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はは、と軽く笑われた。根性だけで顔を上げてただけだから焦点が合ってない。瞬きすると少しだけくっきりとした視界の中、私以外は全員苦笑していた。あーあって言ってるような、しょうのないっていう感じの、甘いのにほろ苦い表情。
私には年を取ってもできそうにない、複雑な笑い方だ。
「そうか。ではまず、ケルンに聞こう。綻びのなかで、一番ここから近いところにあるのはどこだ」
「ふむ。……そう、だな。北東に遠く気配がするが。ユーリはわかるか?」
「北東ですか。……はい、理解しました。ではナーナを連れてそこの近くに転移すればいいでしょうか」
目を遠くに彷徨わせたユーリがミハルにお伺いを立てる。やれ、便利だな、とミハルが笑った。私の方に手を伸ばして、止める暇もなく膝をすくいあげられる。うひゃ、と間抜けな声を私が出すころにはもう、ソファに座って抱え込まれてた。変ないきみで硬直しきって震えることもできなくなってた膝をそっと撫でられる。ふぅ、うぅ、と唸ってるうちに強張りが取れていった。なんとなくぽかぽしたものがそこから伝わってくる。知らず、こてんとミハルの胸に頭が動いた。急速に体の全部がリラックスしていく。
「カナ。カーナ。行くから、目を閉じなさい。……こら、眠くなってはダメだ」
「ん、ミハル。……でも眠いよ。ぽかぽかと一緒に眠くなるようにした?」
「いいや? 私にはそんな魔法は使えないよ、カナ。温かくなったのは緊張を取ったせいだろうが……ああほら、寝てはダメだというのに」
すい、とミハルが私を抱えたまま立ち上がる気配がした。目を開けていいって言われてないから閉じたままで、それでもユーリやケルンが回りに集まってきたのがわかる。誰かが私の手を取った。
「体を温かくして目を閉じれば自然に眠くなるんですか? カナ。無防備ですよ」
「っ、おいおいカナ。お前、真面目に眠ろうとしてるだろう。手の温度が上がり続けてるぞ? ほら、扉を閉めるんだろう? 試すって言ってたじゃないか」
「かわいいね、カナ。そうやって目を閉じてたら、誰がカナに触ってるかわかんないでしょ? まだ目をあけちゃダメだけど、今からキスをするのは誰だか、後で当ててね?」
……ブックロゥ。っつか、……何言ってんだ、兄さん。
がっくりときて、一気に力が抜けた。その隙を見計らったのか、何度か体験した転移のときの風が吹く。やんわりと吹き抜ける空気。
「よし、目を開けてもいいぞ」
だけど、そんなのんびりした感想とは裏腹に、ミハルの言葉に目を開けた私の視界には衝撃の景色が広がってた。……いや、倒木窟だの砂漠だの、毎回すごい衝撃だけどね。インパクトとしてはその中でもかなりの上だコレ。
「…………ケルン」
「そうだ。これが層のほころび、扉だ」
断定してくれるのは助かるけど。
「……なんというか、見事な食虫花だな」
「毒々しい色合いに加えてこの匂いときたら、排除の対象でしょうか」
「違うと思うよ、トール。ほころび、扉だって言われてるでしょ。……え? 待って、じゃあケルン、まさか」
まさか?
ぽやっとしてるとミハルがそろそろと下ろしてくれた。しまった裸足のままだった。ここってどう見てもジャングルだし足が…………ああ、うん。ありがとうユーリ。
私はさらりとユーリが出してくれた靴を履く。ミハルに掴まったまま、ぐるりを見回した。濃い緑の匂い。に混じって、腐った花の刺激的な匂いが鼻を刺す。もとはものすごく甘かったんだろう的な腐臭は正直、目にも痛い。すげぇ。強烈。
で、それより強烈なのがこの外見。
も、もるぼ○だ。
ぶっちゃけて言えば、それ以外の感想は持たなかった。烏龍茶の中で、お湯を入れたら百日草みたいなのが出てくるやつってあるでしょ? 細工茶っていうのかな。アレ。外見がそれに近い。
だけどおかしい、まったく美味しそうじゃない。
毒々しいってトールが形容したように、なんていうか濁った紫と……赤紫の花の色だ。地面からゆらゆらって生えてる。だからきっと移動はしない。茎が長い。背が高い。花はさっき思ったようにモルボ○。ネギ坊主でも可。つまるところ先端が丸くて…………嘘、訂正する。
丸い先端のうち、こっち向いてるところがちこーっとだけ、開きましたよ、奥さん。
きしゃぁ、って音が聞こえた気がした。いや現実で鳴ったわけじゃない。草だもん。植物だもん、自力での鳴き声は出したりしない。じゃあ何の音かって、こうね、口にしか見えない先端部分の切れ目がね……。
それが開くときの擬音っていうか。
うん。
それだけじゃなかったようです。
知らない間にまたも足が硬直しきっていて、動けるもんじゃない。こんな光景はゲームの中でしか見たことがないよヒロト。アンタだったら楽しめたかもしれないのに、惜しいことした。ガチで。マジで。
微妙にうねってる葉っぱ、……いや触手か、茎から生えてないとこ見ると地下茎とか根っこかも……が、のろのろとだけど確実にこちらを、私を認識するのが理解できた。きしゃぁはこの時の音ね。軋みあって擦れるんだ。なるほど。
なるほど。
「無理。いやぁ無理ムリむりだよ。は? これ、モンスターでしょ。倒すべき奴でしょ」
ミハルが、いったんは降ろした私を再び抱き上げる。縦抱っこ。こっちも、は? だった。身長が大して変わらないのにどうして縦に抱かれてるの? 意味が分からない。
「……カナ。我はこれが扉だと言ったはず。お前は、鍵は、アレの内部に一度入り込み、共鳴して、何についてアレが嘆いているのかを感知、最終的にはアレをなだめて穏やかな元の姿を取り戻させるのだ」
「………………はい?」
突っ込みどころが多すぎる言葉をかけられた場合、人は凍るね。フリーズする。
知ってた。それは知ってた。けど。
このひと、なに、いってるんだろう。
「……ふぅん。つまり扉とは、元の何かが変容してこの姿だと?」
「そうだ。場所の特定が難しいとはこういう意味でな。層の歪み、綻びには形がない。よって、安定を求めてなんにでも憑依する。元が同じ層のモノだから大した違和を覚えずにじわじわと浸み入るが、最終的には素の姿をかろうじてとどめるくらいにまで変形する。自我のある場合は崩壊寸前までひずむな。ちなみに、ひずみを初期で取り除ければ素は無事だが、手遅れになると元には戻らず廃棄物となる」
「しかし……これは、怪物というか魔物とどう違う?」
「そこだ。つまるところだからこそ、この大陸では扉の施錠が容易ではないのだ、ライ。これは素が歪んだもの。この状態のモノを滅してしまえば扉自体が移動してしまう」
「……そういえば、この大陸の住民の共通性質として好戦的を上げてましたか。ふむ。嘆き、と守護者殿が言われた言葉からすると、扉になる前の『なにか』は強い愁いを持っているというわけですか? 歪みというレベルまで進んでしまった、素になる何かのひずんだ思いと、層自体の歪みが重なり、定着する?」
「今代の守護者はずいぶんと理解が早い。お前の言っているとおりだ、トール。植物だろうが動物だろうが『今よりもいい暮らしを』というのは本能で求めるものだろう。いびつになってしまった強い感情と」
「申し訳ないが、理論展開はそこまでだ。カナを落ち着かせたい。一時ここから撤退する。現状はユーリが留めろ。お前らもだ……いいな?」
凛としたミハルの声が、止まってしまった私の息を吹き返させる。ライやブックロゥの冷静な判断を聞けば聞くほど混乱してしまった。思考どころか身動きも呼吸も止めてたみたいだ。視界をミハルの手で隠され、大きく移動する気配がある。
次に息を吸ったときには、もうあの花の匂いは嗅げなかった。ジャングルの中でも日当たりのいい場所に来たみたいだ。太陽がほっぺたに当たる気配がする。
がっくりと気持ちのいい下生えに座り込んで。
私は、大きな深呼吸を何度も繰り返した。




