そして記憶は儚く燃ゆる …9
後ろから地面と“大蛇”の腹部が擦れる音が響いてくる。
それに続いて、街路樹がなぎ倒される音、街道に打ち捨てられている車が潰される音。
はっきり言って規模が違う。こいつと戦うなという“偽”の言葉も分からないでもない。
だが、今は逃げ切らなければならない。行かねばならないのだ。
「ハーテッド、ロストランドまであとどれくらいだ!?」
『五キロだ。ぬかるなよ』
まだそこそこ距離がある。
後ろから全くスピードを落とさずに近づく“大蛇”はというと、全く諦める気はないらしい。
そりゃそうだ。既にこの街で生き残っている人間は少ない。あの“大蛇”が俺達を見逃すはずもない。
「……不味いな」
しばらく走り続けたのちに、五十嵐が呟いた。
「どうした?」
既に車の速度はかなりのものとなっている。だが、それに比例するレベルで“大蛇”の速度も上がっている。
直進しているからこその全力疾走だが、何かトラブルがあればそれこそ死活問題だ。
顔を激しい抵抗風があおっていく。
「このオンボロオープンカーめ。熱で回路が焼きかけてやがる!」
五十嵐が叫んだ。
「かいろが焼けてる? それって何か不味いの?」
後部座席から鳩丘梨菜が問う。
「エンジン回路が焼け切れちまったらこんなオンボロ、すぐに壊れちまうよ。なんとか隙をみて減速しなければ……」
この状況から減速したらどうなるか。考えるまでもない。
「……だが、このまま加速し続けたらオーバーヒートしてしまう、か」
“大蛇”を引き離すのは無理だ。奴だって、今度は逃がさないだろう。
なら、決まっている。
「五十嵐、追いつかれない程度に減速してくれ」
「……いいのか?」
「ああ。なんとかする」
対策がないわけではないのだ。だが、それも気休め程度のものでしかない。
……だが、この状況なら気休め程度でも十分だ。
五十嵐が少しアクセルを緩めると、一気に“大蛇”との距離が縮まった。
あっという間に、“大蛇”の口が数十メートル後ろに迫る。
「大丈夫なのか? 巽野。これで車の方は何とか持ちそうだが」
五十嵐が訊いてくる。
「ああ。多分な」
“偽”の言っていたことが正しければな。……ってまたそれか。
ーー『“狼”に“鉄騎士”。この二体と響輝君が渡り合えたのは、ひとえにそのナイフのおかげだよ。……え? いやいや、別に元から特別なナイフだったわけじゃないと思うよ。響輝君、一度“漆黒化”に堕ちたことがあったでしょ? あの時に響輝君の身体を覆っていた“漆黒”、あの液体モドキは響輝君の服にも染み込んでたけど、手に持っていたナイフの刃にも擦り込まれてたんだよ。……“漆黒化”は、“恐鬼”や世界の法則について知っている人間を削除する、自動プログラムみたいなもの。その名残である“漆黒”の液体には、世界の法則もとい、その産物である“恐鬼”の実在を否定する力があるのよ。知らなかった? ……だろうね。まあとにかく、今そのナイフは“恐鬼”に対する絶対武器になっているわけ。大きい武器なら“大蛇”とも互角に戦えたかもしれないけど、ナイフのリーチじゃ気休めにしかならないかな……残念だったね』
嫌味な奴である。だが、今こそその気休めを大いに利用する時だ。ナイフを失うのは正直痛いが、命には代えられない。
徐々に速度を上げている“大蛇”の大口がすぐ後ろに迫った頃合いを見計らい、俺は後ろを振り向いた。
「巽野さん、何を……?」
急に立ち上がりつつ後ろを向いた俺を見て、梨菜が驚いた表情を浮かべる。
ナイフを握りしめ、迫る“大蛇”を見据える。
さらば、ナイフよ。最後に良い仕事を期待する!
そう思うと同時に、俺は全力でそれを“大蛇”の喉の奥に投擲した。