第15話 第三経路を追え
井戸の底で、水がひときわ低く鳴った。
その音は、村人たちの顔から残っていた余裕を奪うには十分だった。
「水を汲むな! 今は減らすだけだ!」
村長の怒声が飛ぶ。
井戸端に集まっていた人々が、はっとしたように手を止める。
桶を持ったまま固まる女たち。青ざめた顔で井戸を覗き込む男たち。泣き出しそうな子どもを抱き寄せる母親。
誰もが理解していた。
この井戸は、村の命だ。
ここが枯れれば、畑も家畜も、人の暮らしも終わる。
ノアは井戸の縁に手をつき、暗い底を見下ろした。
水面は、確かに下がっている。
しかも、ただ減っているのではない。
下のどこかへ引かれるように、ゆるやかな流れができていた。
【リトの井戸】
状態:水位低下進行
原因:地下水路流向変化
危険:継続で枯渇
敵が先に動いた。
石室の北側を封じても、それで終わりではなかった。
別の経路から、水門そのものへ触れている。
ノアの喉が乾く。
「ノア」
父の声に振り向く。
その顔には、怒りより先に焦りが滲んでいた。
「どうすれば止まる」
「……まだわからない」
ノアは正直に答えた。
「でも、敵がどこを触っているか見つければ、止められるかもしれない」
村長がすぐに言う。
「集会所だ。動ける者だけ来い。水は今ある分を樽に移して管理する。勝手に汲むな」
井戸端のざわめきが、そのまま緊張へ変わっていく。
◇
集会所の中は、朝だというのに息苦しかった。
机の上には記録紙、古帳面、簡単に描き直された村周辺の見取り図。
その真ん中に、ノアはさっきまでの導水盤の光景を思い返しながら、木炭で線を書き足していた。
井戸。
地下石室。
北方貯水殿。
北側擬装壁。
そして、問題の第三経路。
「ここだと思う」
ノアは地図の東側を指した。
「東?」
カイルが眉をひそめる。
「北じゃなくて?」
「うん。石室の北じゃない。もっと東寄りの地下へ潜っていく線だった」
「村の東って、枯れ沢しかないだろ」
父が言う。
「今は水も流れてない、あの細い谷か」
「そこです」
ノアは頷いた。
「たぶん昔は、あそこも水路だった」
ミナ婆が古帳面をめくる。
しわだらけの指が、薄れた字を追って止まった。
「……あるよ」
「何が?」
村長が身を乗り出す。
「“東の逃がし路は、渇きの年にのみ使う”」
ミナ婆は低く読み上げた。
「“普段は石で塞ぎ、鍵は水守の間に置く”……そう書いてある」
ノアの背筋に電気みたいなものが走る。
逃がし路。
東。
渇きの年にのみ使う。
つまり第三経路は、自然の抜け道じゃない。
意図的に作られた、水を逃がすための道だ。
【古帳面】
状態:断片判読
可能性:東側放水路の記録
【第三経路】
状態:外部操作中
可能性:東側逃がし路と一致
「敵はそこを開けたんだ」
ノアが言った。
「井戸の水を北へ向かう本流から外して、東へ逃がしてる」
「なんのために?」
カイルが訊く。
「水位を落とすためだ」
ハンスが先に答えた。
「封蔵区へ入るための」
部屋の空気が、また一段冷えた。
敵はただ水を奪いたいわけじゃない。
この村を苦しめること自体が目的でもない。
水を減らすのは手段だ。
本命は、その先にある。
「二つやる必要がある」
村長が重く言う。
「井戸の水を今以上減らさせないこと。そして、東の逃がし路を止めることだ」
父が頷いた。
「村に残る組と、行く組を分けるしかないな」
「そうです」
ノアは地図を見たまま言う。
「全員で行くと、今度は地上が無防備になる」
視界に文字が浮かぶ。
【村側】
状態:水管理急務
必要:樽移送/井戸警戒/住民統制
【東側逃がし路】
状態:要遮断
必要:少数精鋭/地形理解/即断
【敵戦力】
状態:分散行動中
可能性:東側工作班二~四名
見える。
今、崩してはいけない形が。
「村にはベルンさんとディルさんを残してほしいです」
ノアが言う。
「樽の管理と井戸まわりの補強が必要です。ミナ婆ちゃんは水が減った時に備えて、最低限の配分を決めてください」
「やるしかないね」
ミナ婆は頷いた。
「飲み水と怪我人用を最優先にするよ」
「母さんは倉庫の食料と、残ってる水袋をまとめて」
「わかった」
母は短く答えたが、その目はノアから逸れなかった。
「行くのは」
父が言う。
「俺と父さん、ハンスさん、カイル」
ノアは即答した。
「少ない方が早い。たぶん向こうは、まだこっちが東に気づいてると思っていない」
カイルが短剣の柄に手を置く。
「ようやく追いかける側か」
「相手は水門を触ってる」
ハンスが低く言う。
「遊びじゃない」
「わかってるよ」
カイルの顔も、今日は笑っていなかった。
◇
東の枯れ沢へ向かう途中、村はいつもよりずっと静かだった。
朝の仕事に出るはずの人影もない。
畑へ向かう足音も、家畜の世話をする声もない。
みんな、井戸のことを考えている。
それだけで、胸の奥が重くなる。
村外れを越え、乾いた草の生えた斜面を下ると、浅い谷のような地形が見えてきた。
これが東の枯れ沢だ。
今はただの細い窪地にしか見えない。
だが、足元の石の並びはどこか不自然だった。
自然の沢なら、もっと乱れているはずだ。
ここは途中だけ、人の手で形を揃えたように見える。
【東の枯れ沢】
状態:表面乾燥
可能性:旧放水路跡
【谷壁の石列】
状態:人工積みの可能性
関連:水路補強跡
「……ある」
ノアが呟く。
「何が見えた」
父が聞く。
「ただの沢じゃないです。昔の放水路の跡だと思う」
「じゃあ、この先に操作場所があるのか」
「たぶん」
ハンスがしゃがみ、地面を指でなぞった。
「足跡」
「何人?」
カイルがすぐに訊く。
「二人……いや、三人か」
ハンスの目が細くなる。
「新しい。今朝のものだ」
ノアの視界にも文字が浮かぶ。
【足跡】
状態:新
人数:三
可能性:東側工作班
「当たりです」
ノアは言った。
「先にいます」
四人は身を低くし、沢沿いを進んだ。
谷は途中から少し狭まり、両側の土壁が高くなる。
草に隠れて見えづらいが、ところどころに石組みが残っていて、やはり自然地形には見えない。
やがて、水の音が聞こえた。
ほんの細い流れだ。
けれど、この枯れ沢にあるはずのない音だった。
「水が来てる」
父が低く言う。
その先を覗いた瞬間、ノアは息を止めた。
谷の奥に、半ば土に埋もれた石の構造物があった。
低い壁と、水路の口。
その横に、古びた石輪のようなものが据えられている。
そして、その前に三つの人影。
一人は見張り。
二人は石輪のそばで、鉄棒を差し込み、何かを回そうとしていた。
【東側水門跡】
状態:半起動
可能性:放水継続中
【敵工作班】
人数:三
構成:見張り一/操作二
危険:中
「見つけた……」
カイルが息を呑む。
石輪の下では、細い水が確かに流れていた。
地下から逃がされた水が、この東の放水路へ回されているのだ。
ノアの視界に、赤い線がはっきりと浮かぶ。
【東側水門】
状態:開放中
効果:井戸水位低下誘発
可能性:停止で流向回復
止めれば、戻せる。
そう思った瞬間、別の文字も浮かんだ。
【東側水門】
注意:急停止で逆圧発生の可能性
必要:段階閉鎖
「待って」
ノアはすぐに父の腕を掴んだ。
「壊しちゃ駄目です」
「何?」
「閉じれば戻る。でも、一気に止めると危ない」
「どういうことだ」
「水圧です。無理に閉じたら、どこか別の場所が壊れるかもしれない」
ハンスが敵の配置を見たまま言う。
「なら、まずは人をどかす」
「うん」
ノアは頷いた。
「そのあと俺が水門を触る」
「またお前か」
カイルが顔をしかめる。
「今度は本当に矢でも飛んでくるぞ」
「わかってる」
「いや、わかってる顔してないだろ」
そのやり取りの直後だった。
見張りの男が、ふいにこちらを向いた。
「誰だ!」
気づかれた。
次の瞬間、ハンスが動いた。
投げた小石が敵の額を打ち、見張りがよろめく。
同時に父が沢へ飛び込み、長い棒で石輪のそばの男の腕を打ち据えた。
「ぐあっ!」
「敵だ! 村の連中だ!」
カイルが横から滑り込み、もう一人の足を払う。
三人は完全に不意を突かれ、陣形を作る前に崩れた。
だが、問題はすぐ先にあった。
石輪のひとつが、すでに半ば動いている。
細い水が、じわじわと勢いを増していた。
【東側水門】
状態:開放進行中
危険:上昇
必要:即時干渉
「ノア!」
父が叫ぶ。
「今だ!」
ノアは石輪の前へ飛び込んだ。
冷たい石。
刻まれた紋。
導水盤と似ているが、もっと粗く、実用的な形だ。
視界に文字が浮かぶ。
【東側副水門】
状態:半開
可能性:三段階閉鎖可
条件:左回し→押し込み→固定楔
「三段階……」
時間がない。
背後では、カイルと敵が組み合い、父が見張りを押さえ込んでいる。
ハンスは最後の一人の動きを牽制していた。
ノアは石輪に両手をかける。
左へ回す。
重い。
だが、少しだけ動く。
次に押し込む。
石の奥で、がこん、と何かが噛み合った。
最後に楔。
どこだ、と視線を走らせた瞬間、足元の溝の脇に鉄の棒が転がっているのが見えた。
【固定楔】
状態:使用可
「これだ!」
拾い上げ、石輪の脇へ差し込む。
次の瞬間、水の流れが、目に見えて鈍った。
「止まったか!?」
父が怒鳴る。
完全には止まっていない。
だが、さっきまでの勢いは確実に落ちている。
【東側副水門】
状態:閉鎖一段目成功
効果:流出低下
「まだです! もう一段!」
その瞬間、ノアのすぐ横の石に刃が突き刺さった。
敵の一人が短剣を投げたのだ。
「このガキ……!」
「ノア、下がれ!」
カイルの声が飛ぶ。
だが、今下がればまた開かれる。
ノアは歯を食いしばり、二度目の操作に手をかけた。
左へ回す。
今度はさっきより重い。
水圧が、逆向きにかかっている。
腕がきしむ。
肩が痛む。
それでも、導きが示している。
ここで止めれば、まだ間に合う。
「っ……!」
ご、ご、と石が唸る。
次の瞬間、背後で短い悲鳴が上がった。
振り向かなくてもわかる。父たちが押し返したのだ。
「今だ、最後までやれ!」
父の声が飛ぶ。
ノアは全身で石輪を押し込んだ。
重い音。
噛み合う感触。
そして――
水の音が、変わった。
逃げていく音ではなく、どこか別の方向へ流れを戻すような、低い音へ。
【東側副水門】
状態:閉鎖二段目成功
効果:本流回復開始
「戻った……!」
ノアが息を呑む。
そのとき、見張り役だった男が、沢の上へ這うように逃げ出した。
「逃がすな!」
カイルが叫ぶ。
だがハンスは追わなかった。
代わりに低く言う。
「深追いするな。今は水門だ」
正しい。
ここで追えば、別の仕掛けを触られるかもしれない。
父が敵の落とした袋を拾い上げる。
中には細い地図片と、赤い印のついた木札が入っていた。
「これ、持ち帰るぞ」
「うん」
ノアは頷いた。
視界には、まだ最後の文字が残っていた。
【東側副水門】
状態:仮閉鎖
注意:再操作で再開放可能
完全ではない。
だが、止めた。
少なくとも今この瞬間、敵の手は一つ折った。
◇
村へ戻ると、井戸端にいた全員が息を詰めたようにこちらを見た。
「どうだ!?」
ベルンが叫ぶ。
ノアは井戸の縁へ駆け寄る。
さっきまで下がり続けていた水面が、今はかろうじて止まっていた。
そして、ほんのわずかだが――揺れが変わっている。
【リトの井戸】
状態:低下停止
変化:回復傾向・微弱
「……止まった」
ノアが言う。
「少しだけ、戻ってる」
井戸端に大きな息が広がった。
泣き崩れる者はいない。
歓声もまだ上がらない。
けれど、皆の目に、確かに生気が戻っていた。
村長が一歩前へ出る。
「敵は?」
「東の枯れ沢にいた」
父が答える。
「三人。追い払ったが、一人は逃げた」
「水門もあった」
ノアが続ける。
「昔の放水路です。完全には壊せていないけど、今は止めました」
村長の顔が引き締まる。
「つまり、また来るな」
「はい」
ノアは即答した。
「しかも次は、もっと本気で」
母が静かに井戸を見つめたまま言う。
「じゃあ、もう後戻りできないのね」
「うん」
ノアは頷いた。
「敵が狙ってるのは、村の下にあるもの全部です。石室だけじゃない。水門も、封蔵区も、その先も」
ハンスが地図片を広げる。
「見ろ」
そこには、東の副水門と、北方貯水殿を結ぶ簡単な線が描かれていた。
さらに、その奥にはもう一つ、大きな丸印がある。
「まだ先がある」
カイルが息を呑む。
「これで終わりじゃないのかよ」
「終わりじゃない」
ノアは地図片を見つめた。
「でも、向こうももう隠せていない」
敵は急いでいる。
だから副水門を動かした。
だから村に気づかれた。
こっちも追いつける。
いや、追い越せるかもしれない。
ノアは拳を握る。
石室は見つけた。
水門も見つけた。
敵の狙いも、少しずつ繋がり始めている。
なら次は、その中心へ行くしかない。
ノアはその暗い底を見つめる。
敵は、もう隠れていない。
こっちも、もう止まれない。
――次は、北方貯水殿へ辿り着く。




