36恥目 財布の中身
「ちょっ、ちょっと。さすがにやり過ぎ……」
喫茶店の主人は引いていた。何もここまでしなくても……と、文人を庇い始めたのだ。
「いいですか、ご主人。こういう罪の意識がないクズには体に叩き込まないとわからないんですよ。ほら糸魚川、食い逃げした分の金はどうすんだ?」
「ど、どうしようもできまへん」
タスキ紐をまるで鞭のように厳しく床に叩きつける音。喫茶店とは思えない光景に、周りの客も手を止めてこちらを見ている。けれど、そんなのはお構いなしに中也さんの鬼畜染みた取り調べは止まらない。
喫茶店の主人が止めても「ぬるいなぁ」とニヤつくだけで、歯止めはきかない。糸魚川が答えを間違えるとタスキ紐で打たれるよになってしまったので何も言えなくなっていた。
手足を縛られて尋問されては誰かに助けを乞いたくなるもので。
「おい、なんとかしろよクソガキ! お前の連れだろ!」
「要に話しかけるな。こっち見ろ!」
暴力に怯えた彼の悲痛な叫びは、僕に向けられる。しかし、腰巾着と言われて傷付けられた彼のプライドはそう簡単にどうこうできない。
「とりあえず、お店としては代金を支払って貰えればいいので。だから、あのう、ねえ?」
お給仕さん達は気まづそうに苦笑いを浮かべた。わかる、わかるよ。この場に居るのがしんどい事。僕も気まずくて何も出来ないでいる。
このままではお店に申し訳ないから、中也さんに気づかれないようにそっと1人のお給仕さんに「いくらですか」と尋ねた。すると耳元で提示された金額は、現代で言うとおおよそ4,000円前後。
僕の所持金は約5,000円で、これで給料日までの残りの1週間を過ごさねばならない。しかもこの後、支払いもある。もし明日にでも五反田に帰るとすれば、食費3人分にかかる金額は1,000円じゃ足りないだろう。
毎日アルバイト先の豆腐屋の商品にならない部分を貰ってきて、醤油を垂らす――という生活になりかねない。
だけど、糸魚川もかわいそうになってきた。喫茶店も迷惑そうなので、そっと食事代を差し出す。ご飯は僕が朝昼を抜けば、夫婦にはちゃんとしたものが出せるだろうから。
僕は糸魚川が食べた分の代金をお給仕さんに手渡して、一言謝った。それから中也さんに声を掛ける。
「もう十分ですよ。代金も支払いましたから。これ以上は喫茶店の迷惑です。ほら、糸魚川も立って」
僕は正座をし続ける糸魚川に右手を差し出した。しかし右手は引っ込めろと中也さんに掴まれて、彼に「自分で立て」と命令する。 糸魚川はでかい溜息だけついて、歩みは亀のようにのろい。そのまま誰にも何も言わず、外へ出て行ってしまった。
僕も後を追って喫茶店を出る。先を歩く彼の体が心配だったんだ。酒瓶で殴られて、身体を引きづられ怪我こそ頭の天辺や擦り傷だけで済んでいるが、それが引き金で何か大事があってはいけない。
だから、念のため病院に行くように促した。
糸魚川はキツい目つきで前を見るだけで、聞いているのか、聞いていないのかわからない。
すると中也さんも後から来て「要!」と呼び止められた。
「糸魚川に構っちゃダメだ」
「そんな大した事してませんけど……」
金も無く泣いていた彼がしゅーさんとどこか重なって、大ごとになる前にすべてを治めたかったのが正直だ。
同じ現代人なら、司や先生が助けてくれたみたいにしなきゃいけないとも思った。僕だって最初は何もなかったんだし。 衣食住を提供してくれた先生がいなければ、僕も糸魚川と同じような事をしていたかもしれない。
「困ってるみたいだったし、心配で」
「心配でって……俺は怒ってるんだよ?」
「お金を支払ったから、ですか?」
「それもそう! だけど、ああ、もう。鈍感だな!」
彼は頭を掻き毟ると、また名前を呼ばれる。僕は体がビクッとなって、その真剣な声に応えるように向かい合った。
あんまり真っ直ぐに目を見られるので、僕も同じようにする。今の僕に恥ずかしさはないけれど、中也さんの頬がほんのりピンク色に染まっていた。
「妬いてるんだよ!」
そう言うと、糸魚川の方へ走って行ってしまった。その言葉は嬉しかった。だってそれって、僕を好きって事でしょう? 糸魚川のために何かしてあげようとしたことが許せないと、そうおっしゃるんでしょう。糸魚川に興味はあるけどさ、ちゃんとあなたを「男性」として意識していますよ。なんて言えるわけがない。 ドスの聞いた声や意外に力持ちだった所、全部好きが増えるきっかけです。
だけど、それとこれを混ぜちゃダメ。自分の気持ちよりやるべき事は何か。優先すべきは何か。最善策はどれか、僕はそればっかり考えているんです。だって中也さんの事ばかり考えていたら、何も進まないもん。
立ち尽くしていると、後ろから「おおい!」と声がする。
「お兄さん! やっと追いついた! はぁ、お荷物忘れてます」
「え? あぁ、ありがとうございます」
喫茶店のお給仕さんが原稿用紙を持って来てくれた。それを受け取ると、しゅーさんの顔を思い出す。
やっぱり僕には恋愛を存分に楽しむ程の余裕がない。
でも僕はよくばりだ。優先すべき事は全部。
誰も彼も、余裕がないからって、放って置けないよ。
また面倒が増えたと頭を痛める所を、僕はなぜか嬉しくなって足取りが軽くなった。




