雨が降った時に推しが泣いてるように見えるのは、それはお前の洗車が足りないからだ
ラザリスの朝は早い。
カフェ『KIRABOSHI』の裏庭に、キュッ、キュッ、とスポンジが濡れた表面を擦る音と、水音が小気味よく響いていた。
「……ふぅ。これで仕上げだな」
オタクミは額の汗を腕で拭い、満足げに目の前の巨体を見上げる。
そこに鎮座しているのは、かつて工房の職人たちと共に作り上げたものの、その奇抜さと物語の展開の速さに完全に置いていかれ、一度も出番のなかった幻の機体。
――痛馬車『ミスティア・ルミナス号』である。
「いやー、結局一度も乗ってねえな、これ。もったいないから洗ってるけど」
オタクミはホースで水をかけた。
すると、車体は驚くほどの撥水性を見せ、水滴が丸い玉となって転がり落ちていく。
「おお、すげえ。相変わらずいい仕事してんな、職人さんたち」
水滴の落ちた跡には、曇り一つないミスティアの笑顔が輝いていた。
オタクミは満足げに頷く。
「やっぱり痛車……いや、痛馬車は綺麗にしてなんぼだよな。雨の日なんか、特に大事だ」
「ほう。雨の日こそ、か?」
反対側から声をかけたのはアーグだった。
彼は真剣な眼差しで布を動かし、車体の装飾を磨き上げている。
その手つきは、まるで聖剣の手入れでもしているかのように厳粛だった。
「そうそう。雨が降るとさ、汚れた車体に水が筋になって流れるだろ?」
「うむ」
「それがちょうど、推しの顔の上を通ったりするわけよ」
「……む?」
「すると、どうなる?」
オタクミは車体に描かれたミスティアの目元を指さした。
「推しが泣いてるように見えるんだよ!」
「なっ……!?」
アーグの手が止まった。
「ミ、ミスティア様が……涙を……!?」
「そう! そこで普通の奴なら『雨だから仕方ない』って思うかもしれねえ」
「……うむ」
「だが、違う!」
オタクミはスポンジを握りしめた。
「雨が降った時に推しが泣いてるように見えるのは、それはお前の洗車が足りないからだ!」
「な、なんと……!」
アーグは雷に打たれたように目を見開いた。
「つまり……ミスティア様の涙は、我らの怠慢が生み出すものだと……!?」
「いや、そこまで大げさに言ったつもりはねえけど!」
「不覚……! 騎士たるもの、守るべき御方の涙を見過ごすなど……!」
「だから水滴の話だって!」
だが、アーグはすでに布を握り直していた。
「見ていろ、オタクミ! このアーグ、二度とミスティア様に涙を流させはせぬ!」
「お、おう。頑張れ」
オタクミは苦笑しながら、再び車体へ水をかけた。
透明な水滴が表面を滑り落ちていく。
ミスリル銀のコーティング加工は伊達ではない。
その表面は鏡のように周囲の景色を映し返し、朝日を浴びた車体は、やたらと神々しく輝いていた。
「何を言うか、オタクミ。愛馬……いや、愛馬車を磨くのは騎士の嗜みだろう」
アーグは胸を張った。
「見てみろ、この輝きを。ミスティア様の御尊顔にかかった泥汚れは、私がすべて拭い去った。今の彼女の笑顔は、ラザリスの太陽よりも眩しい……!」
彼がうっとりと見つめる先。
馬車の前面装甲いっぱいに描かれたミスティア・ルミナスは、満面の笑みを浮かべていた。
「まあ、確かに技術力の無駄遣い……いや、結晶だな!」
オタクミも腕を組んだ。
「しかし、せっかく作ったのに一度も使ってねえのは、やっぱりもったいねえよな」
「うむ。その時が来れば、私が御者台に立ち、風となろう!」
「馬車なんだから、馬より速く走ろうとすんなよ?」
「無論だ。馬と共に風になるのだ!」
「それならいいけど」
二人は顔を見合わせ、磨き上げられた痛馬車を眺めた。
朝日を浴びる車体。
光り輝くミスティア。
男二人の、奇妙な達成感。
それはそれで、実に平和な光景だった。
――その時までは。
◇
パパパパパンッ!!
「うおっ!?」
突如、表通りから場違いなほど盛大なファンファーレが鳴り響いた。
続いて、ズズズズ……と、何か重厚なものを引きずるような音が近づいてくる。
「な、なんだ!?」
「敵襲か!?」
「ファンファーレ鳴らして攻めてくる敵がいてたまるか!」
オタクミとアーグは、慌てて表へ回った。
そして。
二人は、その場で硬直した。
カフェ『KIRABOSHI』の玄関前。
そこから大通りを貫き、アストリア王国の方角へ向かって、一直線に真紅の絨毯が敷かれていた。
しかも、ただの絨毯ではない。
ふかふか。
見るからに高級。
踏みつけるのをためらうほどの、豪華絢爛な代物だった。
「……は?」
オタクミが間の抜けた声を漏らす。
さらに、その脇には立て看板まで設置されていた。
『※この道路占有は、ロザリア・ブランドの提供でお送りしています』
「提供って何だよ!?」
思わずツッコミが飛ぶ。
「道路を使って宣伝すんな! いや、そもそも誰の許可で敷いてんだ、この絨毯!」
「見ろ、オタクミ!」
アーグが大通りの先を指さした。
そこから現れたのは、八頭立ての白馬に引かれた黄金の超豪華馬車。
王家の威信と財力を、これでもかと車体へ盛り込んだようなロイヤル・リムジンだった。
金色の装飾。
磨き上げられた車輪。
天蓋から揺れる豪華な飾り。
朝日を浴びて、そのすべてが眩しく輝いている。
「ま、まさか……」
オタクミの嫌な予感を裏付けるように、馬車がカフェの前で停車した。
ガチャリ。
装飾過多な扉が開く。
そこから優雅に降り立ったのは――
お忍びという概念を完全に放棄した平服、いや、オートクチュール姿の女王。
ロザリア、その人だった。
「ごきげんよう、皆様」
扇を広げ、彼女はにこやかに微笑んだ。
「ふふふ。招待状を送ったばかりですが……待ちきれなくて、迎えに来てしまいましたわ!」
「またそっちから来んのかよ!!」
オタクミの叫びが、反射的に飛び出した。
「一国の女王がフットワーク軽すぎるだろ! 威厳とかないのか、威厳とか!」
「あら、心外ですわね」
ロザリアは扇で口元を隠した。
「わたくしだって、公務の合間を縫って来たのですわ」
「だったら公務に戻れよ!」
「もちろん、公務も大切です。ですが……」
彼女は急に深刻そうな顔になった。
そして、懐から一枚の羊皮紙を取り出す。
「実は、先日購入した『ミスティア(男版)総受けアンソロジー』を含む一万冊の同人誌なのですが……」
「いきなり規模がおかしい!」
「国民への布教用配布計画を立てておりましたら……」
「おりましたら?」
「自分用の『保存用』と『観賞用』、そして『布教用予備』の在庫計算が合わなくなってしまいまして……」
「……は?」
ロザリアは、ぷるぷると震える手を差し出した。
「昨晩から、供給不足による震えが止まらないのです!」
「いや、もう完全に禁断症状じゃねえか!」
「このままでは国政に支障が出ますわ!」
「もう出てるだろ! 今まさに!」
だが、女王は止まらなかった。
羊皮紙を高々と掲げ、堂々と言い放つ。
「よって、直ちに王城へ参内し、リア先生による『生の尊み(リアルタイム・ドローイング)』を献上しなさい!」
オタクミが目を剥く。
「リアの絵を要求するために、こんな大げさな迎えを寄越したのかよ!」
「これは勅命です!」
「私物化がひどすぎるだろ!!」
ツッコミが、ラザリスの青空に虚しく響いた。
ロザリアは涼しい顔で扇を揺らす。
「それに、皆様を王城へお招きしたかったのも本当ですわ。せっかくですもの、道中も楽しく過ごしたいではありませんか」
「そのために大通りへ絨毯敷いたのか!?」
「ええ。歓迎の気持ちは、目に見える形にしたほうが伝わりますでしょう?」
「限度ってものがあんだろ!」
「まあ。オタクミ様ったら、照れ屋さんですのね」
「照れてねえ!」
アーグが横で小さく頷く。
「しかし、女王陛下自らお迎えとは、確かに破格の厚遇だな」
「お前、そこだけまともに受け取んな!」
◇
「ええい、控えよ!」
怒声が響いた。
ロザリアの背後から、一人の男が進み出る。
騎士団長レジナルドだった。
その顔は真っ赤で、こめかみが引きつっている。
どう見ても、今朝だけで相当な苦労を重ねてきた顔だった。
「貴様ら、陛下になんという口を利く! だいたい、いつもいつも……!」
「いや、レジナルドさん! まず陛下に言ってくれよ! 道路に絨毯敷くのやめろって!」
「それについては、すでに申し上げた!」
「言ってたのかよ!」
「申し上げたとも! 何度も!」
レジナルドの声には、妙な悲壮感があった。
「だが、陛下は『民の往来を妨げないよう配慮しましたわ』と仰せになり、護衛の配置から馬車の経路まで、すべて整えてしまわれたのだ!」
「仕事のできる暴走って一番厄介だな!」
「だからこそ、貴様らまで騒ぎを大きくするなと言っておる!」
「俺ら、被害者側なんだけど!?」
レジナルドは大きく息を吸った。
言いたいことは、まだ山ほどあるらしい。
だが。
その視線が、不意に裏庭の入口で止まった。
「……む?」
そこには、洗車を終えたばかりの痛馬車が、朝日を受けて燦然と輝いていた。
ミスリル銀のコーティング。
鏡面のような光沢。
そして、巨大な美少女イラスト。
「……あの、陛下?」
レジナルドの眉がひそめられる。
彼は一歩、また一歩と痛馬車へ近づいた。
「……これは……絵、か?」
前面装甲に描かれたミスティアを見上げる。
次に側面。
そして、後部装甲へと視線を移していく。
その表情が、少しずつ硬直した。
「……待て」
低い声が漏れる。
「なぜ……なぜ、水着なのだ」
「ん?」
オタクミが振り返った。
「ああ、それ? 夏の限定水着イラストだよ。せっかくなら車体の側面に大きく入れたいだろ?」
「……な、何だと?」
「ほら、ここの配置がいいんだ。走ってると、ちょうど――」
「な、な、な……!」
レジナルドの顔が、みるみる赤く染まった。
「なんだその不敬極まりない馬車はァァァッ!!」
怒号が、裏庭に響き渡った。
「うおっ!?」
「高貴なるミスティア様の御尊顔を! あのような車輪の泥除けにするなど!」
レジナルドは車体を指さした。
「しかも、側面には水着姿! こ、これは『水着回』ではないか!」
「よく分かったな!?」
「分かるに決まっておろう!」
レジナルドは拳を握りしめた。
「神聖なるお姿を、泥や雨風にさらすとは何事だ! 破廉恥! 断じて許さん! 即刻撤去せよ!」
「はあ!?」
オタクミが一歩前へ出た。
「アンタには分かんねえのか! これはリスペクトだ!」
「何がリスペクトだ!」
「『常に推しと共に走り、推しに守られる』っていう、オタクの夢を具現化した最強の乗り物だぞ!」
「ならば、なぜ車輪の近くに御尊顔がある!」
「だから、そこには顔は配置してねえって! ちゃんとデザイン考えてんだよ!」
「泥が跳ねれば、いずれ汚れるではないか!」
「そのためのコーティングだろ!」
オタクミは車体を指さした。
「見ろよ、この撥水加工! 水なんかかけても、つるんって流れ落ちるんだぜ!」
「だからといって、ミスティア様を雨ざらしにする理由にはならん!」
「雨が降ったら洗えばいいだろ!」
「その考えが不敬だと言っておる!」
互いに一歩も引かない。
そこへ、アーグが堂々と割って入った。
「レジナルド殿!」
「何だ、アーグ!」
「貴殿は、この仕上がりを見ても何も感じぬのか!」
アーグは磨き上げられた車体へ手を向けた。
「この完璧な撥水加工を! この鏡面の輝きを! 貴殿のくすんだ鎧より、よほど美しいではないか!」
「なっ……!」
レジナルドの顔が引きつった。
「わ、私のミスリル鎧を……くすんでいるだと……!?」
「うむ。磨きが足りん!」
「貴様ァァァッ!!」
「あーっ! アーグ! そこは煽るな!」
オタクミが叫ぶ。
だが、遅かった。
レジナルドは怒りに任せて剣の柄へ手をかける。
「ええい、問答無用! そのふざけた思考を持つお前たちは、我が剣の錆にしてくれる!」
ジャキッ!
剣が抜かれた。
「おい! ちょっと待て!」
オタクミが慌てて両手を広げる。
「馬車を傷つけるなよ! それ、原価いくら掛かってると思ってんだ!」
「金額の問題ではない!」
「俺にとっては大問題なんだよ!」
レジナルドが踏み込んだ。
勢いよく。
そして、オタクミも止めようと一歩踏み出した。
ガッ。
「あ」
足先が、洗車用のバケツに当たった。
バケツが傾く。
中に残っていた強力ワックス入りの洗剤が、石畳へとぶちまけられた。
ざばぁっ!
「――ぬおっ!?」
レジナルドの足が、ちょうどその上を踏み抜いた。
つるっ。
「……え?」
一瞬、時間が止まった。
踏み込んだはずの足が、前へ滑る。
体勢を立て直そうとして、反対の足にも力を入れる。
だが、そこも滑る。
「ぬ、ぬおおおおっ!?」
重装備の巨体が、信じがたい姿勢で宙へ浮いた。
「すってんてんっ!?」
「うわあああっ! レジナルドさん!?」
オタクミが手を伸ばす。
届かない。
アーグも動こうとする。
間に合わない。
そして。
レジナルドが飛んでいく先には、痛馬車はなかった。
その進行方向に停まっていたのは――
女王ロザリアの、黄金のロイヤル・リムジン。
「あ」
オタクミ。
「あ」
アーグ。
「あら」
ロザリア。
三人の声が、ほとんど同時に重なった。
重装備の騎士団長が、砲弾のような勢いで王家の馬車の車軸へ突っ込む。
バキィィィィィッ!!
ガッシャァァァン!!
黄金の車輪が外れた。
豪華な車体が、大きく傾く。
天蓋の飾りが揺れ、金色の装飾が朝日を反射した。
そして。
ドォォォンッ!!
王家の威信をこれでもかと詰め込んだロイヤル・リムジンが、盛大な音を立てて地面へ沈んだ。




