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29.

 ごはん。ご飯が食べたいです。


 唐突で申し訳ない。いやね、ガラスのドアが開くと同時にこんなに美味しそうな匂いがね。私を取り巻いてちゃあ致し方ないやね。

 まだ混乱している私の手を引いて室内に連れ込んだのはミハルだ。毛布の上から昨日に貰ったショールでぐるぐる巻きにしてくる。抱き込むようにしてソファに座らされた。


 「ほら、スープだ」


 ライが木製のマグにスープを入れて渡してくれようとする。濃い黄色。コーンポタージュそのものの色。とろっとして、柔らかくて甘い匂い。きっとこれ、すごく美味しい。

 だけど、手が伸びない。

絶対に美味しいって確信できるものを前にして手を出せない気持ちって、味わったことある? ジャーキー目の前にした犬よりさびしいよ。わびしい。


 「……カーナ? 器は私が持とうか?」

 「ん、…………えっと、その」


 躊躇している間にミハルがライからマグを受け取る。小さな木のスプーン付き。……あ、そっか。熱いかもしれないから金属のスプーンじゃないのか。火傷しないように食器が木製なんだ。

 そんな細かい心遣いが本当にありがたいのに。どうしても口を開けない。食べたい。おなかが空いた。でも、食べられない。

 ぐるぐると回っていると、ミハルがマグをバルトに押し付けた。私を子供みたいに縦抱きにして持ち上げる。痛ましいライの顔がよく見えた。向こうには同じようなトールの表情。沈痛なユーリとブックロゥ。


 「……あー、はは。ごめんなさい。ちょっと」

 「謝る必要はない、カナ。自室で食べさせるから、安心しなさい。ユーリ、つないでおけ」


 断固としたミハルの声なんて初めて聴いた気がする。きっぱり言われたことならあるけど。

 それだけ、心配をかけたのかな。


 ミハルとバルトは中庭を突っ切って、私の部屋だと言われた部屋に入る。結局のところ夕べは入れなかったからね。ちょびっとだけ期待。

 ……で、その期待はまったく外れなかった。こげ茶の床、白い壁。籐の椅子。鏡台は金の箔押し猫足こげ茶。クローゼットは床の色。バラ色とベージュのリネン類。アースカラーのクッションが躍る一人がけのソファは大きくて二つ。


 甘いけど、甘すぎない。女の子のための部屋だ。


 籐のヘッドボードを持つ巨大ベッドに座らされて、すぐにどこに座りたいか聞き直された。バルトのマグを凝視しながら鏡台だというと、そこに運ばれる。

 手の中に落とされたマグの中身は、少しだけ冷めていて。今が食べどきだって私に訴えかけてくる。木のお匙でくるりとかき混ぜ、飲んだ。


 「……美味しいね。ありがとう」


 ああ、本当に美味しい。ミハルがここにいても。

 バルトっていう、ほとんど初対面の人がいても。


 「し、あわせだなぁ……」


 言いながら、どうしても泣けてきた。他人の前で泣くのは昨日ぶり。でも、その前になると何年もの時間があく。

涙腺って、一回でも決壊すると脆くなるんだろうか。それとも、この状況のなにもかもが、私にとってものすごく辛いものなんだろうか。

 ポタージュは美味しい。喉、食道を通って胃を温める。ぽぅって、鳩尾に明かりがともるよう。温かいものを温かいうちに食べられる幸せを、私は知ってる。

 食べ物の味がわかる、奇跡のような恩寵も。


 「……あ、……のね」


 私の泣き顔を見せたくないと主張したミハルのせいで、バルトはベッドにうつぶせで寝ころばされた。……私のベッド。……私の、新品リネン初体験タイム…………。

 ま、まぁよくないけど我慢する。鼻の頭が赤くなるまでグズグズと泣いて、スープのお代わりまでもらったあと(ちなみにバルトを使い走らせた。ミハルってばガチで偉大)、私は愚痴をこぼすことにした。

 中庭でぐるぐる考えてても、結論は出なかった。っていうか、ぐるぐるの形容どおり、同じ結論から同じ疑問に行きつくんだ。堂々巡り。だから誰かに話すことを選ぶ。

 ……ミハルに相談する浅ましさは、もう何度も考えた。昨日みたいにね。

 けど、今ならバルトがいる。もしかしたらバルトなら少しは冷静で客観的な意見を……龍だからなぁ。そこまで親身になってくれるかなぁ? 寿命が長いから知恵はいっぱい持ってそうだけど。私にそこまで踏み込んできてくれるかな。

 ああもう。話すって決めたでしょ、私。ここまで来て迷うんじゃない。女だろ。


 「ミハル。私ね、ずっと疑ってて」

 「……ふむ?」


 片眉を上げて、優しく促してきたミハルに、とうとうぶちまけた。

 私が召喚されたのは何かの間違いじゃないかってこと。

 いや、私が来たこと自体がバグ、状態異常、召喚陣の間違いなんじゃないかってこと。

 その理由として、ここに起こってる出来事だ。扉だの層がどうだの、どう考えても物語やゲーム、虚構の世界のことみたいに思える。現実離れしていて、なんていうのか命の危険性もないとか。

百歩譲って、私が異世界に落ちたんだとして。

本来ならこの状況があり得ないほどに、展開が生温いと思う。

言葉の問題も、常識の問題も。チート、つまり、力がありすぎて何でもできるとかずるくねぇ? ってレベルの人たちに保護されたこともそうだ。

 ……保護されてることは知ってる。大事にされてることは素直にありがたい。けど。


 ……けど、本当はこの立ち位置が、他の誰かの物なんじゃないかなって思ってる。もっとかわいくて素直で若くてきれいで、うん、物語のヒロインみたいな子が、他にいるんじゃないかって。

 でなきゃおかしいよ。ミハルの執着もユーリのそれも、私なんかに一目でもらえるようなものなの? どこが、何を根拠に選んでるの? ましてや、お兄さんたちなんて。

 あんな完璧な人たちがこんな、何ていうか全部において中途半端な子を選ぶわけがないじゃん。

 ユーリの視線も、ブックロゥの言葉にも熱があった。そりゃあ私は経験がない。男女交際すらも、手、いや、手くらいはつないだことがあるけど(ここまで言ったとき、がしゃりと遠くで音がした。なんだろう?)、本格的に誰かに恋い慕われたこともない。


 だけど、わかるもんなんだ。知らなかったけど。

本気で、誰かに欲しいって言われた時は。

 言葉がどれだけ少なくても。

茶化してくれても。

 わ、わかるもんなんだよぅ、ミハル。どうしよう。


 涙が出てくるのが邪魔だって袖でふき取ってたら、ミハルがそっと柔らかいガーゼみたいなのを差し出してくる。遠慮なくそれで鼻まで噛みながら、たくさん、話をした。

ミハルは実に理想的なお母さん、友達の態度で、私の言葉を遮ることなく、かといって相槌も適当に入れて私の推測を聞いてくれた。

 同情するでなく共感するでなく。

 こんな温かい話の聞き方があったんだって、初めて私は知った。




 「……それで、カナ。まとめるとお前の疑問は一点だね。不満も一点」

 「え?! み、ミハル? 私の長々とした愚痴はそれだけで済むの?!」


 ぽんぽんと頭を撫でられながら、ミハルがしみじみと呟いた。焦って聞き返せば答えを教えられる。


 「そうだな。『自分が誰かの立ち位置を押しのけてここにいやしないか』ということと、『今の状況にふさわしいかも試していないのに結論を押し付けるな』というあたりかな? ……どうだ、バルト」

 「我にもそう聞こえたが。カナ。まったく、人間の女にしては短い話だったとは思うが、そのくらいのことは自分の中でまとめればいいものを」

 「そう言うな。確か人間の女性の愚痴は、共感と同情だけで済ませるべきもののはずだぞ? カナのように問題点をまとめただけで怒られる場合もあると聞いた。それからすれば」

 「…………やれやれ。次代火龍の長の側近候補はさすがに知識量が違うな。そんなことまでよく知ってるものだ」

 

 それで、図星を差されてカナは怒ってるのか。どうだ。

 バルトは律儀にも、ずっとベッドから顔を上げない。だから私の表情にも気が付かない。


 私はずっと、ぽかんとしていた。



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