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沈黙の鞘 その1

ラザリスの空の下。

オタクミとアーグが平和に洗車に勤しみ、女王の馬車が大破し、レジナルドが絶望の淵に沈んでいたその頃。


オタクミの腰に帯びられた鞘――

鞘神?ゴルドスの分身は、いつになく完全に沈黙していた。


普段であれば、


「またそっちから来るでござるか!」

「オタクミ殿、洗剤の置き場所に気をつけるでござる!」


と、やかましいほどの脳内ツッコミが飛んできていたはずの場面である。


しかし今、彼はツッコミを入れることができなかった。

いや、正確には――


物理世界ラザリス」の状況を認識することすらできない状態にあった。


彼の意識は、オタクミの腰の鞘を遠く離れ、

高次元の精神空間へと引きずり込まれていたのだ。


そこは、光と闇が入り混じる異界。


果てしなく広がる、白と黒の市松模様。


それは――

神々が世界の運命を弄ぶ『盤上ボード』。


「……ふむ」


そこに立つのは、光り輝く純白の衣を纏った存在。


本来の神としての威厳を取り戻した、創世神ゴルドスである。


彼は静かに腕を組み、眼下に広がる巨大なチェス盤を見下ろしていた。


盤上には、世界の情勢を示す無数の駒が配置されている。


国家。都市。英雄。怪物。

人の意思すら、ここではただの一つの駒に過ぎない。


そして今、ゴルドスの視線が向けられているのは――

辺境の街ラザリスを示す領域だった。


そこでは、かつて闇に覆われていた盤面が、

今や力強い純白の光を放ち始めている。


まるで夜明けのように。


その白い輝きは、ゆっくりと、しかし確実に、

周囲の黒を押し返しながら陣地を拡大していた。


(……オタクミ殿たちの活躍により、この世界の『創生エネルギー』は順調に回復しつつある)


ゴルドスは静かに目を細める。


(枯渇しかけていた人々の想像力……)


(『好き』という純粋な感情が、世界を再び潤しているのだ)


胸の奥に、わずかな安堵が灯る。


オタクミをこの世界に召喚した自分の選択は、間違っていなかった。


彼は常識外れの方法――

オタク文化という奇妙な武器を用いながらも、


確実に、着実に、


邪神マリスの呪縛から人々を解放しつつある。


だが。


ゴルドスがこの高次元空間へ「呼ばれた」ということ。


それはすなわち――


対戦相手プレイヤーが動いたということを意味していた。


「――ごきげんよう、ゴルドス」


その瞬間。


空間が、ガラスにヒビが入るように歪んだ。


鈴を転がすような声。


しかし、背筋が凍るほどに冷たく、甘い響き。


空間の亀裂から現れたのは、


光を一切反射しない漆黒のドレスを纏った絶世の美女。


邪神マリス。


彼女が一歩踏み出すたび、

足元からインクを零したように闇が広がっていく。


白いマス目が、じわり、じわりと黒に染まる。


「……マリス」


ゴルドスは警戒を解かぬまま、静かに応じた。


「我をこのような場所に呼び出すとは。

よほど、地上での劣勢が堪えたと見えるな」


「劣勢?」


マリスは優雅に扇を広げ、口元を隠す。


その仕草は気品に満ちていた。


だが――その瞳。


そこには明確な苛立ちと、底知れぬ冷酷さが渦巻いていた。


「ふふ。冗談を」


「ただの辺境の街で、子供たちが少しばかりお遊戯で騒いでいるだけではありませんか」


軽く肩をすくめる。


だが次の瞬間、声の温度がわずかに下がった。


「ただ……」


「最近、あなたの盤面ゲームの進め方が、少々ズルが過ぎるのではないかと思いましてね」


長い指先が、盤上の一点を指し示す。


そこにあったのは――


アストリア王国を示す領域に置かれた、

ひときわ巨大で精巧な駒。


黒の女王クイーン


かつては純黒に染まり、

絶対的な恐怖と経済力によって盤面を支配していた強力な駒。


しかし今。


そのクイーンの駒は――


眩い白へと染まり変わろうとしていた。


「わたくしが手塩にかけて育て上げた、プライス・カルテルの大幹部」


マリスの声が、ゆっくり低くなる。


「その冷徹な価値観を、あのような低俗で下品な文化で洗脳し、公式パトロンとして陣地に引き込むなど……」


扇が静かに閉じられる。


「盤外戦術にも程がありますわ」


「『価値』こそが絶対」


彼女の声は、冷たい刃のようだった。


「それが、わたくしのルールの基盤」


「それを『同人』だの『推し』だのという、

実体のない妄想で塗り替えるなど――」


「神のゲームに対する冒涜ですわ」


その言葉を受けても、

ゴルドスは微動だにしなかった。


「ズルではない」


静かな声。


だが、そこには揺るぎない意志があった。


「そして、洗脳でもない」


彼は盤上のラザリスを見つめる。


「オタクミ殿は、ただ彼女の心に寄り添っただけだ」


ゴルドスの背後に、暖かな光が差す。


「お主は彼女の過去の傷につけ込み、『恐怖』と『希少価値による独占』でその心を凍らせた」


「だが――」


「オタクミ殿が提示した『愛(尊み)』は、その凍りついた心を溶かしたのだ!」


盤上の白が、わずかに広がる。


「お主の支配が、オタクミ殿の熱量パッションの前に崩れ去った」


「ただ、それだけのことだ」


一瞬の沈黙。


そして。


「愛、ですか」


マリスが笑った。


心の底から可笑しそうに。


クスクスと。


しかし――


その笑いには、まるで温度がなかった。


「あなたも、あなたの選んだ勇者も」


「本当に愚かですこと」


マリスは扇を閉じる。


そして――


パンッ


手のひらに打ちつけた。


その瞬間。


盤上の空気が、変わった。


「この過酷な世界で」


「『愛』や『好き』という感情だけで」


「すべてを救えるとでも、お思いで?」


盤面の奥深く。


そこから。


ゆっくりと。


ドロドロとした闇が這い出してくる。


それは感情。


それは呪い。


それは――


憎悪。


「いいでしょう」


マリスの微笑みは、あまりにも美しかった。


そして、あまりにも残酷だった。


「ならば、その『愛』が本物かどうか」


「わたくしの憎悪の前に」


「どこまで耐えられるのか――」


「試して差し上げましょう」


その瞬間。


盤面全体が震えた。


圧倒的なまでのドス黒い負のエネルギーが、

盤の奥底から噴き出してくる。


ゴルドスの顔に――


かつてないほどの緊張が走った。

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