第13話
妻を奪われたジュビリーの復讐が始まる。それは、新たな悲劇の始まりでもあった。
その年の冬。秘書官モーティマーと宮廷侍従長セヴィル伯が緊張した面持ちで王の執務室へと向かっていた。
「陛下……、ご報告が」
いつになく強張った顔つきの二人に、エドガーは眉をひそめた。
「どうした」
「クレド伯が、今年の王宮主宰の狩りに参加すると……」
クレド伯の名にエドガーは顔を引きつらせた。この四年間、毎年召喚状を送り返してきたあの男が、今年はやってくるというのか。
「叔父上の言動ひとつで、国に戦火が」
甥の言葉が脳裏をよぎる。確かに、クレド伯は将来を嘱望された逸材だった。宮廷に出仕させていた頃は主に諸侯の監視役を任せていたが、あの沈着冷静さは外交を任せてもいいほどだった。だがそれももう、かなうまい。この手で大木の芽を潰してしまったのだ。落とし前は、自分でつけねばなるまい。
「……そうか」
「陛下、よい機会です。ぜひ和解を……」
「わかっている」
エドガーは恐れを隠すように口走ると背を向けた。
王宮主宰の狩りが催される前日。招かれた賓客の一人、ホワイトピーク公爵ウィリアム・デーバーは、プレセア宮殿の大廊下で懐かしい人物の姿を認めて立ち止まった。
「あれは……」
側近が声を低めて囁く。
「クレド伯でございますね」
「……今年はやってきたか」
大廊下は異様な雰囲気に包まれている。皆は黒衣の伯爵が従者を連れて執務室へ向かう光景を遠巻きに見守った。その姿を見守り、ウィリアムはジュビリーの妻が襲われた事件で王に意見したことを思い出した。諫言したことで、彼は多くの人々から密かに称賛された。アングル王家の男子で、ウィリアムほど律儀で真面目な男はいないと囁かれたのだ。
だが彼は、皆が想像するよりもはるかにあの事件について危機感を持っていた。エドガーの漁食ぶりは今に始まったことではないし、妻女を差し出す廷臣も多いが、ジュビリーの事件は庇いようがなかった。同じことを再び仕出かせば、必ずや反乱分子が動き始める。本来、叔父はそこまで愚かではないはず。やはり、愛妾ケイナ・アッサーの死が彼をここまで狂わせたのか。ウィリアムはやるせない思いで溜息を吐き出した。
その頃執務室では、やや青ざめた顔つきでエドガーが待ち構えていた。
「陛下、クレド伯爵が参内いたしました」
落ち着きなく膝を揺らし、眉間に皺を寄せたまま俯いていた王は息を呑んで顔を上げた。扉が開かれると、ジュビリーが静かに入ってくる。黒尽くめの衣装に身を包んだ相手に、王はごくりと唾を飲み込んだ。
二人の対面は、実に四年ぶりだった。探るような鋭い眼光は変わらないジュビリーに対し、いつも自信に満ち溢れ、尊大な態度だったエドガーは精一杯の虚勢を張り、見つめ返した。そんな王を、ジュビリーは一礼もせずじっと見下ろした。この男が、エレオノールを襲った。子まで孕ませ、そして……。ジュビリーは拳を握りしめた。この男が、全てを奪ったのだ。
黙ったままのジュビリーにセヴィル伯が敬礼を促そうとしたが、エドガーは顔を振った。そして、静かに立ち上がる。
「……よく来てくれた」
エドガーはようやくその一言を口にした。
「全ては予のせいだ」
それでもジュビリーは口を閉ざしたままだった。
「こんなことになろうとは……、正直思ってもみなかった」
「そうでしょうとも」
冷たい言葉が跳ね返り、王は言葉を飲み込んだ。執務室が緊迫した空気に満ちてゆく。モーティマーがごくりと唾を飲み込んでジュビリーの背を見守る。すべてを拒絶する尖った背を。
「……クレド伯」
エドガーは喘ぐように囁いた。
「せめてもの手向けだ。そなたに、侯爵位を叙位したい」
「お断りいたします」
間髪を入れずに答える相手に、エドガーは困惑の表情になる。ジュビリーは目を眇めた。
「私は、叙勲に値するようなことは何一つ致しておりませぬ」
「しかし……」
口ごもる王に、ジュビリーは小さく息をついた。
「もう、結構でございます。失礼」
「クレド伯……!」
王の呼びかけにもジュビリーは一礼すると踵を返した。侍従が引きとめようとするのを振り払い、扉を開け放つ。そして、扉を荒々しく閉じた時。廊下の先に佇む人影に顔を上げる。
「……バートランド」
相手はゆっくりと歩み寄ってきた。ジュビリーの表情がほんのわずかにほぐれる。
「……ホワイトピーク公」
ジュビリーは深々と一礼した。彼が自分のために王に諫言したことはモーティマーから聞かされていた。
「奥方は、残念だった」
言葉少なく呼びかけるウィリアムに、ジュビリーは黙って頷く。
「せめて、そなたの恙ない姿を見られてよかった。……ここへ参内するのは辛かったと思うが」
「……ありがとうございます」
ジュビリーは口早に呟くともう一度頭を下げ、その場を立ち去っていった。ウィリアムはその背を見送り、嘆息した。
翌日の未明。プレセア宮殿の城門には、多くの馬上の人々が集まっていた。白い息を吐いて地を蹴る馬たち。鷹匠の腕では目隠しをされた鷹がおとなしく翼を休めている。毎年この季節になると、多くの廷臣や貴族たちが王に付き従って大規模な狩りを行う。これはれっきとした宮廷行事のひとつであり、重要な社交の場であった。特に、今回はあのクレド伯が四年ぶりに参加するとあって、物見高い貴族たちは興味津々に様子を窺っていた。皆はどこか腫れ物でも扱うかのようにジュビリーの挙動に注目していたが、本人の目は人々の中心に向けられている。
豪奢な狩りの胴着を着込んだエドガー。その隣には、居心地悪げに馬に跨がったひ弱そうな少年。王太子エドワード。まだ十歳の幼い少年は銀で作られた花冠を被り、興奮気味な周囲の様子におどおどした表情を浮かべていた。その背後には、違う意味で居心地が悪そうな表情の少年が控えている。王太子の異母兄レノックス・ハートだ。彼は侍従たちが甲斐甲斐しく弟の世話をしているのを面白くなさそうに見つめている。ジュビリーは感情が読み取れない瞳のまま、三人を見つめていた。やがて、廷臣の一人が声を張り上げる。
「ご出発!」
従者たちが先導し、城門から騎馬が雪崩のように疾走する。向かった先は、宮殿から馬を走らせて一時間ほど離れた王都郊外の森、「隠れの森」。王領であり、王室専用の狩場である。鬱蒼と黒い木々が生い茂る森はまさに名前の通り「隠れの森」であった。
やがて夜明け前の仄暗い森に到着すると、皆は朝食の準備を始めた。狩りの朝は森で食事をするのが慣例だ。ジュビリーが馬を従者に託していると、セヴィル伯がそっと囁いてくる。
「クレド伯、陛下のお側に控えよ」
「嫌です」
「バートランド」
セヴィル伯は同情の篭った目で見つめてきた。
「気持ちはわかる。だが、そなたが陛下と和解した姿を皆に見せねばならん」
顔を引きつらせて思わず身を乗り出すジュビリーの胸を、慌てて押し留める。
「わかっている……! そなたが和解などしていないことぐらい、わかっている! だが、そなたのためだ……!」
必死に囁いて言い聞かせるセヴィル伯に、ジュビリーは眉根を寄せて黙り込んだ。やがて、彼は静かに頷くと重い足取りで王を振り仰いだ。
ちょうどその時。エドガーの隣で佇んでいた王太子がこちらを振り返った。病弱そうな青白い顔。落ち着きのない大きなブラウンの瞳。父親とは、似ても似つかない。すると、エドワードは不意に背中を小突かれて慌てて振り返った。見ると、レノックス・ハートが弓の先で胸をつついてくる。
「兄上……!」
「やめろ、レノックス」
父親にたしなめられ、レノックスはふんと鼻で笑うと弓を従者に投げる。エドワードはおどおどした顔付きで父親の影に隠れた。
「……クレド伯」
エドガーに呼ばれたジュビリーは、一礼すると示された敷物に腰を下ろした。温かい食事が振る舞われ、辺りに白い湯気の柱が立つ。ジュビリーは国王親子からは目を逸らし、黙って食事を進めた。だが、耳には親子の会話が否応なしに流れ込んでくる。
「父上、これ食べられません」
「好き嫌いが多いから大きくなれんのだ。何度言えばわかる」
「でも……。それに、寒いです」
「冬の狩り場程度で寒がってどうする。王はな、どんな過酷な戦場でも戦わねばならん時が必ず来るのだ」
ジュビリーはそっと彼らを見やった。エドガーは嫌がる息子に熱いスープを飲ませ、さりげなく頭を撫でる。そして、少し乱れた胴着の襟を直してやる。それらの仕種を、ジュビリーはじっと見つめていた。エドワードが椀から口を離した時。
不意に馬の嘶きが耳を劈く。そして、次々と馬がけたたましく鳴き叫び、その場は騒然となった。皆が慌てて腰を浮かした時。ジュビリーはエドワードの足許にあった水筒を手に取った。栓を抜き、袖に隠し持っていた紙の包みから粉末を中に落とす。栓を締め直し、再びエドワードの足許へ戻す。ものの数秒の出来事。その間、胸の鼓動が早まることも、手の平が汗ばむこともなかった。
「どうした」
「いえ、大丈夫です。鳥の羽ばたきに馬が驚いただけのようです」
立ち上がったエドガーは侍従の説明にふんと鼻を鳴らした。一方、青い顔で馬たちを凝視している弟にレノックスが意地悪く笑いかける。
「なんだ、馬に襲われるとでも思ったか」
途端に、エドワードの顔がかっと紅潮する。
「安心しろ。あいつらも貧弱なおまえを食うほど飢えちゃいないさ」
「兄上っ!」
エドワードは真っ赤な顔で兄を睨みつける。
「レノックス」
エドガーがうんざりした顔付きで言い放つ。
「エドをいじめるな。兄らしくせんか」
だが、ジュビリーはレノックスが自虐的な笑みで呟いたのを聞き逃さなかった。
「……妾腹は兄弟じゃない」
ジュビリーはしばしレノックスを見つめてから王太子を振り返った。彼はまだ怒りがおさまらない様子で水筒の栓を引き抜き、喉を鳴らして水を飲んだ。ジュビリーは、それを冷たい目のまま見守った。
「陛下、そろそろ」
セヴィル伯の言葉に、侍従らが食事の席を片付け始める。そして、人々はそれぞれ自らの馬へと向かった。
やがて、狩りが始まる。黒い森の中で獲物を追い立てる怒号と掛け声が上がり、馬が駆け抜ける音が地鳴りのように響く。猟犬が何頭も放たれ、森はざわめきに包まれた。
集団の先頭を切って馬を走らせていたのは、国王でも王太子でもなく、庶子のレノックス・ハートだった。常日頃から乱暴者のレノックスは狩りが大好きだった。だが、そんなレノックスにエドワードは必死に追いすがっていた。
エドワードはおとなしい少年だったが、いつも何かにつけてはちょっかいを出してくる異母兄が大嫌いだった。時々自分を訪ねに来てくれるヒース兄様はあんなに優しいのに。何故、レノックス兄様は自分をいじめるのだ。きっと、王太子である自分が羨ましくて仕方ないのだ。哀れな妾腹……!
エドワードがむきになって兄を追いかけていることに気づいたエドガーは身を乗り出すと怒鳴った。
「レノックス!」
本人はちらりと後ろを振り返った。
「エドワードを先に行かせてやれ!」
レノックスはむっとした。だが、舌打ちすると素直に馬の手綱を操る。途端に弟の馬が脇から追い越してゆく。追い抜き様に、エドワードがにこっと笑いかけたのが見えた。
「ふん」
レノックスは面白くなさそうに鼻を鳴らした。だが、後でまた父親に小言を食らうのも面倒だった。ここはおとなしく引き下がろう。
エドワードは前に誰もいない森の中を駆け抜けた。誰も自分より前にいない。父上でさえ。そのことに得意になって夢中で馬の腹を蹴る。皆が自分についてくるのだ。もっと早く! もっと!
だが、不意に彼は目を瞬かせた。
(……なんだ?)
エドワードは眉間に皴を寄せた。瞼が重い。急に頭が霞がかったようにぼんやりとなる。
(……眠い。どうして)
耳鳴りが一瞬走ったかと思うと、不意に周りの音が聞こえなくなる。眠い。眠い。目が、閉じる。
「エドワード――!」
レノックスが口走った瞬間だった。弟が急に馬上で背筋を伸ばした。と、思った瞬間。ぐらりとよろめくと馬から雪崩落ちる。
「あっ……!」
レノックスは息を呑んだ。エドワードの体は人形のように地面に叩きつけられた。後に続く皆も言葉を失う。
「殿下……!」
「殿下が落馬されたぞ!」
「殿下!」
レノックスは慌てて手綱を引き絞り、弟に駆け寄ると馬から飛び降りる。
「エドワード……! エドワード!」
地面に転がるエドワード。恐る恐る肩に手をかけるが、弟の首はかくりと向きを変えた。ありえない方向に。レノックスはへなへなとその場に座り込んだ。やがて、すぐに周囲に人だかりができる。廷臣の一人がエドワードの首筋にそっと手を添える。そして、その表情が強張る。
「どうした!」
エドガーの怒鳴り声に皆が振り返る。
「エドワードがどうした! 何があった!」
「ら、落馬されました……!」
「何……!」
一瞬体を硬直させたエドガーは、慌てて馬を飛び降りると駆け寄った。
「エド……!」
廷臣らが道を開けると、倒れた息子の姿が目に飛び込む。顔面蒼白のレノックスが震えながら振り返る。エドガーはごくりと唾を飲み込んだ。体中から汗が噴出す。
「……エド……。エドワード……、エドワード……!」
ふらふらと歩み寄ると息子の体にすがりつく。傍らの廷臣が低く囁く。
「……手遅れです」
エドガーはぶるぶると震えながら息子の変わり果てた姿を凝視した。
「どうして……! どうしてだ……! エド……! エドワード!」
皆が沈黙を守る中、エドガーの叫びがこだまする。やがて、黒い鳥の群れが森の上で集まりだし、耳障りな鳴き声を上げ始める。王の背後では、体を小さく震わせたレノックスが蹲ったままだ。呆気ない、あまりにも呆気ない最期に、皆は呆然としてその場に立ち尽くしていた。つい先ほどまで馬を走らせていた、王太子が……。
やがて、遅れてきた廷臣らが追いつくが、状況がわからないまま、息を呑んで手綱を握りしめる。その中に、黒衣の男がいた。彼はゆっくりと馬から降りると、息子の名を叫び続ける王の後姿を見つめた。
「エドワード……! エドワード!」
空しく森に響き渡る叫び。ジュビリーは表情を変えることなくその様子を見守った。髪を振り乱して泣き叫ぶエドガー。血の気を失い、地に倒れた王太子。言葉を失って立ち尽くす庶子のレノックス・ハート。
無駄だ。何度名を呼んだところで、「それ」は返事をしない。永久に。ジュビリーはやがて踵を返した。
エスタド王国、ピエドラ宮殿。後宮の中庭では、愛くるしい少女たちが三人、寒空の下で元気よく遊びまわっていた。
「待って、姉上!」
幼い少女がはしゃぎながら姉を追いかけ、甲高い笑い声が上がる。そうやって夢中で遊んでいると。
「フアナ」
不意にかけられた太い声に三人がはたと立ち止まる。振り返ると、黒髭を蓄えた大柄な男がバルコニーに佇んでいる。〈大鷲〉の異名で恐れられるエスタドの王、ガルシア・フアン・デ・エスタド。
「父上!」
少女たちが嬉しそうに声を上げるが、父親の強張った表情に言葉をなくす。フアナと呼ばれた少女が怖々と歩み出る。
「どうしたの? 父上……」
ガルシアは娘を手招くと大きな手で美しい金髪を撫で、やがて胸に抱いた。妹たちはただならぬ雰囲気に戸惑いの様子を隠せない。
「……悲しい報せだ」
父のくぐもった囁きに眉をひそめる。
「アングルのエドワードが身罷った」
瞬間、大きく目を見開く。末娘が小さく声を上げて姉を見上げる。
「……狩りの最中に落馬したらしい。手の施しようがなかったそうだ」
胸の中でフアナが「嘘」と呟き、ガルシアは吐息をついた。
「……残念だ。あの幼さで天に召されるとは。体は弱くとも、学問に打ち込んでいた賢い少年だったというのに――」
ガルシアはそこで口を閉ざした。娘が胸にすがりつくと嗚咽を漏らしたのだ。
「……可愛そう……!」
フアナの悲痛な囁きにガルシアは目を閉じると、娘の背を愛おしげに撫でた。
「エド様……! エド様が、可愛そう……!」
王太子エドワードの急逝はアングルの国民に衝撃を与えた。不毛とも思える長い結婚生活でやっと授かった、たった一人の嫡子。そのエドワードが亡くなったのだ。当然、エスタドとの縁戚は叶わず、同盟も白紙となった。アングル国内は混乱が広がった。
王太子の死の数日後。書斎に籠っていたジュビリーの耳に、ざわめきが聞こえてくる。扉が忙しく叩かれ、マリーエレンの切羽詰まった声が飛び込む。
「兄上……!」
彼は振り向きもしなかった。が、荒々しく扉が開け放たれる。
「ジュビリー!」
聞き慣れた声。ジュビリーはゆっくり振り返った。そこには、息を切らし、両目を見開いて凝視してくるベネディクトの姿があった。
「先日の王宮の狩り。参加したそうだな……!」
彼は表情を変えないまま、無言でベネディクトを見上げた。
「その狩りの最中に王太子が身罷った……! これは、偶然か?」
書斎の戸口ではマリーやジョン、ハーバートが固唾を飲んで見守っている。口を閉ざしたままのジュビリーにベネディクトは身を乗り出して囁いた。
「何故黙っている……! 言ってくれ、偶然だと! ジュビリー!」
しばしの沈黙の後、ジュビリーは静かに口を開いた。
「……私がやった」
ベネディクトの眉がぴくりと釣り上がる。
「私が殺した」
「……何てことを……!」
顔を歪め、絞り出すように呻くベネディクトに、ジュビリーは目を眇めて言い放つ。
「仇を討っただけだ。奪われたから、やり返したまでだ」
「ジュビリー……! 自分が何をしたか、何を言っているのか、わかっているのか!」
震える手でジュビリーの両肩を掴み、必死に言い聞かせる。
「取り返しのつかないことを……! わからんのか、子どもに罪はない!」
「ああ、そうだ!」
突然ジュビリーが鋭く叫び、マリーがびくりと体を震わせる。
「エレオノールに罪はない! 腹の子にもな!」
まっすぐに睨みつけてくるジュビリーに、ベネディクトは顔を振る。
「馬鹿なことを……! おまえがしたことは反逆だ! おまえは王から世継ぎを奪っただけではない! 国民から、アングルから未来を奪ったのだ! それがどういうことなのか、わかっているのか!」
「ベネディクト!」
ジュビリーの怒鳴り声に皆が息を呑む。彼は口を歪め、眉間に皺を寄せて吐き捨てた。
「娘を奪われておきながら、今までのうのうと生きてきたおまえに言われたくない!」
マリーエレンが両手で口を覆う。次の瞬間、ベネディクトは拳を振り上げるとジュビリーの顔を殴りつけた。
「グローリア伯……!」
「義兄上!」
倒れ込んだジュビリーの胸倉を掴むベネディクトをジョンとハーバートが押さえ込む。マリーエレンが泣きながら床に崩れ落ちる。
「ジュビリー……!」
顔を真っ赤にしながらベネディクトが叫ぶ。
「私は、ケイナを守れなかった! だが、それでもまだ守る者がいる!」
ジュビリーは口の端から血を滲ませた顔を背けた。
「おまえのやったことが知れてみろ! マリーエレンはどうなる! ジョンはどうなる! クレドの領民は、どうなるのだ!」
「ベネディクト様……!」
ジョンたちが必死にベネディクトを抱え込むが、彼は叫び続けた。
「おまえがやったことが……、これからどんな悲劇を起こすか、考えなかったのか!」
それでもジュビリーは顔を背け、口を閉ざし続けた。
王太子を失った悲劇に王妃ベルは取り乱し、息子のすぐ側で馬を操っていたレノックス・ハートに疑いの目を向けた。普段から暴力的な彼に暗殺の疑いがかけられるのは無理からぬことではあったが、当の本人は当然の如く怒り狂った。綿密な調査が行われ、多くの証言からエドワードが突然昏倒し、落馬したことが証明されたものの、それでもレノックスに対する疑惑は拭いきれなかった。
その上、世継ぎ不在という不安から、国民は修道士になった王の庶子、ヒース・ゴーンを王太子にすべきではないかと口にし始めた。人徳に優れ、聡明で、人々に愛されているヒースならばきっと賢明な王になるはずだ。諸侯や廷臣だけでなく、国民もヒースを王太子にと声を上げたが、それは思いもよらない悲劇を招くことになった。
エドワードの死去から一年。王都イングレスにほど近い、サーセン聖堂。広々とした礼拝堂では、大勢の修道士たちが祈りの聖句を口ずさんでいた。冷たい石畳が広がる礼拝堂に響き渡る祈り。その呟きに混じって、どこからか苦しげな息遣いが聞こえてくる。ひとりの修道士が眉をひそめて顔を上げ、そっと辺りを見渡す。忙しない呼吸に、ひとり、またひとりと祈りを中断する。
「……どうしたのでしょう」
ひとりが怪訝そうに囁いて振り返った時。奥の列で蹲っている青年の姿が目に入る。
「ヒース」
慌てて側へ駆け寄る。
「どうしたのです。気分が悪いのですか」
皆がざわめきながら集まってくる。修道士が黒髪の青年の顔を仰向けさせると、顔面蒼白の顔色に皆があっと声を上げる。
「いけません、医者を」
修道士の呼びかけに、医者を呼ぶべく礼拝堂を飛び出してゆく者たち。
「ヒース、どうしたのです。いつから……」
ヒースと呼ばれた青年が顔を歪め、言葉を発しようとした、その時。彼はとっさに口許を手で押さえた。と同時に、指の隙間から鮮血が溢れ出る。
「ヒース!」
その場が騒然となる。
「ヒース! しっかり……!」
「早く! 医者はまだか!」
ざわめく人々の耳に、激しく咳き込み、血がしたたり落ちる音が飛び込む。ヒースは喘ぎながらもぼんやりと目を開いた。毒々しいまでに赤い血に染まった右手。やがて、彼の意識は急速に薄らいでいった。




