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微動だにしない定家の背中が気になって、こっそり隣へと移動してみる。蒼白の顔が、白くなった拳を握りしめたまま、順徳院の姿を凝視していた。眉は強く寄り、唇が数度開いて、結局言葉を発しないまま閉じられる。やがて嘆息と共に俯いた定家の姿は、順徳院の目にも映ったらしい。
「定家、その気色は、全てを知って私を陥れようとした者としては、あまりに情けないものではありませんか。今更、情でもわきましたか」
「……否応もない」
絞り出された声に苦悩の響きを聞き取って、順徳院の抵抗の手が止まる。その隙に孝己が詞を唱え始めたが、気づかないようだった。意識は全て、定家に。
「我は、この子どもにも、上皇にも、是非を言えぬ。我は歌人。ならば、戦などという歌を詠めぬほど物騒な事物は御免被る。喜んで上皇に力を貸そう」
上皇の目に光が宿る。唱える孝己の声が詰まった。だが。
「しかれど、我は院を主と仰ぐ者。院の栄華を祈る者。院がおられなければ、我はここまで大手を振って歌を詠めなんだ。その院が、北条に虐げられて本懐を遂げられぬことが何よりも口惜しい」
お分かりか。彼は上皇を見あげる。
「どちらを選ぼうと、我が望みは叶い、また叶わぬ。我が歌人であり院に仕える者である限り、答えは出ぬ。かような程に己を情けなく覚えたことはないわ」
「……定家」
光の糸の下で、掌が下を向き、定家の方へと伸びかけ、阻まれて止まり、握られる。それを見て取った定家が手を伸ばした時。
「定家、大丈夫。その苦悩は、すぐに解消される」
余りにも冷め切った声が、上から落ちてきた。
「失われし情よ想いよ蘇れ。
― 失われし歌を今、口ずさめ」
彼は最後の詞を言い切ると、右手を振り抜いて、そして。
振り返った定家と俺の前で、まるで思いまでも両断するかのように、左手が振り下ろされ、糸を切った。
「―了」
糸の光が一際輝き、解け、一続きの言の葉を紡ぎだす。
『百敷や ふるき軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり』
聞いた瞬間、懐古の声、と思った。だがそれは徐々に色を変えていく。失意と、羨望と、薄ら寒さを感じさせる、静かな怨恨と、怒り。気づけば、定家の腕を握りじりじりと後退りしていた。光の文字が例によって孝己の胸元に収まり、ゆっくりと開いた順徳院は、少しだけ首を傾げて、しかし何を納得したのか一つ頷いた。
「定家、驚くのも仕方がないかと思うのですが、私は本気です」
待て、これはどこの続きだ。
「私は栄華溢れる朝廷を父上に見せたい。それこそ天智天武の時代のように。ですから、今を逃すつもりはありません」
おおよそどこまで戻ったのかを察し、ついで似た台詞を聞いた気がして、慌てて振り返る。先ほどまで立っていた孝己はいつの間にか膝をついていた。低頭しているその向こうで、こいつ今、どんな顔しているんだ。
「朝廷の権威を示すためには、北条を従わせることが必須。彼らは武士ですから、武力と智略に勝る者に従うでしょう。父上は智略をお持ちだ。ならばあとは武力あるのみ。人の命は短いですからね。実朝殿には申し訳ありませんが、これも世の習い。中央の座を父上に差し上げることにためらいはありませんよ」
そして、あっけなく戦を決めた男は膝を折り、定家の肩にそれは軽々と手を置いた。
「本当は定家にも来てほしかった。けれど、あなたが決して首を縦に振ることはないということもわかっています」
なぜなら、と、彼をよくよく理解したかのような男の声が告げる。
「あなたは歌人ですから。歌人であるために父上と決別したのですから」
残念ですが、と言葉を重ねて立ち上がると外にいる兵を呼び出し、いくつか言葉を交わしてから、未だ座したままの定家へと振り返った。
「呼び出しておいてすみません。父上が帰ってくる頃です。そういうことですから定家、しばらくは不自由をさせますが、全てが終わったその時は、改めて歌を教えに来て下さい。父上と縁を切ったその時に私とも切った、などという悲しいことをお考えでなければ、是非」
一方的に言い切った後、襖が二度音を立てる。その余韻が室内から消えた頃、肩の上に手が乗った。隣を見れば、定家の肩にも。それが何を示すのか思い当たったのか、定家がその手を払おうと自分の手を挙げる。
「待て、我は、院に―!」
「会ってどうするの」
ざっくりと遮った言葉に、声を詰まらせ手が止まる。その隙に。
「閉じよ」
俺たちは本の中から、放り出されていた。




