第64話 返らない音
朝、水を見ていた母は、石槽の縁へ木杓を二度、軽く当てた。
乾いた音だった。
ロッタは振り向きもせず水樽の方へ動き、エンツは火床の脇から顔だけ上げた。
声はない。
それでも、手が渡る。
「今の、呼んだの?」
ミリアが訊く。
母は木杓を石槽へ戻した。
「そうだよ」
「言ってないのに」
「聞こえたから」
ミリアはよくわからない顔のまま、それでも二度鳴った石槽を見ていた。
ノアもその音を聞いていた。
大きくない。
澄んでもいない。
けれど、村の中ではちゃんと届く音だった。
誰かが水を見た。
次へ渡す。
受ける者がいる。
その短い二つの音には、それだけが入っていた。
◇
昼前、ロッタが井戸のそばで桶へ手を伸ばしかけた時だった。
乾いた音がした。
――二つ。
石が打たれたような、短い音。
ロッタの手が止まる。
止まったまま、顔だけが北東へ向いた。
ノアの背にも冷たいものが落ちた。
自分の視線まで、先に樽の方へ向きかけていたことに気づく。
今の音は、村の中からじゃなかった。
石槽のそばに母はいない。
木杓もそこへ伏せられたままだ。
井戸の縁にも、火床にも、誰の手も出ていない。
それなのに、聞き覚えのある二つの音だけが、北東の森の方から届いた。
母も顔を上げていた。
ハンスは集会所の戸口で、もう弓へ手をかけている。
誰もその場では動かなかった。
◇
倒れた石柱のさらに奥。
あの空き地は、今日も同じ場所にあった。
細い枝。
麻紐の輪。
三つの石。
浅い窪みの水。
欠けた縁の木の器。
その少し手前、低い枝から、割れた木杓の先だけが紐で吊られていた。
下には平たい石がある。
木杓の縁が当たる場所だけ、白く新しく欠けていた。
二つ。
近い間で並んでいる。
ロッタが息を呑む。
「……これ」
母が一歩だけ近づく。
触れはしない。
木杓の欠けた先と、石の傷を目だけで追う。
「鳴らしたね」
静かな声だった。
ハンスがしゃがみ込み、紐の撚れ方を見て、石の縁を見て、それから立った。
「風じゃねえ」
「二つとも同じ位置だ」
ディルが低く言う。
ベルンが顔をしかめる。
「気味悪いな」
ロッタは木杓から目を離さないまま、小さく言った。
「……さっき、動きかけた」
誰もすぐには返さなかった。
ロッタはもう一度、今度は少し低く続けた。
「体が先に動きそうになった」
ノアは吊られた木杓を見る。
ただの二つの音だ。
けれど、村の中で何度も鳴っていたからこそ、手が覚えてしまっていた。
「合図だけ、置いたんだろうね」
母が言った。
音はある。
けれど、その先がない。
水を見る目も、渡す手も、受ける手もない。
ただ、二つの音だけが、ここに置かれている。
「返るものがないね」
母のその一言で、空き地の冷たさが少し深くなった。
風も弱い。
なのに、吊られた木杓の先だけが、いかにも何かを待っているみたいに見えた。
◇
「壊すか」
父が低く言った。
「まだだ」
ハンスが先に返す。
「見たなら、また来る」
ベルンが舌打ちする。
「こんなの置かせとくのか」
「今は、真似しただけで終わってる」
ハンスの声は低かった。
「次を見た方が早い」
ロッタは白く欠けた石を見ていた。
「同じに聞こえた」
喉が小さく動く。
「でも、違った」
そこでようやくノアを見る。
「わかるのに、先に体が動きそうになるのが嫌」
母は木杓を見たまま言う。
「次からは、音だけで動かないよ」
ロッタが顔を上げる。
「聞いても、手を見る」
「……うん」
「誰が鳴らしたかを見る」
「うん」
「音じゃなく、人を見るんだ」
その言葉は、ロッタだけじゃなく、ノアの胸にも落ちた。
◇
村へ戻ってからも、役目は止めなかった。
火は生かす。
水は止めない。
北は空けない。
母が石槽を二度鳴らす。
ロッタはすぐには動かない。
一度、母の手を見る。
それから樽へ向かう。
ぎこちない。
でも、そのぎこちなさが今日は守りだった。
「聞こえたのに動かないの?」
ミリアが不思議そうに首を傾げる。
「見てから動くんだよ」
母が答える。
「なんで?」
「今日はそうするから」
「ふうん」
ミリアはそれで納得したらしく、また別の方へ走っていった。
◇
日が落ちる前、ハンスとディルがもう一度だけ北東を見に行った。
戻ってきた時、二人とも顔色は変わらなかった。
ただ、ハンスが言ったのは一言だけだった。
「また鳴らしてた」
ノアが顔を上げる。
「増えてた?」
「ああ」
ハンスは短く答える。
「でも、向こう側だけだ。返った跡がねえ」
誰も続けて何も言わない。
◇
夜、ノアは井戸のそばに立っていた。
水面は静かだ。
風も弱い。
石槽も、暗がりの中ではただの影に見える。
村の形は今日も崩れていない。
その夜、北東の森の方から、乾いた音がした。
――二つ。
昼と同じ音だった。
ミリアが戸口で顔を上げる。
エンツも火床の脇で一瞬だけ手を止める。
ロッタの肩も、わずかに動いた。
けれど、誰もそれだけでは動かなかった。
母が石槽のそばに立っている。
その手は木杓に触れていない。
ノアはそれを見た。
火床の薪が、ぱち、と小さく鳴る。
森の外れでは、吊られた木杓がまた石を打ったのだろう。
同じような二つの音で。
でも、そこには返す者がいない。
ノアは井戸の縁に手を置いた。
冷たい石の感触は変わらない。
月の下、村の中では二つの音が誰の手から出たかで止まり、森の外れでは、返らない二つの音だけが空いた場所へ何度も落ちている気がした。




