楽園に残る
──守れる人か、守れぬ人か。
守りたかった人は誰?──
わずかな羽虫が舞う街灯の灯りの中。
私は静かに、彼女の帰りを待っていた。
「お待たせしました〜、い〜くちゃんっ」
バイト終わりとは思えない明るさの輪悟が、暗闇の中から顔を見せた。
「お疲れ様です。さ、帰りましょうか」
この時間帯だ。
女性が、それも学生が一人で歩くには危ない。
だから私はここで待っていた。
「ふぅ〜! お疲れ俺! 今日も汗くさい!」
私にはわからないが、彼女には違いが分かるのだろう。
ぐいっと伸びをしながら、彼女はそう口にした。
街灯だけが照らす暗い夜道には、物音も無ければ人通りも無い。
おかげでよほどの大声で話さなければ、他の誰かの迷惑になる心配もなかった。
まるで、世界が私たちだけになってしまったみたいだ。
そんな世界に、私たちの足跡と会話だけが響いた。
私は、この時間が好きだった。
今年、輪悟がバイトを始めたことでできたこの時間が。
夏になり、夜になっても少し蒸し暑いままではあるが、昼間に比べればどうってことはない。
静かで、涼しくて、隣には明るい友人がいる。
私はそんな日常に幸せを感じていた。
「ねぇいくちゃん! 俺ね、今日先輩に褒められたんだよっ! 『憩さん本の扱いが丁寧だね』って!」
「よかったですね」
「うん! 俺ね〜、本ってただの暇つぶしの道具じゃなくて、知恵と勇気と頑張りの結晶だと思うんだよね〜!」
「ほう……」
「だってね! 本って一冊作るにすっごいたくさんの時間がかかるんだよ!? 一日中作業したって一冊なんて作れないんだから!」
「なるほど」
「それにね! そんな本を作るにはたくさんの知識とそれを自分の時間を使って書き記すっていう勇気が要るの! それってすごい頑張りだと思うの!」
「…………。」
「だから私……本って好き……。それにね……」
輪悟が私の顔を、チラッと見た。
「?」
「…………な〜いしょっ!」
「??」
彼女はイタズラっぽく笑って、空を見上げた。
晴れ渡る広大な星空を。
「いくちゃん……。私が……おばあちゃんになっても……ずっと一緒にいてくれる……?」
「? 確約できませんが、善処します」
「やった……!」
輪悟は小さくガッツポーズを取ると、私の前に躍り出た。
そして前屈みになりながら後ろ手を組むと、上目遣いになって私の顔を見た。
「ずっと一緒にいようね、いくちゃん」
トクリと心臓が跳ねた気がした。
その理由に気付けないまま。
そうだ、何か言おうとしたんだ。
でもその前に、私の体から銀と赤の光沢を放った突起が突き出たんだ。
輪悟の悲鳴が聞こえた。
「いくちゃんッ!! いくちゃんッ!!!」
足が力を失って、身体がガクリと重力に従い始めた。
倒れる私の体を支えようと、輪悟が私に向かって手を伸ばす。
ガシッ! っと彼女に抱き留められた。
その後だった。
彼女の腹部に刃が突き立てられたのは。
「あーーー気持ち悪いっ! シッシッ!」
私の体が、まるで汚いものでもどかすみたいに、ガシッ……ガシッ……っと何度も何度も蹴り飛ばされる。
蹴り、転がされて、私の身体は遂に壁へと辿り着き、蹴り叩きつけられた。
何故か鮮明なままの瞳が、今私を蹴り転がしている、輪悟を刺した人物を写した。
そこには、白髪混じりの壮年の女性がいた。
私と輪悟を刺した大きな包丁が、右手に握られている。
街灯の光が、壮年の女性の顔を照らす。
そこにいたのは、英語の教師だった。
私を疎ましく思い、怒鳴り散らかしたあの英語の教師だった。
その教師が、怒りに満ち溢れた瞳で私のことを見下ろしていた。
「おま、お前がッ!! 私の言う事を聞かないからこうなるのよッ!!! アンタみたいな頭の悪い子は初めてッ……!! どうしてこんなにバカなのッ!?? 頭が………ッ! おかしいんじゃないの……ッ!???」
まるで、聞き分けのない問題児に、嫌気がさしたみたいにして、壮年の教師は怒鳴った。
「そんなに私の言うこと聞くのが嫌なら学校なんて来なくていいって私言ったわよねぇっ!?? 何で何でもないような顔して学校に来るの!?? 気持ち悪い!! そんなに先生の言ってることと逆のことがしたいの!!??? それならもう学校なんてやめなさいよ!!!」
私と彼女の血が混じった包丁が、街灯の光を反射している。
「良い!?? 明日反省文と退学届を書いて持ってきなさい!! そして朝のホームルームで皆んなの前で私に提出しなさい!!! 『私は私自身のわがままにより学校に多大な迷惑をかけました。すみませんでした』って私と皆んなに謝りなさい!!! あなたのせいで学校はめちゃくちゃよ!! 良い!? わかったわね!!」
それだけ言うと、その教師は踵を返して暗闇の中へと消えていった。
まるで。
大したことはしていない。
ただ少し頰をぶって、叱ってやっただけ。
そんなふうな言い方だった。
私たちは、明日も何事もなく学校に来る。
そのような言い方だった。
自分のしたことの重大さを、理解できていないかのようだった。
「いくちゃん……?」
輪悟…………!?
彼女は生きてる、まだ助けられるかもしれない。
力の抜けた身体に満身の力を込めた。
立てる。
ぐいっと立ち上がり、輪悟の元へと駆け寄った。
「輪悟、すぐに止血します。痛いかもしれませんがどうか我慢してください」
着ていた制服のシャツを脱ぎ、彼女の腹部の傷口へと詰める。
「うっ…………!」
傷口に走る痛みに、輪悟が苦痛の声を漏らした。
じゅく……っと生暖かい感触がして、詰めた真っ白なシャツが一瞬で真っ赤に染まっていく。
止まるだろうか。
最悪な想像が、私の体から血の気を引かせた。
いや、実際に出ているのかもしれない。
自分では、よくわからない。
輪悟傷口に押し付けたシャツを、さらにぐいっと強く押し付ける。
「いっ……! いぁ……!」
痛いだろう、苦しいだろう。
しかし今はこれしかない。
傷口の大きさ、血の流れ具合を見ても、今これをしなければ確実に彼女は死ぬ。
私は、シャツから逃れようとする輪悟に、無慈悲にシャツを押し付け続けた。
「ギャーーーーッ!!」
ふと、ここではない場所で悲鳴がした。
それはあの英語教師が消えた、暗闇の方から聞こえてきた。
「ひっ! ひぎぃぃぃぃぃっ!!」
声が近づいてくる。
壮年の女性の姿が薄っすら見えてきた。
足を引き摺りながら、必死の形相で走っている。
「ぎゃーぎゃー喚くな。お前人刺してんだろ」
壮年の女性、その後ろ。
管のついた拳銃のようなものを左手に持った男性が歩いていた。
いや、追いかけていた。
ゆっくり、ゆったり。
面倒くさそうに。
「まぁでもいいや。お前みたいなのがいると、俺としてはやりやすい」
男性が、拳銃で言えば銃口に当たる部分を、壮年の女性に向ける。
管の中身は真っ赤な何かで埋まっており、それは背中から生えているようだった。
「何でよッ! 何でよぉッ!! 何で私……」
そこまで言って、壮年の女性の脳天が何かに貫かれたみたいにして弾け飛んだ。
「あっ…………あっ…………」
重要な部分を失った壮年の女性の体が、流れるように崩れ落ちる。
男性は拳銃を下ろすと、壮年の女性へと近づく。
と思いきや、壮年の女性を追い越し、私たちの元へと近づいてきた。
私は動けない。
輪悟の傷口を抑え続けなくては。
そうでなければ、彼女に未来はない。
「あなた、バイオウドですね」
「……………………それ、ダチか?」
「……………………はい、そうです」
「もう死ぬだろ。貰っていいなら、お前は生かしておいてやる」
「お断りします。それに多分私の方が長くないので」
「…………何か、勘違いしてんじゃねぇか? 俺はお前を生かしてやるって言ったんだ。その傷も、含めてな」
「…………?」
「俺なら、あなただけは助けてやれるって言ってんだ」
「!」
助けられる……? こんな出血なのに……?
「それなら……彼女を……っ」
「あん? その死に体をか? ……はぁ……言っとくが魔法じゃねぇんだ、生かすにも限度ってもんがある。だから俺はお前を……」
「お願い……します……! 私の体なら……好きにして構いませんから……!」
ついに視界が歪み始めてきた。
呼吸がしにくい。
それは、もう私に残された時間が少ないことを示していた。
だが、この命が尽きるまでは、冷静に、彼女の命を救うために動かなければ。
私は、気怠そうな顔をした男の顔を力の限り強く見つめた。
「あ〜〜……。メンド……」
男は頭を掻きながら、空を見上げた。
男が、一度だけゆっくりと瞬きをする。
瞳に、一つの星が映った。
男の横顔に、どこか懐かしそうな、柔らかく優しい笑みが浮かぶ。
「いいぜ」
男はふっと笑うと、輪悟の傷口を抑え続ける私の顔を見た。
「やってやるよ」
「血液型は?」
「AB型」
「お前は」
「A」
「あ〜そう……。まぁいいや、ストックにゃあなれる」
男はそう言うと、管のついた拳銃のようなものを背中から取り出した。
男が右腕に持っていたものと、同じ形のものだ。
男は取り出した方の拳銃のようなもの、その銃口を、輪悟のみぞおちへと押し付ける。
みぞおちにぐいっと銃口を捩じ込まれたというのに、輪悟には反応がない。
どうやら諸々のショックで意識を失っているらしい。
だが今は、それが都合がいい。
「足りるかどうかは、知らんがな」
管からギュルギュルと音を出しながら勢いよく振動した。
振動が止まる。
……ほんの少しの間をおいて、真っ赤な液体が管を通って拳銃の方へと流れ出し始めた。
「シャツから手ぇ離しな、血ぃ固めて止める」
私がもはやシャツだとわからないほど真っ赤に染まった布から手を離す。
男はみぞおちに押し当てている方とは違う、右手に持っていた拳銃の銃口を、輪悟の傷口へと押し当てた。
管の中は、すでに真っ赤な何かで埋まっている。
「傷口の表面を俺が固めといた血で覆い被す、これでもう出血ぁしねぇ。上手く馴染みゃあ傷跡も残んねぇよ」
男はそう言うと、銃口からドロリとしたゼリー状の赤黒い物質を出して、傷口に広げていく。
「オラ、テメェは俺のストックになんだ、傷口出しな」
「……何をするんですか?」
「今この女に入れようとしてんのは俺の血だ。地面に落ちた血は使いもんになんねぇからな。だからテメェは俺に血と肉食わせて俺の血になんだよ」
「……それで彼女は助かるんですね……?」
「あぁ、多分な。百じゃねぇけどな」
そうか、そんなことで彼女は助かるのか……。
ほっとしたのも束の間、私の体から力が抜ける。
私は重力に従うまま、道路へと力無く倒れ込んだ。
「はっ! ほっとしたのか? これからテメェが食われるってのに?」
「彼女が助かるなら、私は……そうだ……バイオウドの血は、人間に輸血しても大丈夫なんですか……?」
「さぁな、でもこの出血ならどの道だ。それに前輸血した時は大丈夫だったから今回も行けんだろ」
「……そう……ですか…………」
「あぁ。オラ、始めるぞ」
空だった管の中が、真っ赤な液体で満たされる。
「かったりぃなぁ、俺の血だぜ…………ん…………?」
拳銃を持つ手がピクッっと振動して、男の顔つきが変わった。
「お前…………バイオウドか…………?」
……彼は今、何と言った……?
バイオウド…………?
輪悟が…………?
嘘だ、そんなはず…………。
私は、眠っているかのように眼を閉じている、輪悟の顔を真っ直ぐに見つめた。
綺麗な白い肌を携えた儚く美しいお姫様のような顔が、街灯の光に照らされている。
物語のヒロインになるなら、きっとこういう子なのだろう。
そう思えた。
バイオウド、人喰いの怪人。
とてもそうは見えない。
「残念だが、こいつは助けてやれねぇ。いや、助けるまでもねぇ、こいつは気ぃ失ってるだけだ。バイオウドは包丁の一刺し程度じゃ死なねぇよ」
「でも……こんなに……血が…………! それに……包丁も刺さって……!」
「あ? バイオウドだろうが雑魚なら包丁くらい刺さるし血も出る。そもそも包丁は肉切るためのもんだろ。真正面から突き立てられて刺さらねぇのは上澄も上澄だ。一刺しで死なねぇやつなら、山ほどいるがな。こいつみたいに」
男が輪悟を指差す。
「……………………私は……」
「んぁ?」
「私は…………どうすればいいんでしょうか…………」
「知らねぇよ、俺はお前の神様じゃねぇんだ。俺はお前にとって人喰いの化け物でしかねぇ……ただそれだけだ」
『私はどうしたらいい』…………?
私は……そんな言葉を口にした……。
この死にかけた体で、一体何をしようとしたのだろうか……。
思考がまとまらない。
脳が混乱しているのか、それとも大量出血により頭に血が回っていないのか。
あるいはその両方か。
私はもう死ぬ。
最期の最期にそんなことを伝えられて、私は一体どうしたらいい。
わからない。
わからない。
「……付き合いは……長ぇのか?」
「…………。」
「今際の際だろ? いいじゃねぇか別に話してくれたって」
「…………はい…………。小学生の頃からの……幼馴染です……」
「あぁそ。まぁ気の毒に思うよ。俺がABで、こいつもABなんだろ? あ〜輸血はしてやれねぇが、一応止血だけしといてやるよ」
「…………? 何で……バイオウドなのに……」
男が私の脇腹にできた深い刺し傷に、どろりとゼリー状の赤い物質を被せる。
「嫌なんだよ、俺。お前らみたいな殺し殺されの外側にいるやつ食うの」
街灯が照らす男の表情に、ほんの一瞬影が落ちた。
「ま、死んじまったら食うけどな」
被せ終わった傷口を手の甲でポンポンと小突き、男が立ち上がる。
「オラ、終わったぞ」
小突かれた感覚はあるが、痛みがない。
どうやら、もう本当に命が途切れるようだ。
「……痛くねぇか……じゃあ、ホントに死ぬな…………」
言葉を返す元気もなくした私の顔を、男が見下ろす。
街灯の影が男の顔で遮られ、まるで私がいる場所だけが影になっているように見えた。
「……………………生きてたいか……?」
それは勿論、生きていたい。
…………………………。
…………いや……どうだろう……。
私は輪悟の顔へと視線を移した。
……私の隣にいた時、私と話していた時……。
彼女は一体、何を思っていただろう…………。
そっと、彼女の頬へと手を伸ばす。
…………暖かい…………。
終着点の決まっただあろう私の視界が、少しずつ黒に塗りつぶされていく。
「んで? どうなんだ。生きたいのか、死にたいのか」
塗りつぶされる意識の中、さっき起こった出来事。その記憶が、小さく私に呼びかけてきた。
包丁で突き刺され、体から立つ力を失った私を。
受け止めようと、支えようと、私に向かって手を伸ばす。
輪悟の顔が。
心配な表情、それ一色に染まった顔が。
そして彼女は私を抱き留めた。
自らの危険も顧みず。
あの顔に、あの行動に、嘘は無かった筈だ。
たとえ彼女が…………バイオウドだとしても
彼女の頬を撫でながら、私は小さく微笑んだ。
「彼女さえ生きているのなら…………私は別に……生きていなくていい……」
私がこのまま余計なことをせず、死を受け入れれさえすれば、ここで起きたことは、私たちだけで完結する。
そうすれば、彼女は日常に戻ることができる。
ただ、私だけがいない日常に。
それ以上の上がりは無い。
ここで起きたことは、嫌われ者の英語教師と、その英語教師に嫌われた愚かな生徒の失踪。
ただそれだけ。
ただ、それだけだ。
証拠はおそらく、『彼』が跡形も無く消してくれるだろう。
「……………………そうかよ……」
不貞腐れたような声が上から降ってきた。
男の足音が、遠ざかっていくのが聞こえる。
その音が、何だか酷く遠くに聞こえた。
私の手の中にある輪悟の柔らかな肌の感触が。
瞳に映る輪悟の淡麗な容姿が。
遠ざかっていくのを感じる。
鼓動が。
意識が。
私が……。
彼女から遠ざかっていく。
私の手のひらが、遠ざかっていく彼女の温もりを求めて伸ばされていく。
まだ、届くはずだ。
「最後の晩餐は…………昼間カフェで食べたケーキ……か…………でも……今は…………それで……よかったと…………思います……」
ありがとう輪悟、私の友達になってくれて。
伝えたい言葉が、頭の中で大きな声となって鳴り響く。
まだ、伝えられるはずだ。
「……あなたと二人で…………食べられたから……」
できれば最期に一目、あなたの笑顔が見たかった。
届け、届け。
君に。
「さようなら……輪悟……。元気で……」
さようなら、輪悟。
ありがとう。
さようなら。
もう全く見えなくなった私の視界に、昼間の光景映し出される。
彼女の笑顔が、そこにあった。
…………あぁ……見られた……。
私と輪悟を包む街灯の光の中。
私の鼓動が止まった。




