飢饉で食人をするきっかけを想像する
私は考えていたり、真剣に物を見ていると、脳が血糖を消費しすぎてしまうのか、急激に目眩や冷や汗、震えや空腹感といった症状が出てくる。
大抵は、何かしら食べればその症状は治まるのだが、ある時、その先にある「領域」に入ってしまったことで、私の食べ物のカテゴリーの中に「人間」が入ってしまった。
◇
ある日、私は極度の空腹で目が覚めた。前日の夜もご飯をしっかり食べたはずなのに、目が覚めた私は、「ドライフルーツが食べたい」という思いに、頭の中を占領されていた。
それ以外考えられなかった。
家を出てからスーパーに行くまでの間、唾液がずっと分泌され、何度飲み込んでも溢れてくる。頭の中に、概念としてのドライフルーツが置かれているため、唾液が止まらない。
そんな状況下で、私はすれ違う人々を「美味しそう」と見ている自分に気がついた。
無意識に人間の肌を見てしまうのだ。
筋肉質な腕や伸びた足。
年配の方を食べるなら香辛料が必要なのか。
グラム単位で考えると人を食べるのはお得なのか。
そんな考えが頭に浮かんでいた。
スーパーについた私はドライフルーツを探した。総菜やパンではなく、「ドライフルーツ」がよかった。理由は分からない
私が手に取ったのは、マンゴーのドライフルーツだ。歯触りと食感がよく、甘いマンゴーは自分の理想のドライフルーツだった。
食べたくて、食べたくて。
1つ買うだけなのに、
レジがもどかしくてイライラした。
完全に正気じゃなかった。
家の扉を開き、玄関に立った私は灯りもつけずに、ドライフルーツに齧りついた。甘く、歯にまとわりつく果肉が頭に染みた。
一袋全部食べきった私は心が落ち着いたことに安堵し、――さっきのはなんだったのだろう――と少しだけ物思いにふけた。
考えてもわかるはずがないのに。
◇
その日から私の食べ物のカテゴリーには、「人間」が入っている。
そう言われると、とてもびっくりするかもしれないが、これは「人間を食べたい」というわけではない。
人は、何か食べたい物があるとき、頭の中にある「食べ物リスト(=カテゴリー)」を参照して、食べる物を決める。
その食べ物リストには、「〇〇定食」や「刺し身」といった物が並んでいるけれど、CMや何処かで見た「体に悪そうな原色のガム」や「熊の手」、「昆虫」といった、自分は食べたくない物たちも並んでいる。
つまり、食べ物リストに並んでいたとしても、食べない or 食べたくない物 が存在していて、私の食べ物リストには、確かに「人間」は含まれているが、「食べたくない物」という認識がある。
だから、人を好んで食べたいとは思っていない。
◇
昔、日本で起きた大飢饉では、食人があったとされている。
私は自身のこの経験から、飢饉によって食人をした人たちも、何らかのきっかけによって、頭の中の食べ物リストに「人間」が入ってしまい、食べ物が無いことから、「人間を食べる」という選択をするしか無かったのではないかと思う。
つまり、飢餓状態での食人は、「気が狂っていた」、「意識がなかった」といった単純な話ではなく、何らかのエラーによって、食べ物リストに「人間」が混入してしまい、選択肢が無くなったために、人間を食べる選択をしたのではないかと思う。
――ちなみにだが、私はこのエッセイで、結果や意志、選択の話をしているわけではない。
「人間が人間を食べるきっかけの話」をしている。
私のこの経験は、おそらく珍しいものだ。
それをこうして言語化し、情報や視点の共有をする意思を持っているのも、珍しいものだ。
だから、矮小化せずに受け止めてほしい。
私が体験したことは事実なのだから。
いつか。
あなたにそんな体験が訪れたら。
「考えがあること」と「実行すること」には、
大きな違いがあることを思い出してほしい。
それを知らなければ、自分の綺麗なイメージが崩壊し、精神を病んでしまうだろうから。
【あとがき】
いまでも、人間は食べ物と認識されている。ぼーとしていると、足を干し肉に加工したらどのくらいの可食部が残るのか、完成するまでにどのくらいの時間がかかるのか、といった考えがでてくる。
つまり、食べ物リストに混入してしまった異物は弾かれず、むしろ、より自然な形で日常に反映されてしまう。
わたしはこれでも、スプラッター映画やグロテスクな話は苦手だ。意識的に見ない。痛そうだからだ。
それなのに、そんな映画に出てくる人間と同じような括りにいるのは、とても嫌な気持ちになる。




