第1話 荷物は三つまで
「家を出たいのです。できれば、今夜すぐにでも」
王都レグナの下町。湿った石畳の匂いが漂う路地裏の建物の、さらに奥。ランプの薄暗い灯りだけが照らす『月無し運送』の事務所で、豪奢なドレスとは不釣り合いな粗末な外套を羽織った娘は、絞り出すような声で言った。
エマ・ヴァンデル、二十歳。王都でも名を知られるヴァンデル伯爵家の次女である。
長机の向こう側に座る二十八歳の女主人――ミレイユは、手元の帳簿から視線を上げることなく、淡々とした声で応じた。
「出たい理由は?」
「……私が、この家には不要な人間だからです」
エマの膝の上で、きつく握りしめられた両手が微かに震えていた。
「父も、兄も、姉も、私を『出来損ない』と呼びます。社交界に出ることも許されず、私はただ、屋敷の奥で一日中、数字と睨み合ってきました。けれど先日、父が私の借金……いえ、家が抱えている負債の肩代わりとして、私を遠方の老いた子爵の後妻として差し出すと決めたのです」
「なるほど。家長である父親の許可なく家籍を離れることは、この国では罪になる。うちは表向きはただの運送屋だが、裏の看板は違法な逃亡幇助だ。捕まればただでは済まない。それでも行くか?」
ミレイユが初めて顔を上げた。羽ペンを置き、エマの返事を待つ。
「行きます。もう、あの家で削られるだけの人生は終わりにしたいのです」
「話は分かった。出発前にもう一度聞く。その時にやめてもいい」
ミレイユは引き出しから一枚の白紙を取り出し、エマの前に置いた。
「荷造りのルールは、『荷物は三つまで』。それ以上は運ばない」
「三つ、ですか……?」
エマは目を丸くした。伯爵家の令嬢の荷物といえば、馬車一台でも足りないのが普通だ。
「誤解するな。服、常備薬、身分を証明できる書類、それに当面の生活費となる最低限の現金は『生活必需品』だ。それは別にして構わない」
ミレイユは立ち上がり、壁に掛けられた王都の地図の前に立った。
「私が言っているのは、あんたという人間を構成する『私物』のことだ。これからの人生に、どうしても持っていきたいものを三つだけ選べ。それ以外はすべて置いていくんだ」
「私を、構成するもの……」
エマは戸惑いながらも、自分が持参した大きな革鞄に視線を落とした。屋敷を抜け出すにあたり、手当たり次第に詰め込んできたものだ。
「時間は一時間やる。ここで選別しろ。それが終わるまでに、私は馬車の手配と道筋を作る」
ミレイユはそれだけ言い残し、事務所の奥へと消えていった。
一時間後。
戻ってきたミレイユの前に、エマは三つの品を並べた。
一つ目は、銀の細工が施された古い櫛。
「それは?」
「亡くなった母の形見です。私が幼い頃、よくこれで髪を梳いてくれました」
ミレイユは小さく頷いた。
二つ目は、分厚い革張りの手帳だった。中にびっしりと数字が書き込まれている。
「書きかけの家計帳です。ヴァンデル家の資産状況、業者への未払い金、使用人たちの給与計算……すべて私が管理していました。これがなければ、私はただの無能な令嬢でしたから」
「置いていかなくていいのか? それはあんたを縛り付けていた鎖の記録だろう」
「いいえ」エマは首を振った。「これは、私が生きてきた証です。私が確かに屋敷の役に立っていたという、私自身の能力の証明です。これからの人生で、私を支えてくれるものになるはずです」
「……いいだろう。最後の一つは?」
エマがそっと差し出したのは、一枚の古びた紙切れだった。木炭で、幼い少女の寝顔が拙い筆致で描かれている。
「妹の、寝顔を描いたものです。三年前、妹が七つの時に描きました。妹は今年で十になりますが、私が家を出れば、きっと寂しがるでしょう。でも、妹には私のような人生を歩んでほしくない。だから……せめてこの絵だけは、持っていきたいのです」
ミレイユは僅かに目元を和らげると、三つの品を丁寧に布で包んだ。
「もう一度聞く。今夜、家を出るか。出た後は三日分の寝床と食事、それに相談できる相手を用意する。その先の住まいは、一緒に探すことになる」
エマは櫛を包み直した。
「はい。私が、出たいです」
「依頼を受ける。屋敷には戻らない。残した品を取りに行くのは、落ち着いてからだ」
その夜、王宮では舞踏会が開かれていた。伯爵と兄姉が出かけた隙に、エマは買物帰りの使用人に紛れて屋敷を出た。そこまでは一人でできた。だが伯爵家の外套を着たまま宿を探せば、朝までに居場所が知れる。
ミレイユは彼女の外套を灰色の作業着に替え、店の裏へ案内した。待っていたのは、舞踏会に食器を貸し出した店の回収車だった。
「これ、樽が載っていますけれど」
「本業だよ。逃げる人だけを運んで食べていけると思うか?」
手伝いの御者が笑い、ミレイユが運行票を渡す。車はまず貸食器屋へ寄り、返却を終えてから南区の洗濯屋へ行く。エマは貸食器屋の裏で別の車へ移る。追手が最初の車を見つけても、客先を一軒ずつ確かめる時間が必要になる。
幌の下には空の樽を固定する枠があり、その間に人が座れる隙間が残してあった。蓋で閉じ込めず、布で目隠しをするだけだ。
「苦しかったら二度、板を叩け。止まる」
「見つかっても?」
「息の止まった客を届ける趣味はない」
エマは初めて、声を立てずに笑った。
市内の区画門で車が止まった。ミレイユの声が、いつもより少し高くなる。返却票と空樽の数を照合する音。エマは母の櫛を握った。役に立たなければ置いていかれる、という考えが、また胸を締めつける。
やがて車が動いた。
「着いたら、何をすればいいですか」
布の向こうへ尋ねると、間を置かず返事があった。
「寝るんだよ。今夜の仕事は終わりだ」
翌朝。
朝帰りし、二日酔いの頭を抱えながら遅い朝食の席についたヴァンデル伯爵は、執事からの報告に眉をひそめた。
「エマがいないだと?」
「はい。お部屋はもぬけの殻で、このような手紙が残されておりました」
銀の盆に載せられた短い手紙には、ただ一言『家籍を離れ、自分の人生を生きます』とだけ書かれていた。
伯爵は鼻で笑った。
「あの出来損ないが、何を血迷ったか。どうせ行く当てなどありはしない。放っておけ、二、三日もすれば泣きついて戻ってくるだろう」
長女も優雅に紅茶のカップを傾けながら冷笑した。
「本当に愚かな子。自分がどれだけ恵まれた環境にいるかも分かっていないのね」
ところが、昼になって酒屋が追加の納品を断った。前月分の請求について、エマと交わした分割払いの約束を確認したいという。帳簿は執務室に残っていた。だが、兄はその欄の意味を説明できなかった。
「エマに聞けば分かる」
言ってから、伯爵は黙った。
屋敷は倒れなかった。料理は出たし、門番も持ち場にいた。ただ、誰かが当然のように済ませていた仕事を、今日は誰も済ませていなかった。
伯爵は支払いの相談を断り、娘の捜索を命じた。
その日の夕刻、追跡官カインはエマの部屋で、残された宝石箱と使用人の証言を突き合わせていた。娘は丈夫な靴と地味な外套を選び、母の櫛を持っていったという。
「伯爵は誘拐だとおっしゃっています」
部下に言われ、カインは自筆の置き手紙へ目を戻した。筆跡は家計帳とよく似ていた。
「本人が出た可能性を先に調べる。誰かが手伝ったかは、まだ別の話だ」
窓に侵入の痕はない。だが、それだけで本人の意思を証明できるわけでもない。彼は門の出入りを記録した帳面を借りるよう部下に命じた。
必要な物を少しだけ持ち、夜の運送に紛れて消える。その手口には、古い未解決事件と似たところがあった。
カインは調書の余白に『本人と面談するまで、誘拐と断定せず』と書き足した。
南区の小さな部屋で、エマは鍵を内側から掛けた。誰の許可も求めずに。




