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プロローグ

東京の春は、朝人が思っていたより少し冷たかった。


 四月。


 大学の入学式を終えた帰り道、朝人は巨大な駅の人混みに飲まれながら、ぼんやり空を見上げていた。


 地方の町とは、何もかもが違う。


 電車の本数。


 人の多さ。


 ビルの高さ。


 駅の複雑さ。


 歩いているだけで疲れる。


 でも同時に、少しだけ嬉しかった。


 本当に、自分は大学生になったのだ。


 新しい生活が始まる。


 そう思うと、不安の奥に小さな期待もあった。


 問題は、住む場所だった。


 合格発表のあと、父と一緒に何件か部屋を見て回ったものの、大学の近くは家賃が高かった。


 結局、少し離れた駅を選ぶことになった。


「大学まで電車で四十分くらいなら普通ですよ」


 不動産屋の男性は軽い調子で言った。


 朝人には、その“四十分”がずいぶん遠く感じた。


 けれど他に選択肢もない。


 何件目かの内見のあと、不動産屋が少し困ったように笑った。


「最後に、ちょっと変わった物件あるんですけど」


「変わった?」


「古いんですよ。かなり」


 案内されたのは、住宅街の奥にある洋館風アパートだった。


 蔦の絡まる外壁。


 木製の階段。


 アンティーク調のランプ。


 まるで古い映画のセットみたいな建物だった。


「……すごい」


 思わず声が漏れる。


 古い。


 でも嫌な古さじゃない。


 静かで、不思議と落ち着く空気があった。


「人気はあるんですよ、このアパート」


 不動産屋はそう言ってから、少しだけ曖昧に笑った。


「まあ、合う人と合わない人がはっきり分かれる感じで」


「合う人と?」


「古い建物なんで、好き嫌いあるんです。静かすぎるっていう人もいますし」


 朝人はもう一度、蔦の絡まる外壁を見上げた。


 たしかに古い。


 でも、嫌な感じはしなかった。


 むしろ、どこか安心する。


「それに管理人さんがずっと住んでるので、結構しっかりしてますよ」


 不動産屋がそう言った、その時。


 玄関の奥から、小さな足音が聞こえた。


「こんにちは」


 振り返った朝人は、一瞬言葉を失った。


 小柄な女の人だった。


 年齢は自分より少し上くらいに見える。


 柔らかそうな黒髪。


 白い肌。


 穏やかな笑い方。


 派手ではないのに、妙に目を引く。


「こちら、管理人さんです」


「あ、どうも……」


 朝人は慌てて頭を下げた。


 彼女は少しだけ笑った。


「入居希望の子?」


「はい、大学生さん。感じ良さそうな子ですよ」


 不動産屋がそう言うと、彼女は朝人をじっと見た。


 その視線は優しいのに、不思議と落ち着かなかった。


 見透かされているみたいな感覚。


「ふーん」


 小さく呟く。


「なんか、素直そう」


「え?」


「あ、気にしないで」


 くすっと笑う。


「管理人の、あきらです」


「朝人です……」


 名前を言った瞬間、なぜか少し緊張した。


 あきらさん。


 不思議な名前だな、とぼんやり思った。


    *


 部屋は想像よりずっと良かった。


 古いけれど綺麗に掃除されている。


 窓が大きく、春の光が柔らかく入る。


 木の床も、少し軋む音も、妙に心地いい。


「ここにします」


 気づけば、朝人はそう言っていた。


 父も少し驚いた顔をしたが、「まあ本人がいいなら」と頷いた。


 契約のあと、不動産屋と父が先に帰り、朝人は一人で荷物を整理していた。


 夕方になり、少し疲れて廊下へ出る。


 すると、一階の管理人室から甘い匂いが漂ってきた。


「あ」


 扉が半分開いている。


 中では、あきらさんが何か焼いていた。


「クッキーですか?」


 思わず聞くと、彼女は振り返って笑った。


「うん。焦げそうだから見てて」


「え、俺が?」


「新入りの仕事」


 朝人は少し慌てながらオーブンを見る。


 あきらさんは、その横で楽しそうに笑っていた。


 不思議だった。


 初対面なのに、緊張するのに、なぜか居心地が悪くない。


 やがて焼き上がったクッキーを、彼女は皿に乗せて差し出した。


「はい、入居祝い」


「ありがとうございます」


 一口食べる。


 甘かった。


 少しバターの香りが強くて、温かかった。


「おいしい?」


「……はい」


 そう答えると、あきらさんは満足そうに目を細めた。


 春の夕方の光が、その横顔を柔らかく照らしている。


 朝人はなぜか、その光景から目を離せなかった。


 このアパートに決めてよかった。


 その時、ふとそんなことを思った。

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