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40恥目 要

 父さんはいつも夜になると書斎で泣いていた。


 僕が寝た後、必ず誰かに何かを言いながら鼻を啜る音がする。

 それを聞くと不安になって、布団を頭まで被って僕も泣いた。


 時々、書斎を襖の隙間から覗き込んだりしたっけ。


 オレンジ色の安っぽい光の中、泣く姿が酷く恐ろしかった事がある。父さんが燃えているように見えたのが怖かったな。


 声を殺しても、感情は押さえ込むことが出来なくて、頭を掻きむる姿がどうしても火に焼かれるように見えた。


 足元には大量に積まれたキャンパスノート。散乱する原稿用紙とコピー用紙。


 壁に貼られた「白黒のおじさん」の写真が複数枚と、父さんよりも年上の女の人の写真が貼られていた。


 女の人の写真にはびっしりと手垢が付いている。その人を撫でるようにして出来た伸びた手垢だ。


 この人は僕の母さんだと父さんは言ったけど、面識もなかったので実感は湧かない。


「要は父さん似かなぁ。母さんは物事をハッキリ言う人で、切り替えも早いんだ。だから学校ではね……」


 涙を流す夜とは逆に、昼間に母さんを語る時は生き生きしていた。


 夜もこれならいいのにと思っても、父さんを傷つけるような気がして最期まで伝えることはなかった。

 

 母さんは高校の時の先生で、父さんのクラス担任だったと聞いている。


 年齢は干支一回り、いや、もっと違う。

 初めて会った時に心を奪われ、それから高校3年生の時にやっと想いが実ったと聞かされた。


 母さんと一緒に暮らしていないことに寂しさはない。ただ、父さんが悲しくならないように、居なくなってしまわないように黙って聞いているだけ。


 僕が小学生に上がってからも同じような日々が続いていた気がする。


 唯一学校生活で苦痛だったのは、母の日の似顔絵を描かされること。

 その時は本人には黙って、父さんを女装させた姿を想像して描いてやり過ごす。


 授業参観に来た時、父さんは絵を褒めてくれた。

 「母さんには似てないけど、誰?」と聞かれたら「会ったことないもん」とはぐらかしてね。


 小学生になっても父さんは相変わらず売れない小説家。

 いいや、小説家志望の素人だ。そんな父さんが母さん以外にお熱だったのが「太宰治」だった。


「この人に憧れてるんだ。迷ったら太宰を読む! さあ、要にも英才教育するぞぅ!」

「太宰ってこのオジサン?」


 写真を指差すと軽くぺちんと叩かれる。


「こら! お、オジサンじゃないの!」


 僕に学がつき始めた頃、太宰治の英才教育は始まった。


 あの大量に積まれたノートは父さんが抜粋した名言集で、その時に感じた事を日記のように綴ってある。


 読書感想文は必ず太宰治。小学校低学年からそう。


 宮沢賢治の童話や児童書の感想文を書いている子が多い中、僕だけ難しい文章を読まされてたや。


 英才教育ってヤツ。


 最初は意味もわからず薄暗いイメージがあったオジサンにも、毎日触れていればそう思わなくなる。


 何か嫌な事をされた時にふと思い出す、「怒る時に怒らなければ、人間のかいがありません」。


 友達に嘘をつかれた時は「だまされる人よりもだます人の方が数十倍苦しいさ。地獄に落ちるのだからね」の名言で割り切れた。


 太宰の言葉は日常に、僕と父さんの絆となってあり続けた。


 お守りのように「走れメロス」の単行本を持たされたし、父さんは太宰から何かを拾って物事を乗り切って来たから、僕にもそうしてほしいようだった。


 その割には「檀一雄」とか言う人みたいになりたいとか言うけど、僕にはオジサンみたいになって欲しいという。


 例として、まずは人を信じる事。疑う事は恥だと、何度も何度も言われたな。


「要には太宰さんみたいになってもらいたいんだ。あっ、酒飲んで、薬漬けになれって言うんじゃないよ?」

「話自体は好きだけど、オジサンみたいにはなりたくないよ」

「要はまだまだお子ちゃまだから、太宰治という人間まではわからないよね。うーん、そうだ、きっとねぇ。要ならわかる日が来るよ」


 暗くて、弱くて、だらしのない人。そのイメージを持つ人は少なくないだろう。


 父さんに僕が一体どんな人になって欲しいのか気になって、駄々をこね、ついにズボンをずり下げてやった。


 父親への反抗だ。すると観念して、真面目な顔で正座してきた。


「さあ、資料を読んでみて、太宰さんは1人だった事がある?」

「1人?」

「ひとりぼっちって意味だよ」


 結論、ない。とんでも無いことをやらかしても、誰かが手を差し伸べてくれている。誰かが寄り添っている。


 いつも誰かは、隣にいる。だから僕にも、常に誰かが隣にいてくれるような愛される人になってほしい。と言うことだった。


「人を疑わず、信じ、絶望はしないで、お人好しくらいに人を助けるの。誰か困っている人がいたら、メロスのように走って飛んでいくんだよ。でも、ただのいい人じゃつまらないから、ちゃんと自分のワガママもきてあげるの。多少の人臭さも大切なんだからね。そうしたら、要が困った時に必ず誰かが隣に来てくれるから。きっと誰かが必要としてくれるよ」


 その時、僕の頭を撫でて、優しく微笑む父さんの柔らかい表情はまるでマシュマロのようだった。


「だから、要ってつけたんだ」


 僕の名前は「生出要」。


 要とは、まとめて、求めて、無くてはならない、大事な部分という意味である。

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