転落
いつからだろう。
秋葉原のネオンの下で過ごす時間よりも、オフィスの無機質な蛍光灯の下にいる時間のほうが、長くなっていた。
好きなものが嫌いになったわけじゃない。
ただ、仕事から帰って食事を済ませ、気づけば眠っている。
録画したアニメが少しずつ溜まり、買ったまま開けていないグッズも増えていった。
休日にタクミと会えば、昔と変わらず笑えた。
けれど、次の約束を決めようとするたび、僕は仕事の予定を確かめるようになっていた。
そんな毎日の中で、僕には一つ、楽しみができていた。
「……あの、三春さん。話って、その……」
金曜日の夜。
会社の近くにある、少し洒落た個室居酒屋。
向かいに座っているのは、経理部の三春さんだった。
黒髪の似合う、落ち着いた雰囲気の女性。
仕事の合間にふと見せる柔らかな笑顔に、僕はいつしか惹かれていた。
最初は、書類のやり取りで言葉を交わす程度だった。
それが、休憩時間に雑談をするようになり、最近ではランチでも何度か一緒になった。
彼女が笑うと、僕も嬉しかった。
疲れた日の帰り道でも、昼間に交わした何気ない会話を思い出すと、少しだけ足取りが軽くなった。
だから、今日は思い切って食事に誘った。
(大丈夫だ。……いや、分からないけど)
膝の上で拳を握る。
(ちゃんと伝えよう。それで駄目なら、仕方ない)
僕は深呼吸をした。
「三春さん」
「はい」
「その……単刀直入に言います」
心臓がうるさい。
「三春さんのことが、好きです。僕と、付き合ってください」
言った。
言ってしまった。
向かいの席で、三春さんが目を見開く。
僕は膝の上で拳を握ったまま、返事を待った。
個室の外から、酔客の笑い声が聞こえた。
ほんの数秒が、ひどく長い。
「……ケイスケさん」
彼女は困ったように視線を伏せた。
ああ。
その声を聞いただけで、何となく分かってしまった。
「ごめんなさい。私、付き合ってる人がいるの」
「……あ、そうなんですね」
胸の奥が痛んだ。
でも、それは仕方のないことだ。
好きになったからといって、必ず相手も好きになってくれるわけじゃない。
「いや、すみません。急にこんなこと言って」
何とか笑おうとした。
「気にしないでください。これからも仕事では、普通に――」
「それに……」
三春さんの視線が、僕の顔から外れた。
足元に置いたビジネスバッグへ向かう。
正確には、その持ち手に揺れている、小さなストラップへ。
青白い星の意匠があしらわれた、ミスティアのラバーストラップ。
タクミが、ガチャで同じものを二つ引き当てたときに、一つ譲ってくれたものだった。
使い続けて、少し汚れている。
それでも、僕は気に入っていた。
「こういうこと、言うのはよくないと思うんですけど……」
三春さんが、ためらいがちに口を開いた。
「その、バッグの……」
「え?」
「アニメの女の子、ですよね」
「あ、はい。好きな作品のキャラクターで……」
僕は思わず、いつもの調子で答えかけた。
ミスティアがどんな人物なのか。
どうして、このストラップを大切にしているのか。
けれど、三春さんの表情を見て、言葉が止まった。
「私、そういうの……ちょっと無理なんです」
「……そう、ですか」
「いい歳した男の人が、アニメの美少女をバッグにつけてるのって、正直……キモいっていうか」
ドクン。
心臓が、嫌な音を立てた。
断られたときよりも、ずっと。
「え……いや、これは……」
口を開く。
昔、友達にもらったものなんです。
大切な思い出があるんです。
そう言えばよかったのかもしれない。
けれど、喉がうまく動かなかった。
「ごめんなさいね。でも、私、もう少し現実を見てる人がいいので」
彼女は小さく頭を下げた。
「今日は、ありがとうございました」
そのまま席を立つ。
僕は引き留めなかった。
個室の扉が閉まる。
テーブルには、まだ手のつけられていない料理が残っていた。
僕は足元のバッグを見た。
青白い星が、かすかに揺れている。
「……キモい、か」
誰もいなくなった部屋で、そう呟いた。
◇
店を出ると、雨が降っていた。
傘を買う気にもなれず、僕は駅へ向かって歩いた。
『生理的に無理』
『キモい』
『現実を見てる人がいい』
思い出すたび、胸のあたりが縮こまる。
付き合えなかったことは、仕方ない。
そう思う。
何度も、そう思おうとした。
けれど、あのストラップに向けられた目だけは、頭から離れなかった。
僕が大切にしていたものを見た瞬間、彼女は顔をしかめた。
好きなものを聞かれる前に、僕がどんな人間なのかまで決められてしまった気がした。
通りすがりの人が笑う声に、思わず肩が強張る。
僕を笑っているわけじゃない。
分かっている。
それでも、バッグの持ち手が気になった。
ストラップを外そうとして、指が止まる。
青白い星。
『俺たち、同志じゃん?』
タクミの声が蘇った。
僕はストラップから手を離し、濡れたバッグを抱え直した。
◇
帰宅すると、真っ暗な部屋に明かりをつけた。
壁にはポスター。
棚にはフィギュア。
限定版のブルーレイボックスに、イベントで手に入れた複製原画。
どれも、僕が好きで集めたものだった。
疲れて帰ってきた日、この部屋に入ると少し安心できた。
好きなものが、ここにはある。
誰に説明しなくてもいい。
そう思える場所だった。
けれど、その夜は違った。
棚に並んだミスティアのフィギュアを見つめる。
その笑顔が、急によそよそしく見えた。
「……何やってんだろ、僕」
独り言が、狭い部屋に落ちた。
仕事をしている。
毎日、朝から晩まで働いている。
それなりに我慢もしてきた。
それでも、バッグについた小さな飾り一つで、僕は現実を見ていない人間になるのか。
ブブブ、ブブブ。
ポケットの中で、スマホが震えた。
画面には、タクミの名前。
『おーいケイスケ! 生きてるか?
来週のイベントチケット、二枚取れたぞ!
久しぶりに行こうぜ! ミスティア様の勇姿を目に焼き付けよう!』
思わず、笑いそうになった。
いつものタクミだ。
何の前置きもなく、嬉しそうに誘ってくる。
きっと今頃、チケットの画面を見て、僕の返事を待っている。
以前なら、すぐに返信した。
『マジか! ありがとう!』
そんな言葉を打って、当日まで何を持っていくか相談しただろう。
けれど。
「……うるさい」
自分の口から出た言葉に、少し驚いた。
タクミは何も悪くない。
今日のことだって、知らない。
それなのに、画面の向こうにいるあいつが、ひどく遠く感じられた。
何も変わらず好きなものを好きだと言えるタクミ。
その明るさが、今の僕には眩しすぎた。
「……今は、無理だよ」
返信欄を開く。
『ごめん、仕事が』
そこまで打って、消した。
本当に仕事があるわけじゃない。
ただ、行く気になれなかった。
何も返さず、スマホをベッドに置いた。
画面が暗くなる。
僕は棚へ向き直った。
「……もう、いいだろ」
フィギュアを見つめる。
好きだった。
今も、嫌いになったわけじゃない。
それなのに、見るたびに胸が痛んだ。
誰かに知られたら、また笑われるのだろうか。
僕がどれだけ大切にしていても、理解してもらえないのだろうか。
「こんなもの……」
部屋の隅にあった黒いゴミ袋を取り上げた。
棚の前で口を広げる。
未開封の限定フィギュアを手に取った。
「こんなもの、もう……!」
振り上げた腕が、止まった。
箱の隅に、値札が貼られていた。
『定価 12,000円』
見覚えのある数字だった。
そして、別の数字を思い出す。
先日、何気なく開いたネットオークション。
『【激レア】ミスティア・ルミナス 初期限定フィギュア 未開封品』
『現在価格 58,000円』
「……五万、八千円?」
箱を見つめた。
一万二千円で買ったフィギュア。
あれから時間が経ち、もう普通の店では手に入らない。
欲しがっている人間がいて、出品価格は大きく上がっていた。
ゴミ袋に入れれば、ただの廃棄物だ。
でも、売れば。
「…………」
僕はフィギュアを、ゆっくりとベッドに置いた。
パソコンを起動する。
同じ商品の取引履歴を調べた。
五万八千円という数字が、実際に売れた値段とは限らない。
それでも、画面を追ううちに、定価より高く取引された記録がいくつも見つかった。
「……本当に、こんな値段で」
ブルーレイはどうだろう。
あの複製原画は?
検索するたび、知らなかった数字が現れた。
僕が給料を貯め、何時間も並んで手に入れた品々。
欲しくて欲しくて、ようやく手にしたもの。
今も、それを欲しがる人がいる。
画面の向こうに、僕とは会ったこともない誰かがいる。
「……ゴミじゃ、ないんだな」
小さく呟いた。
三春さんは、僕の趣味を気持ち悪いと言った。
けれど、ここには欲しいという人がいる。
しかも、こんな値段を出してまで。
胸の痛みが消えたわけではない。
ただ、何もかも否定されたと思っていた場所に、別の数字が並んでいた。
それを見ている間だけ、少し呼吸が楽になった。
◇
最初に出品したのは、未開封の限定フィギュアだった。
写真を撮る。
箱の角を確認する。
説明文を入力する。
『【美品】コレクション整理のため出品します。大切にしてくださる方にお譲りします』
最後の一文で、指が止まった。
大切にしてほしい。
それは、嘘じゃない。
けれど、今の僕が一番気にしているのは、別のことだった。
いくらになる?
その問いが、頭から離れなかった。
しばらく迷ってから、出品ボタンを押した。
すぐには売れなかった。
翌朝、価格を確かめた。
昼にも確かめた。
夕方、ようやく通知が届いた。
『購入されました』
「……売れた」
声が漏れた。
画面の数字を見る。
手数料も送料も引かれる。
それでも、買ったときより大きな額が残る。
僕はしばらく、その数字を見ていた。
仕事でどれだけ頑張っても、誰かが褒めてくれるとは限らない。
結果を出しても、次の仕事が増えるだけの日もある。
けれど、画面に表示された数字は違った。
少なくとも、取引が成立した事実だけは消えない。
「……そうか」
僕は椅子にもたれた。
「欲しい人には、これだけの値段になるんだ」
その日から、僕は少しずつグッズを出品した。
ブルーレイ。
複製原画。
飾る場所がなく、箱にしまったままの品々。
一つ売れるたび、部屋には空いた場所が増えた。
何かを手放した寂しさもあった。
けれど、入金通知が届くと、まず数字を確かめる自分がいた。
十万円。
さらに売却を重ねると、三十万円。
しばらくして、取引した金額を合計すれば五十万円を超えていた。
もちろん、それは丸ごと利益になったわけではない。
買ったときにも、金を払っている。
それでも、数字が積み上がるのを見るのは、不思議と心地よかった。
僕は売れた品の取引履歴を保存し、相場の動きを比べるようになった。
どの商品が値上がりしているのか。
何が品薄なのか。
どの作品に、今、人が集まっているのか。
気づけば、以前とは違う理由でオークションサイトを開いていた。
◇
会社帰りに秋葉原へ寄る習慣は、なくならなかった。
ただ、店に入ったとき、最初に見る場所が変わった。
以前は、ミスティアの新しいグッズを探した。
今は、限定数や販売期間を確かめる。
欲しいかどうかより先に、値段を調べる。
「……これ、もう予約終わってるのか」
売り場で、同じ商品を眺めている人がいた。
彼らは楽しそうだった。
パッケージの絵柄について語り、好きな場面を思い出して笑っている。
少し前までの僕と同じだ。
その姿を見て、胸の奥がわずかに動いた。
懐かしさだったのか。
苛立ちだったのか。
自分でも、よく分からなかった。
僕は商品を手に取った。
好きだから買うのではない。
売れるかもしれないから買う。
そう考えると、同じ棚が違って見えた。
その日、僕は以前なら自分用には選ばなかった限定品を一つ購入した。
店を出てからも、袋を開ける気にはならなかった。
駅へ向かいながら、スマホで同じ商品の出品状況を調べる。
家に着くと、机に袋を置いた。
いつもなら、まず箱を取り出して眺めただろう。
印刷の色を確かめ、傷がないか確認し、飾る場所を考えたはずだ。
けれど、その夜の僕は違った。
袋から取り出した箱を、撮影用の明かりの下へ置く。
開封しないまま、正面と背面、箱の角を撮った。
画面には、販売価格を入力する欄がある。
「……これくらい、か」
数字を打ち込む。
買ったばかりの商品を、欲しい人へ売る。
自分では楽しむつもりのない商品を、値上がりするかもしれないという理由で買った。
これまでのコレクション整理とは、違う。
それは分かっていた。
それでも、出品ボタンを押した。
しばらくして、画面に通知が届いた。
『購入されました』
僕は箱を見た。
もう、僕の手元に置いておく理由はない。
傷がつかないように包み、発送の準備をする。
以前なら、この箱を開ける瞬間が楽しみだった。
今は、封をした段ボールの横で、利益を計算していた。
それからも、僕は相場を調べ、限定品を確保し、欲しがる人へ高く売るようになった。
何度かうまくいくと、その利益でまた別の商品を買った。
失敗もあった。
思ったほど値段が上がらず、手元に残った品もある。
だが、損をしたときの悔しささえ、僕には妙に分かりやすかった。
数字なら、理由を探せる。
買った値段。
売れた値段。
手元に残る金額。
少なくとも、僕の何が気持ち悪いのかを考え続けるよりは、ずっと簡単だった。
やがて、少し高い時計を買った。
以前なら、同じ額で何本の限定版が買えるかを考えただろう。
けれど、今は違った。
会社へつけていくと、同僚が時計に気づいた。
「へえ、いい時計ですね」
「ああ、まあ……」
僕は曖昧に笑った。
ただそれだけの会話だった。
それでも、何となく嬉しかった。
誰も、気持ち悪いとは言わなかった。
新しいスーツにも、同じような反応が返ってきた。
ある日、廊下ですれ違った三春さんが、僕に挨拶した。
「お疲れさまです」
「……お疲れさまです」
彼女の視線が、一瞬だけ僕の時計に向いたような気がした。
ただの挨拶だ。
それ以上の意味があったかどうかなんて、分からない。
けれど僕は、その日の帰り道、何度もその場面を思い返していた。
あのストラップを見たときとは、違う目だったのだろうか。
考えても答えは出ない。
代わりにスマホを開いた。
新しい入金通知が届いていた。
僕はその数字を見つめた。
「……分かりやすいな」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
◇
夜。
部屋の棚には、空いた場所が目立つようになっていた。
パソコンの画面には、商品の相場一覧。
その横には、入金と支出をまとめた表。
僕は数字を見比べながら、次に何を仕入れるか考えていた。
ブブブ。
スマホが震えた。
タクミからだった。
『ケイスケ、最近忙しいか?
無理してないならいいんだけどさ。
落ち着いたら、また飯でも行こうぜ!』
画面を見つめる。
いつもの明るい文面だった。
でも、以前のようにすぐ返事を打つことはできなかった。
僕は机の端に置いていたビジネスバッグを見た。
持ち手には、あのストラップがついたままだった。
古びたミスティア。
青白い星。
あの日から、人前ではバッグの持ち手を隠すようになっていた。
外してしまおうと思ったことも、一度や二度ではない。
けれど、まだそこにある。
「……これも、売れるのかな」
独り言が漏れた。
僕はストラップを指でつまみ、裏返した。
少し汚れている。
高値のつく品ではないだろう。
状態が悪ければ、買い手もつかないかもしれない。
そう考えたあとで、ふと気づいた。
僕は今、この小さな星まで値段で見ようとしていた。
『俺たち、同志じゃん?』
タクミの笑い声を思い出す。
その声が、すぐには消えなかった。
僕はストラップから指を離した。
小さな星が、バッグの持ち手で揺れた。
スマホには、まだタクミからのメッセージが表示されている。
返信欄を開く。
『最近ちょっと忙しくて』
そこまで打った。
続きが思いつかない。
本当に忙しかった。
でも、それだけじゃない。
僕は文字を消し、スマホを伏せた。
パソコンの画面へ向き直る。
新しい商品が、また一つ高値で取引されていた。
僕はその価格を表に書き込んだ。
数字は、綺麗に一列に並んだ。
空いた棚の向こうで、ミスティアのポスターがこちらを向いている。
僕は一度だけ、その顔を見た。
そして、画面へ視線を戻した。
次に値上がりしそうな商品を探す。
指先は、迷いなく動いていた。
机の端では、返信されないままのスマホが、もう光ることもなく伏せられていた。




