第四章 【春の離叛】
刻は2023年初旬。
2人の独立計画は、依然として前進の兆しを見せていなかった。
それどころか、むしろ後退していると表現した方が正確な状況である。
問題は他でもない、高城の「資金運用における著しい偏り」にあった。
彼の行動原理は当初から変わることなく、計画全体の整合性とは裏腹に、資金面だけが静かに目減りしていく構造を内包していた。
しかし、世は高城の調整力を見誤っていた。
刻は、2人を見捨てていなかったのだ。
この数ヶ月後、一つの「せつない別れ」を伴い、2人に大きな追い風が吹く事になる。
時代は、好機の到来を告げると共に、無情にも「刻の涙」を流していた。
2023年3月中旬。
ある日の終業後、会社社長から衝撃的な発表があった。
なんと会社の主要幹部の一人が、3月末をもって退職をするというのである。
しかし実務のほとんどは、その幹部が一人で処理していた。
雑務も社外調整も、気づけばその手の中で片付いている。
宅建に加え、不動産鑑定士の資格まで持つ異色の存在。
数字にも現場にも強く、社内でその能力を疑う者はいなかった。
厳しさゆえに煙たがられることもあったが、それ以上に「この人がいなければ回らない」という認識が支配的だった。
いくら注意されても、感覚的な発言しかしない高城。
そして、会社への反発心から反抗的な態度を取り続ける吉田の2人も、心の奥底ではその人物を尊敬していたのである。
そんな幹部の突然の退職発表に驚きを隠せない高城。
それは、吉田やその他の社員も同様だった。
そして、幹部以下の社員は誰もが「今後この会社の将来は大丈夫なのか?」と危機感を抱いたのである。
2023年3月末日。
社長不在の朝礼は、いつもより静かだった。
その中心に立つ幹部は、最後の出勤日とは思えないほど普段通りの顔をしている。
「今日で最後だ。少しだけ話す」
言葉は短かった。迷いも感傷もない。
続けて並んだのは、別れというより指示に近い言葉だった。
社長への不満、自分の独立、そして連絡先の共有。
最後に一つだけ、やや強い口調が混ざる。
「妙な書類にはサインするな」
一拍置いて、幹部は机の上に視線を落とす。
そこに置かれていた資料を軽く指で示した。
「これは置いていく」
何の説明もなかった。
ただ、それが「今まで表に出ていなかったもの」であることだけが分かった。
その瞬間、空気がわずかに歪む。
この「資料」こそ、高城と吉田にとって喉から手が出るほど欲しい代物であった。
社内の取り決めや運用方針が記された内部規定であり、これさえあれば会社の運用実態の“ズレ”を読み解くことができる。
当然のように、2人はこれを手に入れようと動き出す。
しかし、外回りから戻った時には、そこにあるはずのものは消えていた。
社内にいた社員にそれとなく尋ねると、どうやら社長側の人物がすぐに連絡を入れ、急遽回収されたらしい。
社内には幹部への冷たい視線が広がり、手のひらを返すような態度が漂う。
一方で、出世の機会と見て動き出す者もいた。
その異様な空気に違和感を覚えながら、高城と吉田は業務へ戻る。
2023年3月末日、18時頃。
MTが終わった高城はいつもの通り、サービス残業に勤しんでいた。
吉田は急な案件が入り帰社が遅れているが、それ以外は何の変哲もない、日常の風景である。
だが、高城はその光景に違和感を感じていた。
社員たちは、無言で業務を進めている。
それに対してテキパキと荷物を纏めている人物がいる。
午前中に資料を開示した幹部である。
荷物が片付いたのだろう。
幹部は無言で席を立ちEVへ向かう。
社内は変わらず、静かにキーボードを叩く音が聞こえている。
少し前なら、他の人間も併せて帰宅をしていた筈だ。
だが、席を立つものは誰もいない。
チン…と音がなった後、社内に活気が戻り、何気ない会話や笑い声が響く。
誰もが世話になった人物だった、それでも誰も声を掛けなかった。
会社という場所では、最後まで残る人間より、去る人間は最後の瞬間だけひどく孤独になる。
「タバコ買ってきます!」
高城は思わず席を立ちEVに向かう。
後ろの笑い声は、なんだか大きくなった気がした。
2023年3月中旬、18時30分頃。
「待って下さい」
夕暮れ、僅かにネオンが点り始めたアルタ前。
人混みに紛れかけていた小さな背中に、高城は声を掛けた。
振り返ったのは幹部だった。
「退職と独立のお祝いです」
高城は小さな紙袋を差し出した。
幹部は中身を一瞥して、少しだけ口元を緩める。
「気を遣うなよ、こういうの」
そう言いながらも、受け取る手は自然だった。
紙袋の中身を確認することもなく、幹部は一言だけ付け足す。
「俺、赤の方が好きなんだよな」
それは軽い冗談のようでもあり、事実の確認のようでもあった。
高城は一瞬だけ言葉に詰まる。
「すみません...調整不足でした」
幹部は小さく笑い、首を振る。
「いや、そういうとこだよ」
責めるでもなく、評価するでもなく、ただ「見抜いた」ような声だった。
一拍置いて、幹部は紙袋を軽く持ち直す。
「まあいい。ありがとうな」
そして高城の肩を軽く叩く。
「頑張れよ」
それだけ言うと、背を向ける。
人混みに戻っていく背中は、最初より少しだけ遠く見える。
そんな後ろ姿を「恋しさと せつなさと 心強さと」を感じながら見送る高城。
その拳は、強く握られていた。
2023年3月末日、22時頃。
高城は吉田と合流後、いつもの定食屋で遅めの夕食を取っていた。
話題は当然、本日の出来事である。
酒を飲みながら、会社の体制や空気に対する不満を互いに漏らす。
ひとしきり落ち着いたところで、吉田がふいに社用携帯を取り出した。
そして、そのままどこかへ発信する。
「おい、こんな時間に電話は──」
高城が制止しようとしたその言葉を、吉田が遮る。
「会社に掛けたが誰も出ない。今から資料を取りに行きましょう」
その声は、妙に落ち着いていた。
吉田は続ける。
「以前も言った通り、労務上の整理を進めれば、無理に資金を積み上げる必要もなく独立できる」
「内部の記録が揃えば、交渉の確度は大きく上がる」
「社長が処分したという話は聞いていない。おそらくまだ会社にある」
「今は社長も腰巾着も外に出ている。この時間なら不在か帰宅だ」
「2人で行けば対応は可能だ」
「時間が経てば、本当に処分される可能性もある」
言い切るたびに、空気だけが少しずつ硬くなっていく。
余りに早く、余りに直線的な判断だった。
「全体を俯瞰して物事を見ろ、後ろにも目をつけるんだ」
当然の如く、高城は吉田を止める。
しかし、吉田は
「今がチャンスだ」
「そんな事を言っていたら、いつまでも金は貯まらない」
「幹部の気持ちをむげにするんですか?」
と一歩も引かないのだ。
その後もやり取りの攻防は続き、場の空気は次第に悪くなっていく。
まさに一触即発の事態になる寸前だったが、さすがは大人な高城である。
なんとか吉田を窘め、帰宅を促すことに成功するのであった。
その後、いつもの喫煙所で2人は一服。
高城は呟く。
「今日は帰れ」
「こういう刻ほど、流れを見失う」
吉田も「すみません、ちょっと急すぎましたね」と反省の意を見せ、2人は帰宅した。
暴走気味の吉田を抑えたことに安堵し、独立に向けての熟考と調整を練り直し帰宅する高城。
しかし、高城は気づいていなかった。
吉田が新宿駅の改札に入る高城の姿が消えた後、舌打ちをした事に。
そして、なぜかそのまま通勤路線に向かわず、踵を返し会社に向かって行った事を。
2023年3月末。
予定通り幹部は会社を退職し、独立へ向け舵を切った。
それと比べ、約4年もの月日を掛けながら何の進展も無い高城と吉田。
刻は、出会いと別れの季節、春。
満開の桜は、人の新たな旅立ちを祝福するかのように咲き誇る。
2人の独立への夢も、かっては満開に咲き誇っていた筈であった。
だが、それは一瞬の輝きに過ぎなかったのかもしれない。
さながら「咲き誇り、潔く散る」桜の美学の如く、散りゆく兆しを見せていたのである。




