第31話 返し盆が見せるもの
返し盆の底へ意識が沈んだ瞬間、ノアは足場を失った。
冷たい。
だが、水へ落ちた感覚じゃない。
沈んでいるのに、濡れてはいない。
青白い光が、視界の奥で静かに輪を描く。
返し盆の水守紋がほどけるように開き、その向こうに別の景色が滲み始めた。
【返し盆照会路】
状態:接続中
関連:現核記憶
次の瞬間、ノアはもう前室にはいなかった。
◇
そこは、まだ傷の少ない封蔵区前室だった。
白い石床は欠けもなく、壁際の水路には澄んだ水が細く巡っている。
返し盆の縁にも、今のような削れはない。
前室の中央に、ひとりの少女が立っていた。
水の中の彼女だ。
だが今は封印槽の中ではない。
白い衣をまとい、まだ今より幼い顔で、返し盆を見つめている。
その向かいには、年老いた女がいた。
細い身体。
白髪。
胸元に刻まれた水守紋。
「……最後に、もう一度だけ聞きます」
老女の声は静かだった。
静かなのに、逃げ場がない。
「継ぐのですね」
少女はすぐには答えなかった。
返し盆の底に揺れる自分の顔を、ただ見つめている。
前室の奥からは、ノアが何度も聞いてきた低い水鳴りが返っていた。
封印槽だ。
その時からもう、向こうでは何かが揺れていたのだ。
【過去記憶】
状態:継承直前
関連:現核選定時点
「まだ戻れます」
老女が続ける。
「今なら、まだ」
少女はそこで、ようやく顔を上げた。
「戻って、どうなるの」
「……」
「継がなかったら、誰が残るの」
老女は答えない。
いや、答えられないのだと、その沈黙だけでわかった。
少女は小さく息を吐いた。
「やっぱり」
返し盆へ目を落としたまま言う。
「選ばれてるんじゃないんだね」
少しだけ間を置いて、
「残ってるだけなんだ」
ノアの胸に、その言葉が重く落ちた。
候補。
選定。
継承。
返録庫で見た言葉はどれも整っていた。
けれど、ここにあるのはそんな綺麗なものじゃない。
最後に残った者が、ここへ立たされているだけだ。
老女が目を伏せる。
「……それでも、問いは要ります」
「問い」
少女はかすかに笑った。
笑ったのに、少しも明るくなかった。
「優しい顔をした確認、でしょ」
そのまま返し盆を見つめる。
「でもほんとは、選べない時にしか出ない」
老女は何も返さなかった。
少女の声だけが、静かな前室に残る。
「ねえ」
今度は、もっとまっすぐだった。
「どうして、わたしなの」
老女の喉がかすかに動く。
「適合したからです」
「違う」
少女は即座に言った。
「それ、答えになってない」
老女の指先が、わずかに震えた。
「……選ばれるように育てたんでしょ」
「……」
「そうじゃなきゃ、こんなふうにぴったり残らない」
ノアの呼吸が止まる。
返し盆が問うのではなく、問うところまで連れてこられていた。
老女は長く黙ったあと、ようやく言った。
「はい」
たった一言だった。
けれど、その一言で前室の空気が変わる。
「育てました」
老女は目を逸らさなかった。
「けれど、それでも」
そこで一度、言葉を切る。
「答えのない継承は、核を壊します」
ノアの中で、返録庫で読めなかった一文が、ようやく繋がった。
【継承注意】
関連:意思確認欠如
危険:核損壊の可能性
現核の意思確認を欠く継承は――壊す。
だから彼女は言ったのだ。
答えないで、と。
◇
景色が揺れた。
今度は封印槽の広間だった。
少女が、白い石床をゆっくり歩いている。
中央の水へ向かって。
壁際には数人の水守が立っていた。
誰も止めない。
誰も泣かない。
ただ見ている。
その沈黙が、ひどく痛かった。
少女は封印槽の縁で止まり、一度だけ振り返った。
「もし次が来たら」
小さな声だった。
「ちゃんと聞いて」
誰に向けた言葉なのか、最初はわからなかった。
けれど次の一言で、ノアの胸が締めつけられる。
「わたしみたいに、遅れて答えさせないで」
青白い水が揺れる。
四本の支柱が応じる。
少女の胸元の水守紋が、淡く光る。
【現核移行】
状態:開始
備考:第九代継承受理
水が膝まで来る。
腰まで来る。
胸元まで上がる。
それでも少女は目を逸らさなかった。
最後に、こちらを見る。
記憶の中の少女のはずなのに、その視線だけは、今のノアをまっすぐ捉えていた。
「だから」
唇が動く。
「あなたは、先に見て」
次の瞬間、水がすべてを覆った。
◇
ノアは前室へ引き戻された。
肺に息が戻る。
槍の打ち合う音が一気に耳へ流れ込む。
ハンスの矢が石を打つ音。
カイルの荒い声。
父の怒声。
だが、返し盆の底に浮かぶ文字だけは、さっきまでと違って見えた。
【継承問い】
状態:進行中
備考:現核意思確認未了
未了。
まだ終わっていない。
まだ決めてはいけない。
外套の男がノアの顔を見て、目を細めた。
「何を見た」
ノアは答えない。
代わりに返し盆の縁へ手を置く。
問いそのものではなく、その下に流れる照会の線へ意識を重ねた。
彼女の答えは、まだ終わっていない。
いや、奪われたままだ。
「急がせるな」
ノアは低く言った。
父も、カイルも、一瞬だけ動きを止める。
外套の男の指先が、わずかに強張る。
「何?」
「お前は問いを立ててるんじゃない」
ノアは睨み返す。
「答えを奪おうとしてるだけだ」
その一言と同時に、返し盆の底の光が強く脈打った。
青白い線が、黒い濁りを一度だけ押し返す。
外套の男の指先が、わずかに弾かれた。
「……!」
【返し盆】
状態:現核意思優先
効果:強制継承進行の拒絶
いける。
返し盆はまだ壊れていない。
彼女の意思確認が終わるまでは、強引には進まない。
「父さん!」
ノアが叫ぶ。
「まだ通せる! この盆は、本人の意思が揃うまでは無理やり継承を通せない!」
「そうかよ!」
カイルが息を荒げたまま笑う。
「じゃあ、まだ終わってへんな!」
「終わってない!」
父の槍が、半歩深く踏み込む。
ハンスの矢が外套の男の足元を正確に打ち、進路をずらす。
前室の空気が、もう一度こちらへ戻り始めた。
だが、そのとき。
外套の男が静かに息を吐いた。
「……なら、仕方ない」
その声に、ノアの背筋が冷えた。
男は返し盆から手を離す。
懐へ手を入れる。
取り出したのは、小さな黒い札だった。
紙ではない。
石でもない。
薄い膜を重ねたみたいな、不気味な黒だ。
【黒札】
状態:未確認
危険:極高
可能性:現核照会妨害
ノアの心臓が強く打つ。
まずい。
継承を急がせるのではなく、照会そのものを曇らせるつもりだ。
外套の男が札を立てる。
「意思が必要なら」
静かな声だった。
「見えなくすればいい」
次の瞬間、黒札が返し盆へ投げ込まれた。
ノアは反射的に飛び出す。
青白い返し盆の光と、黒い札の影が、前室の中央でぶつかろうとしていた。
――返し盆は、意思確認そのものを守れるのか。




