値札のついたミスティア
『輝星のルミナス』ライブツアー最終公演、東京ドーム。
会場からは、地響きのような歓声と、重低音のビートが絶え間なく漏れ聞こえていた。
空はすでに夜の色を帯びていたが、会場周辺は数万人のファンが振る極彩色のサイリウムと、物販ブースの強烈な照明に照らされ、昼間よりも明るく、そして熱を帯びていた。
だが、ケイスケはその熱狂の輪の外――関係者通用口に近い、薄暗い駐車場の裏手に立っていた。
周囲の人間が推しキャラクターの描かれたTシャツや法被を身にまとっている中で、仕立ての良いダークスーツを着込んだ彼の姿は、明らかに異質だった。
「……遅いな」
高級腕時計に目を落とし、舌打ちをする。
開演時間はとっくに過ぎている。
ライブには参加しない。そんな無駄な時間は、今の彼には存在しなかった。
彼の目的は、ただ一つ。
「市場価値」の回収だけだ。
「お、お疲れ様ですー」
数分後、パーカーのフードを目深に被った若者たちの集団が、ぞろぞろと姿を現した。
彼らは一様に、両手に抱えきれないほどの大きなショッパーを提げている。
ケイスケが雇った物販購入代行のアルバイト――通称「打ち子」たちだ。
「おう。数は?」
「指示通りです。会場限定アクリルスタンド、上限の三限まで全員分。あと、プレ値確実のパーカーと、ラバーバンドも」
若者が戦利品を、ケイスケの足元に置かれた大きな段ボール箱へ、次々と放り込んでいく。
ガサガサ、ゴトゴト。
無機質な音が、遠くから響くファンの歓声と、不協和音を奏でていた。
「はい、これ報酬。ご苦労さん」
封筒に入った現金を、事務的に手渡す。
「ういーっす。またお願いしまーす」
若者たちが去ると、ケイスケはしゃがみ込み、段ボールの中身を確認した。
ホログラム加工でキラキラと輝くパッケージ。
そこに描かれたミスティア・ルミナスの笑顔は、かつて彼の心を救った女神だった。
だが、今の彼の目には、それはただの「証券」にしか映らない。
「……よし」
スマホを取り出し、計算機アプリを叩く。
原価、人件費、そしてフリマアプリ上の現在の相場。
弾き出された数字は、彼の口元を歪ませるのに十分だった。
「今日の売り上げだけで、純利三十万は堅いな」
段ボールの蓋を閉じる。
まるで汚れたものを隠すかのように。
「チョロいもんだ。ただのプラスチックの板切れに、原価の十倍の値段がつく。現代の錬金術だよ」
顔を上げ、光り輝くドームを見上げる。
中では今頃、数万人のファンが汗と涙を流し、架空のキャラクターに愛を叫んでいるのだろう。
「叫べ、叫べ。お前らのそのくだらない『熱意』が、俺の財布を潤すんだ」
彼らはファンではない。
彼らは「養分」だ。
感情という不確かなものに支配され、搾取されていることにも気づかない、哀れな家畜たち。
俺は違う。俺は支配する側だ。
この世界のルールである「金」を握る側だ。
優越感と、胸の奥に沈殿するドス黒い何かを、冷たい夜風と共に飲み込む。
荷物を車に積み込むため、ケイスケは人混みを避けるように搬出路を歩いていた。
――その時だった。
「うぉぉぉぉ! やっぱ最終日は気合入ってるなぁ!」
聞き覚えのある、底抜けに明るい声が、鼓膜を叩いた。
ケイスケの足が、反射的に止まる。
入場列の最後尾に近い場所。
そこに、そいつはいた。
全身に缶バッジを鎧のように装着した「痛バッグ」を背負い、背中に『ミスティア親衛隊』と筆文字で書かれた、特攻服のような法被を羽織った大男と誰よりも大きな声で笑っている男。
タクミだった。
「おーいオタクミ殿! ペンラの色設定したでござるか!?」
「当たり前だろ! 今日はミスティア様のソロパートで、会場全体を『ルミナス・ブルー』に染めるぞ!」
「おうよ! 俺たちの愛を見せてやろうぜ!」
タクミの顔は汗で光っていた。
手には、さっきケイスケが転売目的で買い占めたのと同じ限定グッズが、誇らしげに握りしめられている。
だが、タクミが持つそれは、ケイスケが段ボールに詰め込んだものとは、まるで違う輝きを放っているように見えた。
純粋な喜び。
打算のない情熱。
そして、心の底から「今」を楽しんでいる、一点の曇りもない笑顔。
それは、かつてケイスケ自身が持っていたものだった。
そして、彼が自らの手でゴミ箱に捨てたものだった。
「…………ッ」
胸の奥で、強烈な苛立ちが爆発する。
なぜだ。
なぜ、お前はまだ笑っていられる。
俺は現実に直面し、傷つき、大人になるために全てを捨てたんだぞ。
なのに、なぜお前は、そんな子供じみた幻想の中で、幸せそうにしていられるんだ。
「……成長しない奴だ」
吐き捨てるように呟く。
そう思わなければ、自分の選択が否定される気がしたからだ。
あいつは馬鹿だ。
現実に負けた俺とは違う、何も考えていない馬鹿なんだ。
金を持っているのは俺だ。
勝ったのは俺だ。
だが、彼の足は、タクミに近づくことなどできなかった。
もし目が合えば。
もしタクミが、あの屈託のない笑顔で「ケイスケ!」と呼んできたら。
その時、自分がどんな惨めな顔をするか。
想像するだけで、吐き気がした。
ケイスケはスーツの襟を立て、逃げるように背を向けた。
「……フン。精々、お遊戯を楽しめよ。俺は忙しいんだ」
自分に言い聞かせるように呟き、早足で駐車場へと向かう。
背後から聞こえるタクミの笑い声が、いつまでも耳にこびりついて離れなかった。
空から、ポツリと冷たい雨粒が落ちてくる。
それはアスファルトを黒く染め、やがて訪れる悲劇の舞台を整えるかのように、静かに降り始めていた。




