沈黙の鞘 その1
ラザリスの空の下。
王都への旅支度が進められていた、ある時のこと。
カフェ『KIRABOSHI』の裏庭では、オタクミたちが今日も騒がしい声を上げていた。
推しへの愛を詰め込んだ痛馬車。
王家の威厳を象徴する、黄金の馬車。
まるで相容れない二つの価値観が、この場所でぶつかり、そして奇妙な形で結びつこうとしていた。
オタクミなら、きっとこう言うだろう。
「これぞ運命の結合!」
……と。
だが。
そんな騒動の中、オタクミの腰に帯びられた一振りの鞘は、いつになく静かだった。
その鞘には、ゴルドスが宿っている。
オタクミが時折「鞘神」と呼ぶ、あの騒がしい同行者である。
普段であれば、黙っていられるはずがない。
『オタクミ殿! その装飾はさすがに主張が強すぎるでござる!』
『いや、待つでござる! そちらはもう少し慎重に扱うべきでござるよ!』
そんな脳内ツッコミが飛んできても、おかしくない。
しかし、この時ばかりは返事がなかった。
ゴルドスが何も考えていなかったわけではない。
むしろ、その逆だった。
彼は今、地上の騒動に応じることもできないほど、別の存在へ意識を向けていた。
オタクミたちの暮らす世界から、遥かに隔たった場所。
神側の領域。
そこで、ゴルドスは一人の訪問者を待ち受けていた。
◇
光と闇が入り混じる空間。
果ては見えない。
空もなければ、大地と呼べるものもない。
ただ、足元から遥か彼方まで、白と黒の市松模様が続いていた。
それは、巨大な盤面だった。
神側の存在が、世界の動きを見つめる場所。
無数の駒が置かれた光景は、まるで世界そのものを一局の勝負として表しているかのようだった。
国家。
都市。
英雄。
怪物。
そして、人間たち。
それぞれを思わせる大小さまざまな駒が、盤面に散らばっている。
その中央に、一人の男が立っていた。
「……ふむ」
純白の衣を纏った存在。
地上で鞘に宿り、オタクミに軽口を叩いている時とは、まるで雰囲気が違う。
その立ち姿には、神側の存在としての静かな威厳があった。
見習い神候補――ゴルドス。
彼は腕を組み、眼下の盤面を見下ろしていた。
「……変わったものだ」
独り言のように呟く。
彼の視線が向かっているのは、辺境の街ラザリスを示す一角だった。
そこには、小さな光があった。
以前よりも、確かに明るくなっている。
白い輝きが、黒く沈んでいた周囲の模様を少しずつ照らしていた。
まるで、夜明けの光が差し込むように。
「……オタクミ殿」
ゴルドスの声が、わずかに和らいだ。
思い浮かぶのは、あの騒がしい少女の姿だった。
推しのためなら、どこまでも突っ走る。
高価なものより、好きなものを選ぶ。
誰かが価値などないと言い切ったものにも、平然と目を輝かせる。
そして、いつの間にか周囲まで巻き込んでしまう。
「……まったく、無茶苦茶な御仁だ」
ゴルドスは、かすかに笑った。
彼の知るオタクミは、英雄らしい英雄ではない。
世界を救う使命を掲げているわけでもない。
立派な理想を説き、人々を導こうとしているわけでもない。
ただ、自分の好きなものが好きなのだ。
それを隠さない。
誰かに笑われても、簡単には手放さない。
そして、その姿を見た者が、時に自分自身の気持ちを思い出す。
ラザリスで起きた変化も、そうした小さな出来事の積み重ねだった。
絵を描く者がいた。
それを喜ぶ者がいた。
自分には価値がないと思っていたものを、別の誰かが大切にすることもあった。
そのひとつひとつが、盤面では柔らかな光となって表れているように見える。
「……創生エネルギー、か」
ゴルドスが呟く。
人間の想像力。
何かを作りたいという願い。
誰かを好きだと感じる心。
それらが、世界に何らかの変化をもたらしている。
少なくとも、ゴルドスにはそう思えた。
だが、その仕組みのすべてを理解しているわけではない。
なぜ、人間の心がこれほどの変化を生むのか。
その力が、どこまで広がっていくのか。
答えは、まだ出ていなかった。
「……それでも」
ゴルドスは目を細めた。
「確かに、何かが変わり始めている」
ゴルドス自身が、オタクミをこの異世界へ導いた。
あの時、彼は自らの意思で、その選択をしたのだ。
そして今も、その選択が何をもたらすのかを見届けている。
結果は、まだ分からない。
正しかったと胸を張れる日が来るのかも、分からない。
だが、少なくとも。
オタクミが誰かの心を動かしてきたことだけは、確かだった。
その時。
「――ごきげんよう、ゴルドス」
鈴を転がすような声が響いた。
ゴルドスの表情が変わる。
目の前の空間に、細い亀裂が走った。
パキリ。
硝子にひびが入るような音。
白と黒の境界が、わずかに歪む。
そこから、一人の女が姿を現した。
光を一切反射しない、漆黒のドレス。
美しく整った顔立ち。
優雅な立ち居振る舞い。
そのすべてが、目を奪うほど洗練されていた。
だが、彼女の瞳には、触れる者を凍らせるような冷たさが宿っている。
邪神マリス。
彼女が一歩踏み出すと、足元の白い模様が、インクを垂らしたように黒く滲んだ。
「……マリス」
ゴルドスが低く名を呼ぶ。
マリスは、口元へ扇を当てた。
「あら。ずいぶんと怖いお顔ですこと」
「お主がわざわざ姿を見せたのだ。警戒もする」
「ふふ。ご挨拶ですわね」
マリスは肩をすくめた。
「旧知の間柄なのですから、もう少し歓迎してくださってもよろしいのではなくて?」
「歓迎されるような用件で来たとは思えぬがな」
「……まあ」
マリスの笑みが、ほんの少し深くなった。
「相変わらず、可愛げのないお方」
ゴルドスは答えない。
ただ、盤面へ視線を落とす。
ラザリスの周囲では、白い光が静かに揺れていた。
マリスも、その視線の先を追った。
「……なるほど」
彼女は、ゆっくりと扇を広げた。
「ずいぶんと、ご満悦のご様子ですわね」
「何のことだ?」
「とぼけなくても結構ですわ」
マリスが盤面を指す。
「最近、ラザリスがずいぶんと騒がしいではありませんか」
彼女の声には、甘さがあった。
だが、それは決して温かいものではなかった。
「絵を描く者が現れ、取るに足らない品をありがたがる者が増え……」
指先が、盤面の小さな光をなぞる。
「挙げ句の果てには、王家まで巻き込んで、妙な文化を広めている」
「妙な文化、とな」
「ええ」
マリスは微笑んだ。
「同人、推し、尊い……でしたかしら?」
一つひとつ、口にする。
まるで、理解できない異国の言葉を試しているかのように。
「実に不思議ですわね」
マリスは首を傾げた。
「値打ちがあるから欲しがるのではなく、欲しいと思ったから値打ちがあると言い張る」
扇が、ぱちんと閉じられた。
「順序が逆ではありませんこと?」
ゴルドスは、静かに応じた。
「そうとは限らぬ」
「……あら?」
「誰かが定めた値が、その者にとっての価値のすべてとは限らぬ」
マリスの目が、わずかに細くなった。
「……また、そのお話ですのね」
「何度でも言おう」
ゴルドスは、盤面へ目を向けた。
「人間は、値札だけを見て生きているわけではない」
その言葉に、マリスは小さく笑った。
「ふふ……」
そして。
「だから、あなたのやり方は気に入りませんのよ」
声の温度が、すっと下がった。
◇
マリスが長い指を伸ばした。
その先には、ひときわ大きな駒があった。
王冠を戴く、女王の駒。
アストリア王国を示す領域に立っている。
黒と白が入り混じり、複雑な光を放っていた。
「……ご覧なさい」
マリスが囁く。
「これは、かつてわたくしにとって、非常に都合のよい存在でした」
ゴルドスは、黙ってその駒を見つめる。
「富。権威。希少性。人が容易には手にできないものを持つ者には、価値がある」
マリスは続けた。
「そうした考え方を支えるには、実に象徴的な存在だったのです」
女王の駒は、以前とは異なる光を帯びていた。
黒い部分は消え去ったわけではない。
だが、その奥から、確かに白い輝きが差している。
「それが、今ではどうでしょう?」
マリスの声に、苛立ちが滲む。
「あのような品々に夢中になり、惜しげもなく財を使い……」
扇の先が、盤面を軽く叩いた。
「誰かが描いた絵や、形にした想いを、大切なものとして扱い始めている」
「……ロザリアのことか」
ゴルドスが問う。
マリスは、答える代わりに薄く笑った。
「女王という立場にありながら、随分と愉快なことですわ」
彼女の指先が、女王の駒へ近づく。
「かつては、価値あるものを選ぶ立場だったはず」
そして、吐き捨てるように言った。
「それが今では、自分の好きなものに価値を見いだす側へ回っている」
「……それの何が悪い?」
ゴルドスの声は静かだった。
マリスの手が止まる。
「……何ですって?」
「彼女は、自分で選んだのだろう」
ゴルドスは、女王の駒を見つめた。
「何を大切にするか。何に心を動かされるか」
わずかに間を置く。
「オタクミ殿が、彼女の意思を奪ったわけではない」
マリスの瞳から、笑みが消えた。
「……あなたには、そう見えますの?」
「少なくとも、儂にはそう見える」
「ふふ」
マリスは、ゆっくりと扇を開いた。
「ずいぶんと、都合のよい見方ですこと」
彼女は、女王の駒から指を離した。
「人は弱い生き物ですわ」
その声には、不思議な確信があった。
「孤独を恐れ、失うことを恐れ、誰かに認められることを望む」
マリスは微笑む。
「そこへ、甘い言葉を差し出せば、いくらでも心は揺れます」
「……だから、揺れた心に価値はないと?」
「価値がない、とは申しませんわ」
マリスは即座に答えた。
「ただ、その程度のもので、長く積み上げられてきた秩序を覆そうというのが、愚かだと申し上げているのです」
彼女の足元で、黒い模様が波打つ。
「値がつくものには理由があります」
扇が、静かに閉じられた。
「力がある。希少である。誰かが必要とする。手に入れるためには対価が要る」
ひとつずつ、確かめるように言う。
「そうしたものを無視して、『好きだから』の一言で価値を語る」
マリスは、かすかに眉を寄せた。
「それでは、何もかもが曖昧になってしまうではありませんか」
ゴルドスは、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……マリス」
「何かしら?」
「お主は、値がつかぬものを恐れているのではないか?」
マリスの扇が止まった。
ほんの一瞬。
だが、それは確かな沈黙だった。
「……おかしなことを」
「値段をつければ、比べられる」
ゴルドスが続ける。
「比べられれば、序列もつけられる。誰が上で、何が下かを決められる」
盤面の光が、静かに揺れた。
「だが、人が心の底から好きだと思うものは、必ずしもその序列に従わぬ」
「……」
「誰も欲しがらぬものを、宝物にする者もいる」
ゴルドスの脳裏に、オタクミの姿が浮かぶ。
大事そうに抱えられた推しの品。
傷ひとつつけまいとする刀身。
誰かに笑われても、手放そうとしない思い。
「他人には分からぬ理由で、涙を流す者もいる」
その声は、いつしか柔らかくなっていた。
「それを、間違いだと決めつけることはできぬ」
マリスは、冷ややかに見つめていた。
「……美しいお話ですこと」
そして、唇を吊り上げる。
「ですが」
その一言で、空気が変わった。
「好きなものを守りたいと願う者は、奪われた時にどうなるのでしょう?」
ゴルドスが目を細める。
「……何?」
「愛しているから、許せない」
マリスは、静かに続けた。
「大切だったから、裏切られたと感じる」
扇の陰で、口元が笑う。
「信じていたからこそ、憎むこともある」
盤面の黒が、じわりと滲んだ。
「あなたは『好き』を、あまりにも美しいものとして見すぎているのではなくて?」
ゴルドスは答えない。
マリスが、一歩近づいた。
「人の心は、そんなに都合よくできておりませんわ」
その声には、先ほどまでの嘲りとは異なる重みがあった。
「大切にしていたものを否定されれば、人は傷つく」
マリスは、盤面の小さな駒を見下ろした。
「その傷を、いつまでも忘れられない者もいる」
ゴルドスの眉が、わずかに動いた。
「……そんな人間にも、あなたの愛とやらは届くのかしら?」
沈黙。
ゴルドスは、すぐには答えられなかった。
人間の「好き」が、人を動かす。
それは確かだ。
だが、その力が常に誰かを救う方向へ働くとは限らない。
そのことを、彼も知らないわけではなかった。
「……すべてを救えるとは、言わぬ」
やがて、ゴルドスが口を開いた。
マリスの笑みが、少しだけ深くなる。
「あら。意外ですわね」
「オタクミ殿とて、誰かの苦しみをすべて理解できるわけではない」
ゴルドスは、静かに続けた。
「間違えることもある。傷つけることもあるだろう」
その言葉を口にする時、彼の表情には、先ほどまでとは違う陰りが差していた。
「だが、それで終わりとは限らぬ」
「……ほう?」
「人は、間違いに気づくこともできる」
ゴルドスは盤面を見つめた。
「そして、変わることもできる」
マリスが、くすりと笑った。
「変わる?」
「そうだ」
「一度壊れたものが、元どおりになるとでも?」
「……元どおりには、ならぬかもしれぬ」
ゴルドスは、その問いから目を逸らさなかった。
「だが、別の形を見つけることはある」
マリスの笑みが消えた。
ほんの一瞬、二人の間に静寂が落ちる。
そして。
「……本当に」
マリスが、ゆっくりと首を振った。
「あなたは、変わりませんのね」
その声には、どこか奇妙な響きがあった。
呆れ。
苛立ち。
それだけではない、何か。
だが、ゴルドスには、その正体を確かめる暇はなかった。
「いいでしょう」
マリスが扇を閉じる。
ぱちん。
その音が、異様に大きく響いた。
「そこまで仰るのでしたら」
彼女の足元で、黒い模様が広がり始めた。
「あなたの信じる『好き』という感情が」
白い盤面の奥から、何かが滲み出す。
「どこまで人を支えられるのか」
それは、光を吸い込むような闇だった。
先ほどまでの、静かな黒ではない。
不規則に揺れ、形を変え、何かを探すように蠢いている。
「試して差し上げましょう」
マリスの微笑みは、美しかった。
そして、恐ろしかった。
ゴルドスは、思わず身構えた。
「……何をするつもりだ?」
「ふふ」
マリスは、答えない。
ただ、盤面の暗がりへ目を向ける。
「人間は、愛することができます」
静かな声。
「けれど同じ心で、憎むこともできる」
黒い揺らぎが、ゆっくりと大きくなった。
「大切だったからこそ、許せない」
さらに、闇が膨らむ。
「好きだったからこそ、壊したくなる」
ゴルドスの表情が険しくなった。
盤面の奥底から立ち上るもの。
それが何を意味するのか、彼にはまだ見通せない。
だが、そこに込められた感情の重さは、嫌というほど伝わってきた。
「……マリス」
ゴルドスが低く呼ぶ。
「お主、何を見せようとしている?」
マリスは、ゆっくりと振り返った。
その瞳は、冷たく輝いていた。
「あなたが信じたものの」
一拍。
「もうひとつの顔ですわ」
その瞬間。
盤面全体が、低く震えた。
白と黒の境界が揺らぐ。
無数の駒が、かすかに震動する。
そして盤面の奥から、どす黒い感情を思わせる影が、ゆっくりと立ち上がった。
それは、ただの怒りではない。
失望。
喪失。
届かなかった願い。
そして――。
憎悪。
「……っ!」
ゴルドスの顔に、緊張が走った。
目の前の闇が何をもたらすのか。
それを、まだ断定することはできない。
だが、確かなことがひとつだけあった。
マリスは、ただ言葉で勝とうとしているのではない。
何かを示そうとしている。
オタクミがこれまで見てこなかったものを。
ゴルドスが信じようとしてきた、人間の心の――。
もっとも暗い部分を。
「……オタクミ殿」
ゴルドスは、誰にも聞こえぬほど小さく呟いた。
地上では今も、あの騒がしい少女が、仲間たちと笑っているのだろうか。
好きなものを好きだと叫び、誰かの心を動かしているのだろうか。
今の彼には、その様子を確かめることはできなかった。
それでも、ゴルドスは眼前の闇から目を逸らさなかった。
そして。
マリスが、静かに笑った。
「さあ、ゴルドス」
漆黒の扇が、ゆっくりと開かれる。
「あなたの信じる『愛』が」
その向こうで、闇が蠢いた。
「この憎悪の前で、どこまで耐えられるのか――」
彼女は、甘く囁く。
「見せていただきましょう」
高次元の盤面に、重い沈黙が降りた。
その沈黙の中で、ゴルドスは理解した。
これは、単なる神々の言い争いでは終わらない。
地上で育ち始めた小さな光が、何と向き合わなければならないのか。
その問いが、今まさに突きつけられようとしていた。




