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「……わかったことがある」
司書室の奥のいつもの部屋で、定家の声は一見静かにこぼれだした。
「何、定家」
促す孝己の声も至って平静で、これから夕飯の献立の相談が始まってもおかしくないくらいだ。だがそうでないことは、本を間に向き合った二人の雰囲気からわかる。冷え冷えとした瞳で孝己を見あげる定家の、その視線を眇めた瞳で受け止める孝己の、どこにそのような和やかさがあるだろうか。
「我の認識は、意識は、思考は、正しい歴史の我のそれと異なっておる。異なりかけておる、と言ったほうが正しいか」
歌に対する定家の意識は決してぶれない。共に過ごしてわかった。だが、歪みを正す前後で皆の言葉が変化する部分がある。出会って少しした頃に、定家が語っていた。『仕えると定めた主もある』と誇らしげに胸を張って、後鳥羽院の名を告げた、その姿。
「今の我は院に絶対の忠誠を誓っておる。気に入らぬところは多々あるが、それでも、院がお許しになる限り我は院についてゆく。それがどこであろうと、……歌すら、満足に詠めぬ場所であろうと」
そう、その思考が、あり得ないのだ。
史実において藤原定家は、すでに後鳥羽院と袂を分かち対立関係にあるはずなのだから。
「だが、それでは困るのだろう、孝己」
定家の手がつ、と持ち上がって、孝己の手の上の本を指さす。
「それは、老いた我が手掛けたものだから」
「調べたんだ」
「時間は有り余っていた故な」
小倉百人一首。選者は晩年の藤原定家。万葉の時代から鎌倉時代までの約六百年間に詠まれた数多の歌から秀歌百首を選んだ、現代において最も身近な歌集。後鳥羽院側についていたら、絶対に生まれなかった歌集だ。
「そうだよ定家。藤原定家は決して歪んではいけない。どの時代、どの歌の世界の藤原定家も。もし歪んでしまったら、『小倉百人一首』は死んでしまう。本の中にその本が生まれない歴史ができてしまう、そんな矛盾が生まれてしまうから」
驚きの欠片も見せずに孝己が肯定する。そうだ、孝己はここしばらく、定家にその事実を突きつける世界ばかりを選んでいた気がする。目的は初めから、定家に己の矛盾に気づかせることだったのか。
「我を本の外に連れ出したのも?」
「そう。これ以上歪みを広げないため」
嘘をついた、とこれっぽっちも悪びれずに孝己は言い放った。
「定家は何者にも狙われていない。刺客なんていなかった。いたとしたら、それは俺と、父さんだ」
「おじさん?」
そこで名が出てくることがあまりに予想外で、思わず口を挟む。
「言ったよね? 父さんは中で定家の代わりをしているって。それには二つの意味がある。一つは、母さんを守ること。もう一つは、本の中の『藤原定家』をこれ以上歪ませずに存在させ続けること」
「そうだったのか……」
つむろぎの力が使えないおじさんが、一体どうして本の中にと思っていた。まさか入れ替わりにそんな役割を持たせるとは。
「それで、孝己よ、単刀直入に問う」
「何、定家」
まるで答えを知っているかのような欠片も感情の動かない反応に、定家の眉が寄る。
「歪みの主は、誰だ」
「……自分だとは、思わないんだ」
少し意外そうに、孝己が問う。対する定家は心外とばかりに腕を組んだ。
「我が歪みの主ならば、手っ取り早くその場で正して仕舞だろうが。我も歪みの最中におり、しかもかなりの影響を受けておる。歪みの主に我が同調して歪みを広げる可能性を考えれば、あるいはかの内親王のような状態ではないかと仮定した」
孝己は沈黙を続ける。ただ、眇めた瞳だけがゆっくりと、まるで何かを推し量るように定家を捕え続けている。
「簡単なこと。我の時代に近い者たちの陰で、その方は必ず動いておった。あと一押しで後戻りのできないところにくる、その一押しを担う位置におられた。あるいはその者が歪みとなるきっかけになっておられた。今だからわかる。それはその方がこの本の歪みの主であったからだと。その方がそのような形で、他の歌の世界にも影響を及ぼしているのだと。以前別の時代で見えた時から、長らく考えておった、これが結論」
一度言葉を切って、定家は長く息を吐いた。小さく震えていた。これから口にすることを、それが事実であることを、まるで恐れているかのように。
「歪みの主は、我が主。この時代で『後鳥羽院』と呼ばれる男であろう」




