3、勇者の輪郭
実に難儀なことだ。
そんな思いを心に抱えたまま、サリアは神の庭に降りていく。すでに"英傑神"はそこで待っており、歓待のために宴席が整えられていた。
自分の背後には、昔からいたかのような顔で、青い竜蛇の女性と白い小竜が付き従っている。
「お出ましいただき、感謝いたします。サリア―シェ様」
「……その、シアルカ殿」
席に付き、内心を抑えながら、本題を切り出した。
「歓待していただくのは、大変ありがたいのですが、その」
「これは僕の願いから発したものですので、このような座を整えるべきかと」
「"闘神"殿といい貴方といい、女性の扱いに、何か大変な誤解をお持ちのようだ」
宴席はむせ返るような花の籠と、薄絹の幔幕で飾られ、世話役の伴神たちが侍る。座卓や肘置きなどの調度も、精緻な細工が施されていて、控えめでありながら贅を感じるものがあった。
ただ、これらは大きな祭りや祝賀に用いられるもので、ただ二人のための席としては大仰にすぎる。
「私のような女神に、このような美々しい席は、身の丈に合いませぬ。"闘神"殿は、こうした贅ではなく、心映えを重んじるようにしつらえてくださったものです」
「なるほど……やはり、僕は未熟ですね」
照れくさそうに笑うと、それらを片付けさせていく。その素直で潔い振る舞いに、彼もまた武を司る神だという実感が湧いた。
「亡き妻にも『貴方は女性の扱いがまるで分っていない』と言われておりまして、未だもって、直らないようです」
「直る直らない、というのではなく、通り一辺倒というか、気のないことを無理を押して行おうとしている、ように見受けられますが」
「知己の女神、"愛乱の君"に、なんどもご指導賜ったのですが、もうしわけない」
それは確実に、師事する相手を間違っておられます。
口から出かけた残酷な指摘を飲み込み、サリアは彼の対面に腰を下ろした。
「シェート達は、南へ移動を開始したそうです。フィアクゥルも斥候として、北方洋上を目指したと」
「ご協力、感謝します。今回の魔王、一筋縄ではいかない相手のようですね」
歓待や饗応に関してはズレたところは多いが、こと戦に関して、青年神は冴え冴えとした知性を放つ。
手早く現地の様子を投影し、これまでのケデナにおける魔王軍の動きを、こちらに解説していく。
「ケデナは魔王軍によって侵略を受け、頑強な抵抗によってそれを跳ね返してきました」
「そのような激戦区を中心に、貴方は勇者を降臨させておられるようですね」
「ご存じの通り、我が勇者の神規は【万民の祈り】ただひとつ。それを機能させるため、必要な事です」
彼の勇者は、過酷な荒行をよしする聖職者のような試練にさらされる。
他の神々が蝶よ花よと、己の手ごまを甘やかすのに対して、あまりにも苛烈だ。
その神規こそがサリアの、彼に対する不信感の源だった。
「……その神規、私の目には、あまり良い物に映っておりません」
「理由を、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
「下賤な言い回しをお許しいただければ『お前たちを助けてやる、代わりにこちらへ信仰をよこせ』と、言っているようで」
「その通りです」
彼は否定しなかった。
それどころか、こちらの目を見つめて、微笑みさえした。
「崇敬と尊信を以て、神と民とは並び立つ。貴方の親神、"調停者"バルフィクード様の言葉でしたね」
「……貴方も、我が義父と懇意であったとか」
「ですが、現実はそれほど単純でもありません。聖句だけ、供物だけ、儀式だけを捧げ、心を置き忘れたまま、加護だけを乞う。そういう信徒も少なくありません」
確かに、それは事実だった。
自分の星にもそのような者がいたし、それでも心を砕き、神として良くあろうと、自らを律していた。
「それを踏まえれば、私の神規も、それほど脅迫的ではないでしょう? 勇者に救われても、感謝も信仰も捧げない、そんな選択肢があるのですから」
「……つまり貴方は神規を通じて、勇者に神の現実を伝えている?」
「人は惑いやすいものです。そのいとし子の、惑いや愚かさをも飲み下し、救いと導きを与えていくこと。それこそが勇者という存在を送り出す、意義なのではないでしょうか」
サリアは目を閉じ、彼の言葉を反芻した。
彼の意義は理解した。実のところ、遊戯に対する怒りや憎しみで目がくらみ、彼に対する評価を不当に下げていたかもしれない。
それでもなお、サリアは問いかけた。
「ですが、遊戯盤上の民草にとっては、その思いさえ独善でしょう」
「己が信念のため、いち早く救えるだけの加護を与えず、現地で救い主ごっこをさせている愚か者、ということですね」
「……申し訳ございませんが」
「ええ、それもまた正しい意見です」
そこまで尋ねてようやく、サリアは自分の愚かしさに気が付いた。
こんな問いかけは、それこそ私に言われるまでもなく、あらゆる神に、民草に言われ続けてきたことなのだと。
「では、その加護は、神器や奇跡を成す神規は、何から捻出されているのでしょうか?」
「……遊戯とは無縁の、市井の者たち」
「僕には、そんなこと許せなかった。それでも目の前に救うべき民がいる。なるほど遊戯は、悪しき機構です。でも、そんなことは関係なく、誰かが助けを求めているならば、嫌悪する仕組みに則っても、助けを行うべきと思います」
それは彼の信念、そして彼の願いだった。
何もかもを奪われ、泣き晴らし、世界を恨んだ自分。
英傑として世界を救うべく、信念を捨てずに、苦しみながら世界を救わんとした彼。
二つを引き比べれば、どちらが立ち勝るかは明らかだった。
「僕は、僕の過ちを誹る言葉を受け入れます。正しい言葉ですから。それは理想であり、理想とは掲げられるべき星です。でも、理想だけでは立ち行かぬこともある」
彼は何かをつかむように、虚空に手を伸ばす。
その掌には何もない。それでもなお、と。
「僕が理想を捨て、現実的な手段ばかりを追わないように、誹る声は必要なのです。その言葉に足を取られながらも、手を伸ばし、同時に目の前の苦しみを、少しでも減らしていくこと。それが僕の願いです」
「なるほど」
その言葉はため息と同じ意味だった。
まぶしかった、彼の信念とその力強い歩みが。そんな光り輝く彼の言葉は、過去の私にも、今のサリアにも、まぶしすぎた。
だからこそ、今思う至誠と態度を表明する。
「"英傑神"シアルカ、貴方を信頼します」
「ありがとうございます」
「ですが、今しばらくは、貴方を見定めさせていただきたい」
彼の言葉には、正当性がある。それでも、最後の最後で、決定的な決裂を見ることがあることも、思い知っている。
卑屈でありながら、ある意味清廉でさえあった小さき神が、成果を手に入れた瞬間に、我欲に塗れて堕ちたように。
「その代わり、彼の魔王を除くため、あらゆる協力を惜しまぬつもりです」
「……そこでひとつ、問いたいことがあるのですが」
酒杯を口に当てつつ、"英傑神"は当然とさえいえる疑念を問いかけてきた。
「彼の魔王と貴方の間に、何か因縁のようなものが、存在するのでしょうか?」
地上に降りて、カードの遊戯に興じたとき、"魔王"と自分は相対した。
その時に感じたのは、強烈な殺意と憎悪。まるで、こちらが自らの仇であるような、粘り付く、深い情念を感じていた。
その上、シェートが魔王城で相対した際、彼が自分の勇者であると知った時、暴走とも言える激怒のほとばしりを見せたという。
「……申し訳ございません。彼の者が私を恨んでいるとは存じておりますが、なにゆえそのように感情をぶつけられるかは、一切、心当たりがなく」
「なるほど。もしやその謎こそが、魔王の正体を探るすべなのかもしれませんね」
そもそも、自分にとって神と魔の争いは、千年以上にわたって『あずかり知らぬ』ことだった。遊戯が開催されてよりかなりの年月が経つが、自分が参加するのは、おそらくこれが最初で、最後になるだろう。
「ともあれ、今はそのことよりも、お願いしたいことが」
「……先だっては、シェートが"魔将"ベルガンダと盟を結んだところで、語り終えたのでしたね」
「よろしければ、その続きを」
そう言えば、"闘神"ルシャーバと、"英傑神"シアルカには、決定的な違いがある。
ルシャーバはシェートの今を見て良しとしたが、シアルカはシェートの過去と、その道程を知りたがっていた。
勇者たちを打ち破る勲は元より、それ以外の日々の生活、人々との交流のありさまを事細かに聞きたがる。
まるで、英雄物語をせがむ幼子のように。
「ずいぶんと、我がガナリのことを、気に入られたようですね」
「……ええ。恥ずかしながら、彼の道行は、とても興味深い。好もしい、と言えます。恐怖に打ち勝ち、知恵と機転で道を拓く……正直、嫉妬さえしそうでした」
「嫉妬、ですか?」
彼はきまり悪そうに笑い、手の中の酒杯をもてあそんだ。
「僕はもともと、遊戯への参加者に、現地のものを徴用したかったのです。ですが……それは、現地に混乱と不和を撒くと分かった」
「神に約束された、勇者を産みし国。そういうものが、人の権力抗争を招くためですね」
「その点、"異世界の勇者"という存在は、遊戯における数少ない美点です。可能な限り特定の国に与せず、そのまま退去させることも、『神権を授かった王』として、独自に国を興すこともできますから」
「……なるほど。貴方のこだわり、感じ取れた気がいたします」
彼の言葉を引き取り、その内に潜んだ答えを、サリアは指摘した。
「なんの支えもなく、己の意志で起ち、未来を切り拓く。そういう『自然の英傑』を、愛でられるのですね」
「……お笑いください。結局、僕も、神の傲慢に囚われているのです」
「なるほど。それは、なかなかに難儀なことですね」
サリアはため息をつき、それから背後の水竜に振りかえる。
彼女は少し思案し、小さく頷いた。
「私はただ、事実を語るのみです。シェートの道行を、その振る舞いのみを。彼の心情や背景を語る気はない、それを承知いただければ」
「構いません」
本来なら、"闘神"相手に敢行するはずだった、篭絡の作戦。シェートをだしにするのは気が引けたが、可能な限りの予防線を張って、交渉の材料に据える。
この神を味方に付け、万が一敵になっても良いよう、必要な情報を仕入れるために。
「では、僭越ながら、我が語りにお付き合いください」
水鏡の向こうで、悠里が炎を見つめているのが見えた。
すでに御者は眠りにつき、同行の勇者は毛布にくるまって安らいでいる。その表情を確かめ、毛皮の下に隠れた傷の一筋に、目を留めた。
最も弱き魔物に生まれ、一族を滅ぼされ、ただ一匹だけ生き延びた、コボルトの青年。
見張りを勤めている勇者も、ときおりその顔を見つめ、何かを思っているようだ。
「眠くないかい?」
『――ああ。先に仮眠させてもらったから』
悠里は、もてあそんでいた木切れを焚火に放り込み、新しい小枝を取った。
その動作を一区切りにするように、呟く。
『シェートは、すごいな』
「僕も、女神に彼の話を聞かせてもらっていた。同じ思いだ」
『……勝てる気がしない』
シアルカは笑った。
その言葉は戦う者が、立ち向かうべき相手に対して、真っ先に思う感想だからだ。
「勝つ必要はないはずだよ。僕と彼らは、共に歩むことができるのだから」
『ごめん。でも、なんていうか、俺は』
「分かっているさ。ちょっとした意地悪だよ、気負いこんだ勇者ほど、揺さぶってあげないとね」
そこで悠里はつくづくとため息をつき、手にした枝を足元に置き、刀を引き抜いた。
頭上に振り上げ、構えを取り、呼吸を整え、そのまま身じろぎしなくなる。
やがて、有るか無いかの動きで、じりじりと刃が振り降ろされていく。コマ送りの映像のような動作は、ちょうど中空に剣が掛かるまで続き、止まった。
『――父さんに叱られるな。雑念が多すぎるって』
彼は自分を過小評価しすぎる。まだ二十に満たない歳で、自分の在り方を裁定し、道を定めていけることこそ、勇者として十分な資質だ。
とはいえ、結局は彼の心の問題であり、こちらが請け負ったところで、気休めにもならないだろう。
「折を見て、シェート殿に手合いを申し込んでみるといい」
『……大丈夫かな。戦いは嫌いだって言ってたけど』
「彼を見極めるなら、必要なことだよ」
刀を納め、勇者は眠るコボルトを見た。
その目が突然、開いた。
『……起こしちゃった、かな』
『眠いか、悠里』
体を起こし、コボルトは悠里の傍らに座る。焚火をならし、新たに薪をくべて、それから水袋を差しだした。
『俺、寝ずの番、できる。お前、寝とけ』
『大丈夫! それに、君はお客さんなんだし』
『違う。俺、同盟した。悠里、命令する奴。疲れる、ダメだ』
コボルトの言葉はどこまでも端的で、理知的だった。
自分の立場を考え、弁えて、どう動くべきかを心得ている。それはきっと、狩人の経験から来るものなのだろう。
「心遣い感謝しよう、ガナリ殿。それでも彼は一軍の将になるべき者。これは悠里の仕事であり、重要な経験だ」
『……"英傑神"か』
「シアルカと申します。君の話は聞いているよ」
『分かった。何かある、起せ』
そのままシェートは毛布にくるまって、眠りにつく。これまでコボルトの生態に注目することはなかったから、その在り様は一層、興味を惹いた。
だが、その寝顔を見る悠里の顔には、好意よりも深い決意があった。
『俺は、シェートの助けになりたい』
「並大抵のことではないよ。君が想像する以上の困難が伴う。それに、聡い仔竜にも諫められていたはずだ」
『分かってる。それでも』
それは彼の信念であり、行動の原理だ。
世の中にあってはならない排斥を、無くすために。それが自分と計画を結ぶ時に語られた、岩倉悠里の願いだ。
『彼の行動を、存在を、みんなが認めるようになってほしい。少なくとも、彼には誰かを助けたいって気持ちがあるんだから』
「やれやれ、我が勇者殿は、頑固なことだ」
シアルカは頷き、助言を口にした。
「なら、まずは見張りを勤めよう。彼が安らいで眠れるように」
できることをできる限りに行う。やるべきに集中し、それ以外をひととき忘れる。それこそが、数多の英雄がたどった道だ。
「そして、向き合うといい、彼を取り巻く世界の全てと」
素直に頷く勇者に、"英傑神"は無言で微笑んだ。