### 第21章 ヴィクター
「ルーン? ルーン・ウィンスター? 本当にあなたなの?」
不意に名前を呼ばれて、俺は立ち止まった。声の方へ振り返ると、質素な修道服を身に纏った若い女性が目を丸くしてこちらを見ていた。まるで湖のように澄んだ目と、どこか懐かしい面影。
「……テレサ?」
名前が自然と口をついて出た。うん、間違いない。この身体の“元の持ち主”の記憶が、ぼんやりと彼女の名前と一緒に浮かんでくる。聖光孤児院で一緒に育った、幼馴染の女の子。今は立派な修道女になってるらしい。
「やっぱり! 本当にルーンなのね!」
テレサはぱっと笑顔になって駆け寄ってきた。その表情には、再会の喜びと、少しの驚き、そして……心配?
「もう4年くらいになるかしら……あれから全然連絡もなくて……。どこかの工場で働いてるって噂は聞いたけど……」
言いながら、彼女の視線が俺の服と手に持っていたパンに向かった。ボロボロの作業着と、しなびた野菜。それだけで、どんな生活してるかは察しがつくよな。
「……大丈夫? ちゃんと食べてる?」
「まあ、なんとか生きてるよ」
嘘じゃない。嘘じゃないけど、あんまり本当でもない。
俺は苦笑しながら答えた。この身体の記憶も中途半端で、テレサのこともほとんど断片的。どう対応すればいいのか、正直わからなかった。
「今は、臨時の仕事を転々としてる感じかな」
それも嘘じゃない。俺にとっては全部が“臨時”なんだから。
――と、そんな穏やかな再会ムードは、次の瞬間にぶち壊された。
人混みがざわつき、どっと左右に分かれる。俺とテレサの前に、妙に場違いな雰囲気の男たちが現れた。やたらといい服着た三人組。真ん中の男は背が高くてガタイもいい、そして何より、その顔。
……うん、見た目からして明らかにヤバい奴だ。
テレサが声を潜めて俺の袖を引っ張った。「ヴィクターと……その仲間よ」
「……ヴィクター?」
名前にまったくピンと来なかった。うん、完全に記憶にない。だが、その男の方は俺をバッチリ覚えてるらしい。
「よォ、ルーン・ウィンスター!」
ヴィクターとかいう男がニヤリと笑った。「久しぶりだなぁ、機械オタクくん。最近、埠頭には全然顔見せないな? 汚れるのが嫌か?」
俺はテレサを後ろにそっと下げながら、警戒心を高める。
「……悪いけど、お前、誰だ?」
その瞬間、周囲の空気が凍りついた。露店の商人も、通りすがりの客も、まるで時間が止まったかのように固まってる。え、俺そんなにやばいこと言った?
ヴィクターの顔から笑みが消え、次第に怒気が混じった憤怒へと変わっていった。
「……は?」
「俺を……知らねぇって?」
やっべー雰囲気だ。これは……完全に地雷踏んだっぽい?
「お前な、ウィンスター、2週間分の保護料を滞納してんだよ! 知ってんだろ、ここのルールくらい!」
保護料? それってつまり、みかじめ料的な?
「悪いけど、俺には関係ない話だ」
俺はきっぱり言った。あくまで冷静に、だけど断固として。「汗水たらして稼いだ金を、理由もなく渡す気はない」
……案の定、ヴィクターの顔色が変わった。
「ほう、舐めた口ききやがって……前みたいに思い出させてやるよ」
そう言って、奴は拳を振り上げた。直感が叫ぶ――これは避けなきゃマズい!
俺は一瞬でディフェンスの構えを取った。前世の黒田陽介として覚えたボクシングの基本動作が、脳裏に甦る。
……だが。
現実は、非情だった。
このガリガリの体は、動きが鈍くて、筋力も反射も絶望的。タイミングがずれて、ヴィクターの拳がまともに頬にクリーンヒット!
「ぐっ……!」
一歩、二歩と後退しながら、俺は思った。
――クソッ、俺の経験も技術も、この体じゃ通用しない……!
ヴィクターの拳は、まるで鉄槌だった。
頬に喰らった一撃は、骨の奥まで響くような衝撃。頭がぐらりと揺れ、視界が一瞬チカチカと白く染まる。
――ま、まずい……。
俺は必死に体勢を立て直そうとしたけど、この体、マジで動かねぇ!
両足がふらついて、まるで紙の人形だ。ボクシング経験なんて、今の俺には宝の持ち腐れだった。
「ははっ、何だよその構え!」
ヴィクターが嘲笑いながら拳を鳴らす。「どこで習ったんだ? 貴族様の道楽教室か?」
俺はもう一発来るのを覚悟して、今度はカウンターを狙ってみた。前世の感覚が言ってる、今だ――!
……けど、拳が届く前に、逆に腹にえぐられるようなアッパーが突き刺さった。
「ぐぅ……っ!」
息が詰まり、膝が崩れた。
俺のパンと野菜が地面に散らばり、朝市の泥にまみれて、見るも無残な姿になった。ああ……せっかく買ったのに。節約に節約して、ようやく手に入れた食糧だったのに。
「ルーン!!」
そのとき、テレサの叫び声が聞こえた。
気づけば彼女が俺の前に立ちはだかっていた。華奢な体で、俺とヴィクターの間に入って。
「もうやめて! ヴィクター・レイン、恥を知りなさい!」
テレサの声は怒鳴りでも大声でもなかったのに、不思議と重く、強かった。まるで鐘の音みたいに市場に響いた。
「またお前かよ……」
ヴィクターは苦々しそうに舌打ちしながら、肩をすくめた。「いつもこうだな、お前は」
「弱い者いじめを見過ごせないだけです」
テレサは少しも引かず、まっすぐにヴィクターを見据える。
「孤児院で育ったあなたが、今やってることをマリア修女が知ったら……悲しみますよ」
……おお、効いたっぽい。
ヴィクターの顔がピクッと引きつった。どうやら“マリア修女”って人には借りがあるらしい。
「ちっ……面倒くせえ」
彼は俺を一瞥して、舌打ちした。「覚えておけよ、ウィンスター。今度はテレサもいねぇかもしれねぇからな」
そう言い残して、彼は手下たちを引き連れ、雑踏の中に消えていった。
……やっと、終わった。
どっと力が抜けて、俺はその場にへたり込んだ。痛みが体のあちこちに広がってる。頬、腹、顎……ぜんぶ痛い。何も食ってないのに、もう満腹みたいだ。
「ルーン、大丈夫!? 立てる?」
テレサがすぐそばにしゃがみ込んで、心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。修道服の袖から、清潔そうなハンカチを取り出して、俺の傷口を優しく拭ってくれた。
……ああ、優しいな。こんなふうに、誰かに手当てしてもらったの、いつ以来だろう?
「ありがとう、助かった……」
俺はうめきながら立ち上がった。ボロボロになった野菜とパンを見て、苦笑する。「せっかく買ったのに、全部ダメにしちまったな……」
「うちの孤児院、薬もあるし、少しなら食料も分けられるわ。一緒に来て」
テレサはそう言って、俺の腕を軽く引いた。
――なんだか、懐かしいような、不思議な感覚だった。
修道女のくせに、やたら芯が強くて。優しさの中に凛としたものがある。あのヴィクター相手に、あんなに毅然と立ち向かえる人、そうそういない。
俺は素直に頷いた。「……じゃあ、ちょっとだけ、世話になる」
前世では、女房が俺の鼻血を拭いてくれることなんてなかったなぁ……なんて、そんなことを思いながら、俺はテレサと一緒に、人混みの向こうへと歩き出した。




