第12話
ジュビリーとエレオノールを襲った悲劇は、他の者へも牙を剥いた。そして、最悪の結末を迎えたジュビリーが決意したこととは。
ようやくエレオノールの体調が安定してきた頃、それは唐突にやってきた。書斎に篭っていたジュビリーの許に、家令のハーバートが手紙を携えてやってきた。その顔は心なしか引きつっている。
「殿、カラム伯から書状が」
その名にジュビリーはぴくりと眉を吊り上げた。ハーバートから手紙を受け取ると無言で読み進める。やがて目を眇め、口許を歪ませたかと思うと手紙を机に叩き付ける。
「殿……!」
立ち上がったジュビリーは机の上にあったグラスを床に叩き落とし、ハーバートが慌てて主人を押さえ込むが、彼は歯を食いしばったまま、本や水差しなど手当たり次第に床に叩き落としてゆく。
「殿! お止め下さい! お怪我をなさいます!」
「離せ……!」
荒々しく吐き捨てるとジュビリーはハーバートの手を振り払い、傍らの燭台が音を立てて倒れる。
「殿!」
その時、不意に扉が開けられる。
「兄上」
「マリー様……!」
マリーエレンは眉をひそめて兄を凝視した。ジュビリーは肩で息をしながら見つめ返してくる。
「一体何が……」
そう言いながら歩み寄り、やがて手紙に気付いて手を伸ばすが、ジュビリーは手紙をひったくると無言で引きちぎる。
「殿……」
ハーバートが悲痛の面持ちで呟く。無残に引き裂かれた手紙。見覚えのある封蝋にマリーは静かに息をついた。
「カラム伯からのお断りの手紙ね?」
マリーは胸を張って兄を見上げた。
「残念だわ。あの口先が達者な気障男がどんな言葉を並べていたか、見たかったのに」
「……マリー……」
兄の呻きに、彼女は笑顔で頷いた。
だが、カラム伯だけでなく、あれほど引っ切りなしに持ちかけられた縁談はそれ以降ぱたりと来なくなった。
クレドでは領主夫妻の悲しい事件が漏れ伝わったが、日頃から誠実で領民思いなジュビリーに皆が同情し、騒ぎ立てることもなく静かに城を見守っていた。
クレド城にはエレオノールの両親やジョンが移り住み、家族の支えで彼女はようやく生きる意志を示し始めたが、体調の回復を妨げていたのは腹の子に対する嫌悪と憎悪だった。エレオノールは時々泣き叫び、自分の体を傷付けた。
「嫌だ……、嫌だ……! こんな体嫌だ……!」
皆は必死に看病を続けた。そして、否が応にも腹は大きくなってゆき、やがて臨月を迎えた。季節は冬。まだ寒さが厳しい二月の風が窓のガラスを叩いてゆく。決して口にはできなかったが、ジュビリーは後悔していた。やはり、堕ろすべきではなかったのか。いや、あの時堕胎したとしても危険は伴っていた。これでいいのだ。ジュビリーは必死に言い聞かせた。怖かったのだ。エレオノールは無事に生むことができるのか。自分は、生まれた子をこの手で抱けるのか。だが、もう決めたことだ。後には退けなかった
ある晩、ジュビリーは夜中に目を覚ました。何気なく首を巡らすと、エレオノールが体を起こしているのを見て驚いて起き上がる。
「エレオノール」
妻はレース越しに光を投げかける月を見上げていた。雲間に浮かぶ白い月は、音もなく冷たい光を放っている。まるで時の流れが止まったかのような静寂。そう、このまま時が止まってしまえばいいのに。そう胸で呟きながら、ジュビリーは妻の肩を撫でた。
「眠れないのか」
「……夢をみたの」
「夢?」
夫の囁きにエレオノールは穏やかな微笑を浮かべた。
「あなたに……、初めて会った時の夢」
彼女の安らかな表情を久しぶりに見たジュビリーは、思わず肩を抱く。夫の体温に包まれ、エレオノールは安心したように目を閉じた。
「本当はね……、私、一目惚れだったのよ」
「何?」
「素敵なお方だなぁって……、思ったのよ」
ジュビリーの表情に嬉しそうな微笑が広がる。
「私もだ。おまえから目を逸らせなかった」
「ふふ……」
こんな風に温かい気持ちになるのはずいぶん久しぶりだった。ジュビリーは黙ってエレオノールの髪を撫でると、頬に唇を押し付けた。痩せた頬。固い頬骨が唇に当たり、切なさがこみ上げる。だが、それでも愛おしげに背を撫で続ける。
「ジョンのおかげだ。おまえに会えたのは」
「ううん」
エレオノールは夫の手を撫でた。
「あの子があの時落馬しなくても、私はきっとあなたと出会っていたわ。いつか、どこかで、必ず……」
「……ああ」
ジュビリーは言葉を詰まらせながら彼女を抱きしめた。
「私……」
エレオノールは言葉を続けた。
「私、こんな体になったけど、幸せなんだわ……」
幸せ。ジュビリーは思わず顔を上げた。ぼんやりとした瞳で月を見上げたまま、エレオノールは呟いた。
「あなたに会えて……、あなたは、私が大人になるのを五年も待ってくれて……」
「エレオノール……」
「こうして、あなたの、妻に……」
妻は笑顔で振り向いた。
「こんな体になっても、あなたは……」
それ以上は言わさず、ジュビリーは唇を塞いだ。黙って長い口付けを交わすと、ジュビリーは息を押し殺してエレオノールを抱きしめた。
その翌朝、未明だった。エレオノールは産気付き、城は一気に騒がしくなった。
寝室では医師や侍女、エレオノールの母ヘザーやマリーエレンが付き添ったが、出産は困難を極めた。ジュビリーとギルフォード子爵は寝室の前で不安げに扉を見守っていた。
「……エレオノール……」
震える手で額を押さえるジュビリーの背を、ギルフォードがそっと支える。陣痛が始まって数時間後、不意に寝室がどよめいた。
「湯を! 早く……!」
室内からのざわめきにジュビリーは真っ青になって扉を開け放った。
「エレオノール!」
医師が振り返る。産婆が腰を屈めて震えている。ヘザーとマリーエレンは顔を覆い、寝台には蒼白のエレオノールが横たわっている。ジュビリーは言葉を失った。やがて、彼はふらふらと寝台に歩み寄る。
「……エ、エレオノール!」
医師が辛そうに目を伏せるとジュビリーの耳許で囁く。
「死産です。残念です……!」
ジュビリーはがくりと膝をついた。ぐったりと横たわるエレオノールを載せた寝台が、残酷な生贄の祭壇のように見える。我知らず涙がこぼれ落ち、彼はよろめきながら体を起こすと、苦しげに呼吸を繰り返す妻に震える手を伸ばす。
「エレオノール……」
夫の呼びかけに彼女はうっすらと目を開いた。
「あ……、あ……」
妻は苦しげに息を吐き出した。
「エレオノール……」
「う、産声が」
弱々しい囁き。
「き、聞こえない」
ジュビリーは泣きながら妻の頬を撫でた。エレオノールは譫言のように繰り返した。
「産声が、産声が、き、聞こえない……!」
「も、もういい」
ジュビリーは言葉を詰まらせながら囁いた。
「よくがんばった……、もういい……! もういいんだ、エレオノール……!」
だが、エレオノールはそれから高熱が下がらず、意識も薄れていく一方だった。皆は必死で看病した。
そして、翌日の朝。一睡もせずに看病をしていたジュビリーは、疲れ果てた顔でエレオノールの髪を撫でていた。もう今が何時なのか、最後に眠ったのがいつだったかもわからないぐらい、ジュビリーは呆然としていた。それでもゆっくりと妻の髪を撫で続けるジュビリーに、エレオノールがうっすらと目を開けた。そして、疲労の色がありありと見える夫の顔を見つめる。
「……あなた……」
ジュビリーは疲れた目を上げた。エレオノールは夫を見つめたまま囁いた。
「お願い……」
「どうした」
小さく囁きながら身を乗り出すと、エレオノールはかすれた声で言葉を続けた。
「私は、天に召されても……、あなたを、支えるわ」
妻の言葉にジュビリーは眉をひそめた。
「……何の話だ」
「だ、だけど、あなたは……」
苦しげな呼吸に言葉が途切れる。
「エレオノール……! しっかりしろ! エレオノール!」
ジュビリーのただならぬ様子に、寝室の隅に控えていた医師が席を立つと侍女に耳打ちする。
「あなたは……、あなたを、必要とする人を、支えて、あげて……」
苦しい息遣いのまま、必死に囁く妻にジュビリーが叫ぶ。
「エレオノール……! 馬鹿なことは言うな!」
「……お願い……」
「エレオノール!」
寝室にギルフォードやヘザー、ジョンとマリーエレンが駆け付け、寝室は騒然とする。
「エレオノール!」
「姉上!」
皆が口々に名前を呼ぶ。エレオノールは目を閉じ、喘ぎながら呼吸を繰り返した。
「駄目だ! いくな! エレオノール!」
「あなた……」
ジュビリーは妻の手を握りしめて叫び続けた。
「私を置いていくのか? 駄目だ! いくな!」
うっすらと開いた目から涙が滲む。必死に呼びかける夫の姿に表情が崩れる。
「……ごめん、なさい」
「エレオノール!」
「義姉上……!」
エレオノールは最後の力でジュビリーの手を握りしめた。彼は妻に覆い被さるように抱きしめた。手から、すっと力が抜ける。
「エレオノール……?」
「姉上……!」
寝室に嗚咽が上がる。
ジュビリーは震えながら顔を上げた。目を閉じた妻。青白い唇がかすかに開いている。ジュビリーは顔を引きつらせた。
「……エレオノール……! エレオノール!」
妻は答えない。がくがくと震える手で頬を撫でる。まだ温かい頬。まだ、こんなにも温かいのに、もう、ここにエレオノールはいないのか。五年だ。五年待ってようやく結ばれたというのに、こんなにも呆気なく別れが訪れるのか。
「エレオノール……」
ジュビリーは悔しげに呻くと、もう一度強く抱きしめた。
王都イングレス、プレセア宮殿。モーティマーが王の執務室を訪れると、エドガーは書類の山を前に不機嫌そうな顔付きで座り込んでいた。
「ロバートか」
エドガーは低く呟いた。
「レノックスがまた後宮で暴れたらしいな。まったく……、あれにも困ったものだ」
苛立たしげに鼻を鳴らすと書状を机に投げる。
「あれももう十二歳だろう。そろそろ落ち着いてもらわねば」
そこまで呟いても相手は黙ったままだ。エドガーは眉をひそめて顔を上げた。
「……ロバート?」
若い秘書官は強張った顔付きで立ち尽くしていた。
「……先程、クレドから使者が参りました」
クレドと聞いてエドガーは息を呑んだ。
「一昨日未明、クレド伯夫人がお亡くなりになったそうでございます」
エドガーの顔から血の気が失せる。モーティマーは静かな口調のまま続けた。
「ご懐妊されたそうですが、死産となり、夫人もそのまま……」
それまでの不遜な態度は消え失せ、動揺し、目を四方に泳がす王にモーティマーは追い討ちをかけた。
「陛下のお子です」
「ロバート……!」
怯えた声を上げる主君に、モーティマーは眉を寄せた。
「……どうすればいい。どうすれば……」
秘書官は息をついた。
「時を見て使者を送ります」
「……頼む」
エレオノールの葬儀は身内だけでひっそりと行われた。駆け付けたベネディクトは、柩で眠るエレオノールの姿に胸を痛めた。痩せ衰えながらも愛らしい容貌を遺した死に顔は、我が子ケイナを思い出させる。悲劇は繰り返されたのだ。ベネディクトは無力感に苛まれた。
エレオノールの遺体は、礼拝堂の裏に広がる庭園の一角に埋葬された。司教の祈りが静かに口ずさまれ、人々のすすり泣きと共に柩が土に埋もれてゆく。埋葬が見届けると、ジュビリーは黙って踵を返した。
「兄上」
思わずマリーエレンが呼びかけるが、兄はその声も耳に入らない様子で立ち去ってゆく。不安そうな表情を浮かべるマリーの肩をベネディクトがそっと撫でる。
ジュビリーはそのまま城から出ると森へ向かった。一人であてもなく歩き回り、やがて力尽きたように座り込むと、天を仰いで倒れ込んだ。しばらく蹲り、重い体をねじると仰向く。
冬の空が広がっている。くすんだ灰色の空。枯れ枝がかすかにそよぐ風に揺れている。空も雲も木々も、全てこれから何も変わらずにそこにあるのだ。だが、自分だけは違う。隣にエレオノールがいない。いるべき存在がいない。自分の半身がもがれたようだ。埋めきれない喪失を抱えて、これからも同じように生きていけと言うのか。エレオノールの叫びが胸に響いた。
(こんな体で生きていたくない……!)
そうだ。こんな体で生きていけない。ジュビリーは右手を腰に這わせると、短剣をゆっくり引き抜いた。鈍い銀色の輝きに目を眇める。刃に映る虚ろな表情の自分。彼は短剣をそっと首に当て、ぐいと力を込めた。
が、短剣は首筋を裂くことはなかった。そして、自らの手首を握りしめる存在に気づいてはっと目を上げる。
そこには、両手で必死に手首を握りしめている妻の姿があった。艶やかな黒髪が肩に流れ、頬をくすぐる。涙を堪えるつぶらな瞳に、ジュビリーは息を呑んだ。
「……エレオノール……」
左手を伸ばし、その頬を撫でようとすると、彼女の姿は消えた。ジュビリーの手は空しく宙を掴んだ。空は変わらずに重苦しい雲が覆っている。
(あなたは死んじゃ駄目……! 死んでは駄目……!)
エレオノールの叫びを、忘れたわけではない。だが、無理だ。ジュビリーは短剣を取り落とした。そして、震えながら顔を覆う。
「……生きろというのか……」
悔しげな囁き。唇を歪め、息を吐き出す。
「おまえがいない、この世界で……!」
それからジュビリーは城に篭った。半年経った頃、王宮から最初の使者が訪れたが、家令のハーバートは門前払いにした。それからも何度か使者が訪れたが、彼らは一度もジュビリーに会うことはかなわなかった。やがて、王宮側は狩りの季節になると「王が主催する狩りへの招待」という名目でジュビリーを召喚しようとしたが、それでもジュビリーは体調不良を理由に断った。
ジュビリーが王宮を拒み続けていると耳にしたベネディクトは心配になってクレドを訪れた。大広間へ案内される途中で、マリーエレンとジョンが出迎えに現れた。
「わざわざありがとうございます、ベネディクト様」
「ジュビリーの様子は?」
マリーは悲しそうに顔を振った。
「……一日中書斎に篭っています。気分を変えるために、領内を回ってみてはと言っても、聞く耳を持ってくれません」
ベネディクトは悲痛な面持ちで溜息をついた。
「そなたも大変だな」
だが、マリーは控えめに微笑んだ。
「私は大丈夫です。ジョンが色々手伝ってくれますから」
その言葉に、後ろで控えていたジョンが少し顔を赤くして目を伏せる。
「すまないな、ジョン。そなたも姉君を亡くして辛いのに……」
「私にできることがあれば……、やるだけです」
少し強張った顔付きながら、ジョンははっきり言い切った。ベネディクトが誇らしげに微笑んだ時、廊下の先で扉が閉まる音が耳に飛び込む。そして、石畳に乾いた靴音が高く響く。皆が顔を向けた先に、ジュビリーの痩身が目に入る。ベネディクトは思わず息を呑んだ。
漆黒の上衣に胴着。眉間に刻まれた深い皺。落ち窪んだ両眼は鋭い光を投げかける。全身を黒一色に包んだジュビリーを、皆は悲壮な面持ちで見つめた。
「兄上、ベネディクト様が」
妹の呼びかけにジュビリーはベネディクトに目を向けるが、ほんのかすかに頷くだけで通り過ぎようとする。そんなジュビリーにジョンが呼びかける。
「義兄上」
ジュビリーは顔をしかめて立ち止まる。
「ご気分はいかがですか。久しぶりに遠乗りに行きませんか」
「ジョン」
義兄の固い声にジョンは口をつぐんだ。
「いつまで私を義兄と呼ぶつもりだ」
マリーが驚きの表情で身を乗り出そうとするが、ジョンがそっと制止する。
「私はもう、おまえの義兄ではない」
突き刺さるような冷たい言葉にも、ジョンは動じなかった。彼はにっと笑うと一歩前へ踏み出した。
「義兄上」
ジュビリーは黙ったままだった。
「義兄上が義兄であることが、私の誇りです。誰にも文句は言わせません」
マリーは思わず涙ぐんでジョンを見上げた。だが、ジュビリーは顔を背けると「好きにしろ」と呟き、踵を返した。
エレオノールが亡くなって三年近く。ジュビリーは変わらずに心を閉ざし続けた。だが、領主としての勤めは果たし、クレドでは静かな時が流れていた。
秋が深まりつつあった、ある日のこと。書斎に篭っていたジュビリーに、ジョンとマリーエレンがやってきた。
「失礼します」
義兄は相変わらず黙ったままだった。
「義兄上、お願いがあります。私と一緒に、トゥリーに来ていただけませんか」
ジュビリーはわずかに眉をひそめて顔を上げた。ジョンは寂しげに微笑んだ。
「父が、長くないのです」
その言葉にジュビリーは目を見開いた。ジョンの後ろでは、マリーが暗い表情で俯いている。
「去年からずっと臥せていましたが、医者がもう、長くないと……」
しばらく黙り込んでいたジュビリーは、やがてかすれた声で呟いた。
「……何故言わなかった」
「言えるわけないじゃない!」
マリーが涙混じりに叫び、ジュビリーは声を失った。
「あ、兄上は、私たちの言うことなんか聞いてくれないじゃない! 辛いのは兄上だけじゃないのよ! ジョンだって……!」
「マリー様」
ジョンが優しく囁く。
「皆辛いのです。でも、義兄上が一番辛いのですよ」
「でも……!」
泣きじゃくるマリーの背をそっとぎこちなく撫でると、ジョンは義兄に目を向けた。
「父が会いたがっています。お話がしたいと」
その足でトゥリーの屋敷へ向かったジュビリーは、子爵夫人の出迎えを受けた。久しぶりに会ったヘザーはジュビリーの訪問を喜んでくれた。だが、その顔は面痩せし、こんなにも長い間トゥリーを訪れなかったことを思い知らされたジュビリーは思わず拳を握り締めた。寝室に案内されたジュビリーは、痩せ細ったギルフォードの姿に絶句した。
「伯爵」
それでもギルフォードは笑顔で呼びかけた。
「よくおいで下さいました」
「……子爵」
思わず寝台の側に跪くとギルフォードの手を握る。
「そろそろ……、天に召される日も近かろうと思いまして……」
ジュビリーは悔しげに目を細め、口を開こうとするが言葉が出ない。小さく震えながら自分を見つめてくる若い伯爵に、ギルフォードは疲れた微笑を浮かべる。
「あんなことになってしまいましたが……、娘は、幸せだったと思います」
その言葉にジュビリーは否定するように黙って顔を振る。
「あなたのような立派な伯爵に見初められ、五年という長い婚約を経て結ばれた。……あなたに愛された娘は、幸せでした」
「子爵……!」
ギルフォードはしばし口をつぐみ、天蓋を見つめた。やがてその瞳が涙で揺れる。
「それでも私は……、娘が不憫でなりません……!」
震える声で彼は囁き続けた。
「本当ならば、今でもあなたと共に穏やかで静かな暮らしをしていたはずなのです。それ以上のことは、何も望んではいなかったのに……」
ジュビリーはギルフォードの手を握りしめたまま項垂れた。彼の言葉は自分の言葉だ。自分が胸の奥底にねじ込んできた思いを、ギルフォードが代わりに言葉にしている。ギルフォードは息をついてからジュビリーに目を向けた。
「……伯爵。あなたは、これからも生きていかなくてはならない。娘のことを忘れないでほしい。ですが、あなたはあなたの人生を歩んでほしい。娘も、そう願っているはずです」
「……子爵……」
ジュビリーは涙の混じった声で囁いた。
「私は……、エレオノールを幸せにしたかった。二人で幸せになるはずだった……! 許してくれ……!」
ギルフォードは顔を振った。
「あなたが生きて、幸せになることが娘の幸せでもあります。娘の願いを、忘れてはいないでしょうな」
エレオノールの願い。ジュビリーは息を呑んだ。
「あなたは、あなたを必要とする人を支えてあげて」
ギルフォードは力強く頷いた。そして、痩せ細り、筋張った手でジュビリーの手を握りしめた。
翌月、ギルフォードは息を引き取った。ジョンは二一歳で子爵家を相続することになった。だが同時に、それは国王に臣従を誓うことを意味していた。
冬の寒さが忍び寄り始めた頃。王都イングレスから戻ったジョンは、ジュビリーと共に父の墓標を訪れた。
「無事に臣従の儀を終えました」
ジョンは墓標に向かって呼びかけた。
「今日から私も子爵ですよ、父上」
ジュビリーは静かにジョンの背中を見つめていた。そして、少しの沈黙の後、ジョンは重い足取りで義兄を振り返った。
「……あの男、何て言ったと思います」
ジョンは項垂れると大きく息をつき、低い声で続けた。
「姐御のことはすまなかった。そなたに弔慰金を用意している、と」
ジュビリーは眉根を寄せ、拳を握りしめた。
「それから、義兄上をイングレスに連れてきてほしいと言われました。……どちらも、お断りしました」
そこでジョンは歪んだ笑顔で声を高めた。
「私もやるでしょう? 王の申し出を突っぱねたのですよ。父に見てほしかったですよ! 父はきっと――」
と、そこでジョンは唐突に口をつぐんだ。肩を震わせながら顔を上げ、目に涙を溜めて見つめてくるジョンに、ジュビリーは肩を叩いた。
「ジョン」
ジョンは思わずジュビリーにすがりついた。
「義兄上……! く、悔しいです……! 悔しいです……!」
ジュビリーは黙ってジョンを抱きしめた。眉間の皴が深まり、口許が歪む。彼は目を上げると、ギルフォードの墓標を見つめた。
(あなた……、ごめんなさい……)
エレオノールの最期の言葉。
(娘が不憫でなりません……!)
ギルフォードの悲痛な叫び。
(ジュビリー様、どうかお幸せに……)
ケイナとの別れ。
ジュビリーは目を閉じた。あの男は、自分から多くの大事な者を奪った。自分だけではない。あの男に幸せを奪われた者は、まだたくさんいる。そう思うと胸の奥が熱く燃え滾るのを感じる。
「……ジョン」
「は、はい」
嗚咽を漏らし続けていたジョンは、しゃくりあげながら涙を拭って義兄を見上げた。彼は、険しい顔つきで囁いた。
「エレオノールを奪った男から、未来を奪う」
「……え?」
ジョンは眉をひそめると聞き返した。
「あの男が一番大事にしているものを、奪う」
ジョンの顔から血の気が失せる。
「だ、大事なもの……。ま、まさか、キリエ様を……?」
口ごもりながら譫言のように呻くジョンにジュビリーは顔を振る。
「キリエはケイナ様の娘だ」
その言葉にジョンはごくりと唾を飲み込む。
「……何を、なさるおつもりですか……!」
ジュビリーはゆっくり答えた。
「王太子を殺す」
その冷徹な言葉に、ジョンは目を見開いた。体がかっと熱くなったかと思うと、やがて全身が震え始める。
「……あ、義兄上……!」
ジュビリーは表情を変えないまま言葉を続けた。
「あの男には嫡子が一人しかいない。これから先、あの冷え切った夫婦に子ができるとは思えん。……たった一人の世継ぎを失えば、あの男はどう思うだろうな」
「義兄上……!」
ジョンは義兄の胴衣に手をかけてすがりついた。
「お、落ち着いて下さい……! アングルが王太子を失えば、アングルの未来は……! 国民の未来は……!」
だが、義弟の必死の呼びかけに対し、ジュビリーは低い声で言い捨てた。
「知ったことか」