6-5
『時間の反転現象?』
『そう。基本的にはナルニア式。でもある期間本の中に居座り続けると、浦島太郎式に変わる』
『何だ、その、ナルニア式とか、浦島太郎式とか』
『慧一読んでないっけ。ルイスの「ナルニアシリーズ」は、向こうでどれだけ長い時間を過ごしても、現実では全く時間が経っていない設定になっているんだ。“つむろぎ”も一緒。でも、ある一定の時間を過ぎると、浦島太郎式に変わる』
『つまり、向こうでは比較的短い時間でも、現実にはものすごく長い時間が経っている、と』
『そーいうこと。本にとっちゃ俺たちは異物だから。居座り続ける対価として時間を差し出す、ってところなんだろうな』
『その反転はどのくらいで起きるんだ』
『はっきりしていないけど、大体九十日前後ってところじゃないかな』
三ヶ月。反転現象が起きて当然の期間だ。ここにいるのは、あの日からまだたったそれだけしか経っていない佳乃なのだ。
よろけそうになったのをまだだとこらえた。せめて直接会うまでは、立っていないと。
「……会わせてもらえますか」
「構わないけれど……あなたは? 旦那様?」
「……は?」
空耳?
「あら、違うの? こんな危ない橋を渡ってまで会いに来るなんて、旦那様くらいかと思ったのだけれど」
「……いえ、その、兄、のようなものです」
心なし残念そうな顔をして、しかしそれ以上突っ込むこともせず、少し待っていて、と言い置いて彼女は一度その場を立ち去った。その間どうしていようか悩む。誰か来た時のための言い訳に、今の人の名前を聞いておけばよかった。さっきの茂みに戻っていようかと振り返るも、目の前に広がる光景に思わず肩を落とした。明らかに雪が落ちて丘をつくっている部分。そこから足跡が先ほどの茂みにまで続いている。これでは、枝を伝って誰か来ましたと言っているようなものではないか。ばれるわけだ。で、俺はどうしよう。
所在なげに右往左往していると、パタパタと足音が響いて、そして。
「慧一!?」
髪をおろして着物を着こみ、寒さのためか急いできたからか真っ赤な顔で滑り込んできた彼女は、紛れもなく。
ニ年ぶりに会う、中学一年生のままの、佳乃その人だった。
「佳乃」
思わず足を踏み出したが、それに反応するように彼女が一歩足を引く。怪訝そうな顔で、胸元で手を握りしめて、軽く、首を傾げる。
「……慧、一?」
「なんで」
疑問形なんだよ。ずっと一緒にいただろうが。
そう言いかけて、気づく。
佳乃が最後に会った俺は、今よりも背が低くて、もう少し華奢だった。孝己なんて声まで低くなってしまっているから、会ったら今以上に驚くだろう。
本当に変わってしまったのだ。このニ年間で。俺も孝己も、佳乃を置き去りにして。
「……あぁ、そうだ。紛れもなく、俺だ。お前らの兄貴分の、慧一だよ」
しっかりと目を見て、一つひとつ、言い含めるように告げる。過ぎてしまった時間の長さが、伝われば良いと思った。案の定、佳乃が目に見えて動揺する。
「……たった三か月なのに」
「時間の反転現象、知ってるだろ。現実ではあれからニ年以上が過ぎてる。俺も孝己も、高校生だ」
本来なら、お前だって。
沈黙が落ちる。あまりのショックからか、俯いたまま何も言わない佳乃に向かって、躊躇いながらも近寄ろうとした時。ひょい、と彼女が顔をあげた。
「そっか、そうだよね、向こうとこっちじゃ全然、時間の流れが違うもんね。あー、わかってたけど流石にびっくりするなぁ、反転現象なめちゃだめだね」
あはは、と笑う声が虚しく冬の庭に漂う。てっきり、泣くだろうと思っていた。逃げ出すだろうと思っていた。だからその、何でもなく納得したような、納得させたような反応があまりに予想外で、今度はこちらが動揺していた。
そんな様子に構わず、ひょいひょいと手招きする彼女に引き寄せられて縁側のすぐそばまで寄ると、しゃがみ込んだ佳乃が手を伸ばした。ギョ、として身を引くより早く、頬に冷たくて柔らかいものが触れる。
「慧一、すっかり大人だねー」
そのままペタペタと、おそらく唖然としているであろう顔中を触って、何が面白いのか笑みまで浮かばせる。
「背も大きいし、そっか、私より三つも上になっちゃったんだもんね。ますますお兄ちゃんだ」
「……佳「あ」
帰ろう。その言葉を封じるように、佳乃がふとその手を下ろす。かと思うと、肩口の布をちょいと摘み上げた。
「慧一、ここ破けてる」
「え」
どうやったらこんなところ破けるの、と不思議がる佳乃に侵入のあらましを話すと、ケタケタと腹を抱えて笑った。あどけない笑みに気持ちが解れて、ついこちらまで笑みを浮かべてしまった。あぁ、なんか、良かった。




