー、ありがとう、言ってくれ』
『まさか、そなた……!』
「だいじょぶだ」
彼らに言った言葉を、ひとり呟く。
そして立ち上がり、外へと歩み出た。
「俺、決闘する。死ぬだけ、違う」
罰を受けて死ねというなら、受け入れる気はなかった。
だが、互いの意志を掛けて戦えというなら、それは別の話だ。
コボルトという最弱の種族に生まれて、初めて自分が手にした、他の生き物と並び立つことのできる場だった。
そして、シェートは小さく笑った。
いつから自分は、こんな風に考えるようになったのかと。
目の前に、あの忌まわしいケモノが現れたとき、全身の血が沸騰するかと思えた。
アイツが嗤ったのだ。
こちらの憎悪を、憤りを、悲しさを、全く意にも解さないかのような、気の抜けた顔をして。
「リィル、落ち付きな!」
肩を掴まれ、その相手を睨み、恥ずかしさに目を閉じた。
赤毛の魔法使い、エルカ・モーレッド。こんな無謀な旅に、文句を言いながらもついてきてくれた、力強い助力だ。
「ごめんなさい、エルカ。私は大丈夫です」
「だが、昨日は一睡もなされなかった。やはり今日は――いや、失言でした」
「アクスル殿、これが最後のわがままです。これが終われば、私はどうなってもいい」
鉄の鎧に身を固めた隻眼の騎士、アクスル・ゴウラスタ。フルグリット家に仕えた家人であり、幼いころから面倒を見てくれた人。
私の愚かさで左目を失ったのに、そのことは一言も口にせず、無謀な私を諫めつつ、剣を教えてくれた。
「駄目だよ。決死の覚悟ってのは、命を掛け金にして、勝ちを拾う時にするもんだ。こんなことをする人間が、破れかぶれに死を選ぶなんて、許さない」
「かのコボルトを討ち果たし、それでも生き続ける。それを誓えるならば、私もエルカもすべてを捨てて、立ち向かいましょう」
「……はい」
城塞都市、ジェデイロ。その南門の前に広がる空き地に、決闘場は作られた。
周囲には観客を遮る柵があり、戦いを一目見ようと人々が群がっている。その喧噪の何もかもがうっとおしく、白々しかった。
物見高い連中、この戦いの意義も、私の想いも知らぬまま騒ぎ立てる。
賭け札を売って、一儲けしようとした者もいたようだが、例の勇者が厳しく取り締まったらしく、表だってそのような様子はない。それだけが、唯一の救いだった。
「――介添人を務める、岩倉悠里です。双方、前へ」
それは、私の勇者と同じ土地から来た者だという。確かに似た雰囲気はあるが、その顔も振る舞いも、何もかも違っていた。
この決闘が始まる前、彼はくだらないことを言っていた。
『貴方の勇者は、今も俺の世界で生きているんです。だから』
『でも、この世界にはお帰りにならない。つまり、彼は殺されたのです』
なるほど、この街に滞在する間、彼の名声は聞いていた。
救世の勇者。魔物を打ち倒して人々の困窮を救い、不和をかこち嘆いていた異種族を和合させ、騎士たちに誇りを取り戻したと。
彼の忠言とやらも、それを裏付ける徳行の表れなのだろう。
だがその名声を、偉業を、善性を見せつけられるたび、心が搔き毟られるようだった。
(どうして、私の勇者は)
彼は、善良だった。
あのユーリとかいう青年と同じか、それ以上に。
(どうして、あの方は)
魔物を滅ぼして人々を救い、世を導く資質があったはずだ。
彼には神の恩寵があり、私には天啓があり、それに従う仲間があり、困難を打破した。
彼らと、何一つ変わるころは、ない。
(どうして、私たちは)
あの勇者と、彼のどこが違う。
いったいどこに、私たちのどこに、間違いがあったのか。
(私たちに、間違いなんて、ない)
違いはただひとつ。
目の前のこいつだ。
こちらの怒りを、憎しみを、意にも介さず、平然と立ちつくす、畜生のコボルトが、すべての間違いだ。
殺したいほどに憎い、憎い、憎い憎い憎い憎い、憎い敵。
違う。殺したいほど、ではない。
殺すのだ、こいつを。
「決闘に際しての約束を、忘れないでください。あくまで試合であり、殺傷を目的とした攻撃や魔法は、使わないことを」
ご立派な勇者さま。貴方は何もお分かりではない。
貴方はただ、この畜生のコボルトに、幸運にも出逢わなかっただけ。貴方もきっと、こいつにあったが最後、無惨に殺されていたはずだ。
「ええ、分かっています。約束は、守ります」
頼み込んで、この会場には己の武器を持ち込んでいる。聞けば、目の前の魔物もこちらが武器を持ち込み、相対することを承知したらしい。
その代わり、自分も手持ちの神器のみを使い、秘めた力は使わないと。
「……これより、"平和の女神"の勇者、コボルトのシェートと、"審美の断剣"の勇者、逸見浩二の遺臣、リィル・ユル・フルグリッドとの、決闘を行います」
ああ、なんと忌まわしい銘だ、よりにもよって"平和の女神"などと。実に皮肉で、実に唾棄すべき銘だ。
目の前のバケモノの振る舞いを知りながら、未だそんな銘を名乗っていられるなど、恥知らずな邪神め。
「決闘に際し、それぞれ扱う武器は一つ。破壊されるか、決闘場の外に弾き飛ばされた時点で、その者の負けとなります。また、相手が降参した場合、そこで決闘終了です」
私は負けない、絶対に。
彼の剣に誓って、剣に込められた、彼の無念に誓って。
思い出す、あの光景を。
河原の大岩に突き刺さり、夕日に照らされた彼の剣の輝きを。血まみれになって転がった鎧の残骸を、色あせて魔法の力を失った腕輪を。
悲しみに暮れた落日の記憶を。
「コウジさま、どうかお喜びください」
鞘から引き抜いた剣を構え、コボルトに向き直る。
今こそ、恩讐の一刃を、あの畜生に叩きこむことができるのだ。
「貴方の無念を、今、晴らしてごらんにいれます!」