反応が見えない他人への嫌がらせが自己完結しないのはなぜ?
私は、タコに「知性の象徴」といったイメージを持っている。あの落ち着いた歪な眼に、自由自在な8本の腕。
周囲が揺れても、彼らはまばたきや身動ぎ一つもしない。
その姿はまるで、冷静に状況を把握し、複数の知識を自在に扱う賢者のように思える。
このエッセイは、卵から産まれたばかりの子供のように在る私の好奇心が、知性の象徴である「タコ」に近づこうと、自身で考えたことを書いていくものになる。
「嫌がらせ」って、相手の傷ついた顔や表情を直接確認するから嗜好性が成り立っている、と私は思ってる。
だから、相手の反応が見えにくい環境、特に「ネット関連」で嫌がらせをする人の意図が分からない。
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私は以前、あるゲームで、「オンラインで薄く繋がっている他人のセーブポイントを、意図的に使いにくくさせる人間」を見たことがある。
ボスを倒した先にある休憩所は、プレイヤーの精神やキャラクターのコンディションを回復させる重要な拠点だ。
そこに細工をして使えないようにするのは、悪意がある「嫌がらせ」だと私は認識したのだが⋯⋯ゲームのような仮想空間では、嫌がらせをしても相手の反応が見えにくい。
なぜ、そんなことをするのだろう?
現実で自分に嫌がらせ(=無視など)をしてきた人間がいたとして、その人は、嫌がらせを受けて困ったり、悲しんでいる相手を見ることで、「自分は強者である」、「自分は現実に影響を及ぼすことができる」といった肯定感や世界のコントロール権を回復しようとしている。
漫画などで、嫌がらせを受けても挫けない主人公やヒロインは相手を逆上させるが、それは嫌がらせによって、補充できるはずだった肯定感やコントロール権が得られないことによる逆上だ。
さて、こんなふうに、現実の嫌がらせは「相手の反応」に依存するものだが、ネットの嫌がらせは相手の反応が分かりにくい。
傷ついたふりをして、「なんでそんなこと言うんですか!」といって、逆に相手を転がしている人間もいるだろうし、そもそも、まったく相手にされていない場合もあるだろう。
なのに、なぜ反応が見えにくいネットで嫌がらせをするのだろう?
これはおそらく、彼らは「誰か(世界)を自分の行動でコントロールした!」という自己充足感を好んでいるのであって、実際に「誰かを傷つけた」という状態はどうでもいいのだと思う。
私は、反応を求めないならば、自分の頭の中で自己完結できるやり方を考えれば、彼らにとって良い方法になるかも知れないと思っていた。
けれど、「誰か(世界)をコントロールした」という実感が大事なのであるならば、自己完結は難しそうだ。
――となると、「コントロール権」が大事であるならば、「嫌がらせ以外の方法で世界をコントロールすればいいのでは?」と思うが⋯⋯何らかの制約がそうさせてくれないのだろう。
親、学校、上司、そして社会。
それらに押さえつけられた状態に在るから、その役割がいない、ゲームやネットといったデジタル空間で嫌がらせをすることによって、自身のコントロール権を回復しようとしているのだろうか?
そう考えてみると、デジタル空間は現実とは違い、見えない部分を想像で補う必要がある。
だから、自身にとって最もコストが低い嫌がらせが、他人の人生を最大限に蝕んでいる、といったような「最小の行動と自由自在な結果の妄想性」が、反応が見えない嫌がらせの嗜好性や依存性を高めているように感じる。
これが事実かどうかは分からない。
でも、考えられて面白かった。




