第39話 身体の奥に、身体ではない場所
目の前に立つ漆黒の壁へ、レイナがそっと手を伸ばした。
刃で斬りつけるような物理的な壁ではない。
レイナの指先は、抵抗なくすっと黒い闇の奥へ沈み込んでいった。
「壊す必要はない」
レイナが静かに振り返る。
「ここは……入り口だ」
「入り口だと?」
アレクシスとノヴァが顔を見合わせる。
背後からは、追いついてきた白衛隊の甲高い足音が迫っていた。
「考える時間はなさそうだ」
レイナが躊躇なく黒い闇へ身体を押し込む。
アレクシスとノヴァも後に続いた。
すっ――。
一瞬。
視界が闇に包まれる。
ドクン。
……消えた。
足元から絶え間なく伝わっていた、力強い鼓動が。
生体組織特有の、生温かい空気が。
湿気が。
鉄の匂いが。
そのすべてが。
壁を通り抜けた瞬間に、嘘のように消え去った。
そこは。
静寂と冷たさだけが満ちる、無彩色の空間だった。
「……なんだ、これは」
アレクシスが拳を握り締め、違和感に眉をひそめる。
「……息はできる。だが、生き物の中にいる感じがしない」
横では。
ノヴァが携帯解析機を操作していた。
画面を見つめたまま、顎に手を当てる。
「ノヴァ。何か映っているか?」
「……反応がないよ」
「故障か?」
「いや。動いてる」
ノヴァが解析機を軽く振った。
「測れるものがないんだ」
「測れるものがない……?」
「僕らの感覚は正しいよ」
ノヴァの声から。
いつもの軽さが消えていた。
「カナタ君の身体の中なのに」
一度、周囲を見回す。
「ここはもう、医学的な『身体』じゃない」
その時。
背後の黒い壁が、かすかに波打った。
〈停止!〉
壁の向こうから、白衛隊の号令が響く。
〈これより先は管轄外!〉
〈境界を封鎖!〉
〈外来異物が戻った場合は捕縛する!〉
アレクシスが振り返った。
「お前たちも入れないのか!?」
〈入れない!〉
「何がある!?」
〈知らん!〉
「知らんのか!?」
〈我々は身体を守る部隊だ! 身体じゃない場所のことは知らん!〉
「堂々と言うな!!」
アレクシスが叫ぶ。
少し間を置いて。
さらに声を張り上げた。
「というか、結局帰りは捕まえるのか!?」
〈当然だ!〉
「筋が通っているのか狂っているのか分からん連中だな!!」
白衛隊は壁を越えてくる様子もなく。
境界を固めるように、その場から引いていった。
「……追手は来ないみたいだね」
ノヴァが黒い壁から視線を外す。
「行こうか」
三人は。
音のない無彩色の通路を奥へと進んだ。
黒。
白。
それ以外の色がない。
生体都市にあった柔らかな曲線も。
脈打つ壁もない。
代わりに。
直線的な構造物が、静かに並んでいる。
「……不気味だな」
アレクシスが辺りを見回す。
「誰もいないのか?」
「少なくとも、ここからは見えないね」
さらに進む。
やがて。
三人の前に。
巨大な黒い門が姿を現した。
「……門?」
アレクシスが足を止める。
門の中央には。
一筋の白い亀裂が、縦に走っていた。
近づいた瞬間。
亀裂の周囲に、淡い文字が浮かび上がる。
《認識照合》
「認識……?」
アレクシスが眉をひそめる。
「試してみれば分かるんじゃない?」
「お前は何でも試させようとするな」
「世界第二位なんだから大丈夫だよ」
「理由になっていない!」
そう言いながらも。
アレクシスが真っ先に門の前へ立つ。
「俺からだ」
大きな手を。
黒い門へ触れさせた。
ピピッ。
白い文字が浮かぶ。
《照合――本体が信頼する戦士》
「……」
アレクシスの口元が。
ほんの少しだけ緩んだ。
「ふむ」
だが。
直後。
《通行権限――不足》
「なっ……!?」
アレクシスが目を見開く。
「信頼されてるのに駄目なのか!?」
「信頼と通行権限は別みたいだね」
「嬉しそうに言うな!」
「次は僕かな」
ノヴァが前へ出る。
細い指先で。
門へ触れた。
ピピッ。
《照合――治療目的の協力者》
《通行権限――不足》
「僕も駄目か」
ノヴァが肩をすくめる。
「厳しいねえ」
「お前も駄目ならどうするんだ?」
「あと一人いるだろ?」
二人の視線が。
同時にレイナへ向いた。
「……私か」
レイナが門の前へ立つ。
だが。
手を伸ばしかけて。
その指が、わずかに止まった。
「どうした?」
アレクシスが尋ねる。
「……いや」
レイナは。
門に浮かぶ《認識照合》の文字を見つめた。
認識。
その二文字に。
嫌な記憶が蘇る。
『私は女だ』
『はい』
『では私は?』
『レイナさんの妹さんです』
『ではレイナは?』
『男性です』
『だから違う!!』
「……」
何度訂正しても。
何度説明しても。
フードを外した自分は。
カナタの中では、別人だった。
だが。
つい最近。
『あ、レイナさん』
当たり前のように。
そう呼ばれた。
『レイナさんはレイナさんですよ』
初めて。
素顔の自分を。
まっすぐ自分として見てくれた。
「……」
レイナが小さく息を吐く。
「大丈夫だ」
「何が?」
「なんでもない」
誰に言うでもなく呟いて。
今度こそ。
黒い門へ手を置いた。
ピピッ。
《照合開始》
文字が止まる。
一秒。
二秒。
三秒。
「……長くないか?」
アレクシスが眉をひそめる。
その瞬間。
ビーッ!!
ビーッ!!
「っ!?」
けたたましい警告音が響き渡った。
「何だ!?」
アレクシスが反射的に大剣へ手を伸ばす。
ノヴァも門を見る。
その中央。
新たな文字が激しく明滅していた。
《認識情報――矛盾検出》
《照合継続》
「……矛盾?」
ノヴァが目を細める。
ビーッ!!
ビーッ!!
警告音が鳴り続ける。
だが。
レイナだけは。
門へ手を置いたまま動かなかった。
「……」
その表情が。
ほんの少しだけ曇る。
「レイナ?」
「……やはり」
「何?」
レイナが小さく目を伏せた。
「私は、カナタの中では――」
ピンッ。
突然。
警告音が止まった。
「……?」
静寂。
点滅していた《矛盾検出》の文字が消える。
そして。
《照合完了》
一拍。
続いて。
《最重要外部個体》
「……」
レイナが固まった。
「……え?」
アレクシスも。
ノヴァも。
表示を見る。
「最重要……?」
レイナが呟く。
「待て」
アレクシスが目を丸くする。
「なぜお前だけ扱いがおかしいんだ!?」
ドォン――!!
答えるより先に。
重厚な音が響いた。
巨大な黒い門が。
左右へ。
ゆっくりと開いていく。
その向こう。
広大な黒と白の広場。
直線的な建造物。
そして。
そこに。
無数の黒衣を纏った者たちが立っていた。
「……!」
アレクシスが反射的に大剣へ手を伸ばす。
だが。
黒衣の者たちに。
攻撃の気配はない。
一人。
また一人。
中央に立つレイナへ顔を向ける。
ザッ――。
次の瞬間。
全員が。
一斉にその場へ深くひれ伏した。
「……?」
レイナが完全に固まる。
アレクシスも。
ノヴァも。
言葉を失った。
黒衣の者たちの視線は。
ただ一人。
レイナへと向けられている。
そして。
揃った声が。
静寂の広場に響いた。
〈お待ちしておりました〉
(第39話・完)




