第二話 リバランスの世界
サナという名前の女の子に行き着いた。
孤児で、学園の寄宿舎にいる中学3年生のアフリカン・ジャパニーズの少女だった。
女の子? ユイの聞き間違いだった。レイ、リンの夢に挨拶すると、ネコと駆け出した。
サナ、本名サナマール明日美、新自由学園に併設された児童養護施設の中学生だ。
ユイはネコの背中に乗って、彼女が眠る孤児院に舞い降りた。
ピンクのネコ、パセリが一つのドアの前に立つと、ドアをカリカリと掻いた。
ドアが開き、少女たちが眠るベッドが4つ並んでいた。
ネコがそのひとつに立ち寄ると、ベッドをキーキーと引っ掻いた。
眠っている少女の横顔をユイが見た。
女の子の髪は黒く、顔も黒い。
細い横顔に、柔らかな唇がきれいな少女だ。
パセリが前足の肉球を額にのせると、少女の影が彼女の上に浮き上がった。
「サナマール明日美さんですよね。サナ、さ、ん、でいいのかな。こんにちは」
「……誰……、あんた。わたし、眠い……」
わたしは安堂ユイマールっていいます。ユイと呼んでほしいと、ユイは伝えた。
ユイは、いつもの1000%加算の笑顔でご挨拶をした。
明け方に起こされて、嬉しいと思う人はいない。暴れたら、こまる。
レム睡眠とノンレム睡眠の交叉する瞬間に、強制的にサイコ・アクセスを引き出している。
「サナさん。ごめんね。今、わたし、いきなり夢に入って、ごめんね」
ユイはあせっていた。顔は引きつるほどに笑いながら、でも、頭の中は急ぎに急いでいた。
なんとか、一緒に来てもらわないと、男の子の命が危ない。時間がない。
「あの……助けてあげたい。死んじゃうの、男の子が……」
「いきなり、何。……この夢。現実?」
ユイは、これまでの状況を説明した。ネコのパセリが訪問理由を述べた。
「いやだ。行きたくない。僕はいやだよ」サナが自分を僕というのが、嬉しかった。
「でも、お願い」「なんで、僕?」ユイは、サナがたくましい少年のように思えた。
サナは、ソバージュの長い黒髪を両手でまとめて、リボンで結んだ。
「お母さん、お金ないから、男の子、死んじゃう。だから、あなたなの」
「わからない。ゼンゼン、わかんない」
早く来てほしい。だからできるだけ短く説明するのだけど、でも、メチャクチャだった。
「スーツケースに入れられてしまって、男の子……」
「スーツケース?」「うん、旅行に持っていく、大きなケースのやつ」
ユイが両手をお腹の前に突き出すと、両手を開いてスーツケースの大きさを描いた。
「スーツケースに、男の子を入れた?」
「そう、お母さんが、男の子をスーツケースに入れた」
サナは立ち上がると、ユイの肩をつかんで「信じられない」と声を荒げた。
「その子、もう、だめかも」
「え」「スーツケースじゃ……、窒息するよ。やばいよ」
ユイは、サナの説明を耳にして、あわてた。
「一緒に行くよ」
「あ、ありがとう」
サナが、パセリの横にくると「このネコ、乗れるの?」といって、背中を撫でた。
「ユイ、さん、だっけ。早く行こう、後ろに乗ってもいいかな?」
「うん。ユイマールのユイなんだ。ありがとう、サナさん、名前、覚えてくれて……」
ユイは、パセリの背中に乗ると手を差し出した。
「早く行こう。だめ。スーツケースって密閉されちゃうんだ。すぐに呼吸できなくなる」
「サナさん、もうダメ? ヤバイ?」
ユイは、サナの手を引っ張るとパセリの背中にサナを引き上げた。
「なんで、知っているの、サナさん」
「僕も、あるんだ、入れられたことが……」
サナが、ユイの手を取るとパセリの背中に飛び乗った。ユイの背中から手を廻して、パセリの首をつかんだ。
「すぐに苦しくなって、動けなくなった。スカートが挟まっていて、助かったんだ……」
「……」ユイは応えられなかった。それって……マジ。だったら……。聞けないよ~。
ネコが歩き出すと、サナの部屋がホワイト・アウトした。
「あの、サナさん。もう13時間以上も前のデキゴトなんだけど、そのスーツケースって……」
「え……、じゃあもうお葬式じゃん」
ピンクのネコ、パセリが一歩大きく踏み出すと、真っ暗な空に出た。
「パセリ、また13時間前なのかな。暗いけど」
「朝の4時、現在時間です」
幸町7丁目だと分からない。街灯だけが光っている。
「早く、早く、パセリ、お願い」
「もう、目の前です」
ビルの壁に吸い込まれると、ユイが見た部屋に入った。
「この部屋だ、リビング・ルーム……、散らかっているね」
「母さんが疲れていると、こんなもんだ。僕も、こんな部屋だった」
食べ終わったフード・トレーがテーブルの上に残され、雑誌や新聞が投げ出されている。
「パセリ、パセリ、男の子の部屋は、どこよ」
「多分、生きてるんだろう……な。葬式の雰囲気も、警察に連れて行かれた感じもないし……」
ユイとサナを背負ったピンクのネコが、ドアのひとつを前足で掻いた。
「いたっ」
「この子?」
ユイはサナの指差す方向を見ながら、うなずいた。
「サナ…… 寝てる。静かに、寝てる。ソーシキじゃない。よかった」
「いいえ……、夢だけが彼の世界。できるだけ遠くにいきたくて……、僕はわかる。彼は……」
サナは、ユイの後ろから飛び降りると、男の子の顔をのぞきこんだ。
「パセリ。この男の子、夢から呼び出せるかな?」
「はい。3人ですのでアクセスできますが……、どうしますか?」
ネコがユイに目を向けると、ユイはうなずいた。真っ直ぐに男の子の顔をのぞきこんでいた。男の子の体から影が浮き上がった。
「誰? 僕は……、大丈夫なの……」
「大丈夫だよ。これは夢だよ。わたしはユイ。キミを助けにきたんだ」
ネコから飛び降りると、ユイは離脱してきた男の子に近寄ると、抱きしめた。
「良かった。まだ、生きてるんだ……、本当、良かった」
「お姉さんたち、天使……なのかな」
男の子が、ユイの顔とサナの顔、そしてピンクのネコを見て、夢であることを自覚したようだった。
「うん。そうだよ。助けにきたんだ。わたしが天使ユイ。こっちの天使がサナ。よろしくね」
「よろしく、僕はサナだよ」
少女たちはパジャマ姿で、男の子を取り囲んで抱きしめていた。
「サナお姉さんが、お金持ちになる方法を教えてくれるからね……」
「あ、……よろしく」
ユイは、サナにウインクをした。
「僕、悪い子なんだ……、すごい……悪い……、お母さん、怒るんだ……」
「違うよ、違う。キミは、優しくて強い男になる。いまは……辛いけど、ゼッタイに。だから、ネ」
ユイは、男の子を抱きしめなおすと、男の子の顔をうずめた。
「僕は、生きてていいの。生きていて……いいの?」
「ぜったい生きていて、いい。ママがなくても、パパがいなくても、大丈夫……」
サナが、男の子の背中越しに声をかけた。
「夢の中で、キミに僕は、教えることがたくさんあるよ」
「いい子になれるよ、キミはいい子だよ」
ユイは、男の子につぶやいていた。ユイは、生きていていいか悪いかなんて答えられない。悪い子か、良い子かなんて言いたくもなかった。
……カチャ……。ドアが開いた。
「あなたたち、わたしの息子に何しているの……」
ユイとサナが振り返ると、母親が入ってきた。
「昼間、変な声が聞こえたから、怪しいとは思っていたけど……、役所のやつら、勝手にアクセスして……」
「違います。お母さん。あなたがわたしたちのボランティアに……」
説明するユイの前、お母さんとの間にネコが立ちふさがった。
「すいませんが、あなたがこの領域にアクセスすることはできません」
「うるさい。わたしの子供に近寄るな。夜通しアクセスして、周囲を見張っていたら……。なによコレ」
母親がネコに手をかけようとした瞬間、ネコが前足で母親を薙ぎ払った。
「今から、公安経由で警察を呼びます。不正アクセスですが、現状をホールドします」
「ネコ、どういうことなの……」
ユイは、男の子を抱きしながら、ピンクの虎柄の背中に声をかけた。
「ユイさん。もし、母親が回線を切れば、現実の世界で子供を傷つけることが可能です。現状を危険領域、レッド・ソーンに入ったと判定しました」
「この子だけ、別ラインにできます? お母さんの声を聞かせたくないの……できる?」
ユイは、ネコに声をかけると、男の子とサナを背中に隠した。
「はい。ユイさん。もう別回路に廻してあります。ドアが開いたところから、男の子には、怪獣が入ってきたように別イメージを送信しています」
「やばいじゃん。ユイ。どうするのよ」
男の子がサナにしがみついている。そのサナがドン引き状態になりそうだ。ユイは、サナの手を取ると、笑顔で応えた。
「戦おうよ。夢の中だもん、自由じゃない。ねえ、ネコ、サナさんとわたし、怪獣をやっつける正義の味方にできるかな……? パジャマ以外のかっこいい衣装、ダウンロードしてくんない」
「はい。学校の制服に素手勝負でよろしいでしょうか?」
母親の姿が、紫色の6本足の獣に変わった。パセリが左目だけで、ユイとサナに声をかけた。
「ちょっと、違うの……」
「事前登録がないので、これで我慢してください」
サナが書き換わる自分の服装を見ながらつぶやくが、ネコは冷たく答えた。
「なんで、事前登録してないのよ。ユイ~」
「だって……、戦いなんて、考えてなかったもの」
ユイは、困った表情で、サナの質問に答えた。
「警察への通報が終了しました。数分間、ホールドされます」
「さあて、怪獣さん。こちらにも来れず、帰ることもできず……。子供パワーで反省してもらいましょうか」
サナがにやりと笑うと、腕を振り回してネコの前に立ち、人差し指を立てて紫の6本足を挑発した。
「僕はね、自分の母親に殺されかけたんだ。信じられないんだよね、大人が、ね」
「わたしは、いい子に育てたいだけだ。わたしの子を返しなさい」
サナの言葉に、紫の獣は伸び上がると、4本の足でサナを潰しにかかった。
「よく言うよね。大人は、ね。言うこと聞いていれば、いいことあるって……。ウソだ」
「サナ、ちょっと。あなたの気持ち、分かるけど……」
ユイはサナを停めようとしたが、ブラック・クーガーのような瞬発力で踏み込むサナが飛び出した。サナの右ストレートが、紫の獣のボディに食い込んだ。
「あなたに何が分かるの。苦労して、お金を出して、働いて、子供を……」
「だから? 子供を叩いて好い訳? スーツケースに入れて好い訳? ふさけるな」
獣の右手が瞬間とまり、サナの連打がボディにヒットしていた。紫の腹が裂け、体液が噴出す。
「子供はね、親がいなくても育つんだ。あんたのような親、僕はいらない。反面教師なっんて、いらねえよ」
「親のいうことを聞いていれば、いいのよ。こどっもは、あ、が……げ……」
紫の体液を流しながら、獣が両腕を振り回す。サナが、回し蹴りで獣の顎を跳ね上げた。
「あなたのような親に学ばなくても、金もできるし、友達もできる。将来って、自分でつくる……」
「サナ、だめだよ。それ以上は、ダメ」
獣が首を折り、横に倒れた。ユイはサナの背中から両手をまわして、攻撃を止めさせた。
「離せ、ユイ。僕は、親という大人に言いたいんだ。トドメを……」
「分かる……。分かるけど、それじゃあ、母親になれなくなっちゃう。家族がなくなっちゃうよ」
ユイは、サナの背中から叫んだ。
「サナぁ。わたしだって、大人のウソぐらいわかる。こんな時代にしておいて、平気な大人は嫌い。でも、すべてが悪じゃない」
「ふ……ざけるな。ひとりで起きて、ひとりで食べて、迎えのこない部屋で暮らす子供たちのことを知っているのか……、里親って名前の大人たちに子犬や子ネコのように引き取られていく子供……、引き取られることもない子供……、100万人を越える僕らを、ユイは知らないだろう」
サナがユイの腕を振り払った。
「サナ、ゴメン、知らない。でも、ここでお母さんの心を殴っても……」
「そう、僕は幸せになれない。嬉しくなんか……ない」
ユイはうつむいているサナをもう一度、後ろから抱きしめた。
「お姉さん、強いね。悪い怪獣、やっつけちゃった」
「うん。でもね、戦わないほうが、きっといいんだよ。戦わないで勝つほうが、いい」
ユイは駆け寄ってくる男の子も抱きとめた。警察が来るサイレンが近づいてくる。やがて、警察官が踏み込んでくるだろう。外の道路で、サイレンが消えた。
「ネコ。……見せたくない……」
「ユイさん、大丈夫です。最初、女性私服看護官が男の子を連れ出します。母親は眠ったまま有線でつながっているので、アクセスをつないだまま起き上がることが……」
パセリがユイの質問に答えている時だった。天井の空間に大きな黒い穴が開き出した。
「ユイ、なんだ、あれ。天井が……真っ暗だ」
「まずいです、ユイさん、サナさん。男の子と一緒に、わたしの背中に乗ってください」
黒い影が渦を巻きながら天より降りてくるのを、ユイはパセリの背中に上がりながら見ていた。
「わたしたちの神と悪のボランティア・サーバと異なる世界が開いたのです」
「おい、ユイ。あの紫の獣が……」
母親のアバターだった紫の肉体に、黒い虫の影が広がっていく。
「これは、悪意の蟲です。悪の存在を視覚化したもので、集まると悪魔として肉体を形成します。わたしたちが清めることになります」
「じゃ、天井の陰も、同様なの……」
紫の肉体の上で黒い蟲が塊となると、猫が前足で引き裂いた。
「パセリが前足で、お母さんの悪を祓ったって感じなのかな……」
「心のバランスを再調整する。リバランスの世界です。これで、男の子のお母さんは悪意を清めたことになるのですが……。いえ、あの天井の黒い渦は、わたしたちボランティア・サーバとは別の世界からアクセスしています」
ユイとサナ、男の子を乗せたパセリが、部屋の後ろに後退していく。尻尾を隠し、すぐにでも飛び退けるように身構えていた。
「悪は清めますが、上の渦は別。多分、リバランスの世界の最悪の結果に向けて、状況が進んでいます」
「最悪の結果?」
天井の黒い渦から、眼と腕と口が出てきた。一本の赤黒い細い腕が伸び、丸く赤いぶよぶよの球に目と口が逆さまについている醜き獣が、黒い渦の中心から現れた。細い腕で紫の肉をつかむと、口に咥え、噛み出した。
「リバランスの世界では、最悪の異界の古代神の乱入です。古代神を崇める集団が強制アクセスしてきたのです。これまでの通信記録を盗み見ていた彼らが怒り任せに……、お母さんの行為を認めず、精神の一部を強制排除するつもりです。古代の神では、わたしたちに停めることができない」
「……どうなるの……」
ユイは、サナと男の子と手をつないで、紫の肉が食われる様を見ているしかなかった。一本の腕を振り回しながら、咥えた紫の肉をちぎり食べている。一つ目が口の周りを動きながら、ユイたちを見ていた。
「彼女は多分、人格崩壊しています。良くても、もう普通の生活はムリになるかと……。多分、海外のリベラルな集団だと思われます。海外のリベラルな過激な集団は児童虐待に過度に反応して、攻撃してくる場合があるのです」
「……それって、……それって」
一本腕の一つ目が、パセリに目を向けるとケレケレと笑いだした。天井から垂れ下がった肉の笑いは、醜かった。パセリが、背中を丸めて、フーフーと威嚇している。瞬間、消えた。
「あ、消えてゆく……」
「お母さんの回線を強制遮断しましたから、アクセスがなくなったので、異界も消えていきました」
パセリの言葉に、ユイもサナも、ホッとした。
「キミ、もう、夢の中から体に戻ったほうがいいよ。わたしたちも帰るから。また、明日、ね」
「現実の世界で、ひとりになったら僕のところにおいで。もし、一緒になれたら、リアルで儲ける方法を教えてあげるよ」
ユイとサナが、男の子に別れを告げた。同時に、ドアをあけて、女性看護官が現れた。パセリがゆっくり振り向くと回りの空間が滲んでホワイト・アウトした。
「それでは、ユイさん、戻ります。サナさんは、ここで降りることもできますが、いかがしますか?」
「僕は、部屋まで行ってほしいな」
サナがパセリの背中に顔をうずめている。
「ところで、パセリ。パラダイスは? どこにあるのよ」
「そうだ。ユイがパラダイスにいって、僕に恋占いができるって……」
ネコがぐるりと顔を背中に向けると、まじまじとユイとサナを見ていた。