第一章 【時代を創る男 ~令和不動産独立浪漫譚 開幕~】 ※再編集済み
刻は2019年初頭。
新宿の不動産会社に勤務する高城は、惰性の中で働いていた。
理不尽な上司、上がらない評価、変化のない現場。
かつて抱いていた独立への熱は、日々の業務に埋もれ、意識しなければ思い出せないほど薄れている。
仕事終わりには後輩と愚痴をこぼし、
新宿という街も、もはや刺激ではなく通過点になっていた。
それでも生活は続く。
続いてしまうこと自体が、この時点での高城の現実だった。
時折、独立した自分を想像する。
だが、その想像は現実との差を突きつけるだけで、むしろ痛みになる。
夢に蓋をし、日々をやり過ごす。
平穏は確かに成立していた。
後に「日本一の調整漢」と呼ばれることになるその男も、この時点では一人の会社員にすぎなかった。
2019年2月某日 18時頃。
高城の会社では18時の終業時刻が終わった後、各々の課チームに分かれ締めのⅯTの席が設けられていた。
そのMTでは、高城の後輩、吉田が上司に罵声を浴びせられている。
「なんだその顔は、文句あるのか?」
「ありません」
吉田は腕を組んだまま一切目線を合わせていなかった。
上司の説教が続いても、謝罪の声色すら一定で、感情の起伏が見えない。
「聞いてるのか?」と問われても、「はい」とだけ返し、それ以上は何も出さない。
その態度が余計に火に油を注いでいた。
その瞬間だった。
高城は、上司が次の言葉を吐く「0.5秒前」に小さく咳をした。
「……ん?」
上司の視線が一瞬だけ高城に流れる。
「いや、タバコが吸いたくて」
思わず緩む場の空気。
気づけば上司も笑っている。
吉田への追及は、そこで終わった。
「まぁいい、今日は終了」
MTが終わりサービス残業にいそしむ各自。
高城は気分転換の為、事務所の喫煙所(非常階段)でタバコを一服する。
これもいつものルーティンだ。
喫煙所には数人の社員がいたが、誰も会話をしていなかった。
正確には「吉田とは会話していなかった」。
さっきまで詰められていた吉田は、壁際に立ってタバコを吸っている。
同じ空間にいるのに、そこだけ「輪」が欠けていた。
誰もそれを埋めようとしない。
「……」
吉田に視線が触れかけるたびに、誰かが話題を逸らす。
そのたびに、吉田の存在だけが少しずつ薄くなる。
「お前のくれよ、切れちまった」
高城の声で、空気が一瞬止まる。
視線が吉田に集まりかける――が、止まらない。
代わりに高城へ向けられる。
吉田は少し遅れて噴き出した。
「……どうぞ」
その一言で、初めて「会話」が成立する。
隣に立つ高城。
「だいぶ絞られたな」
「やってられないですよ」
その瞬間、数人が自然に喫煙所を離れる。
理由はない。
ただ「そこに居る形」が変わっただけだった。
高城は短く言う。
「じゃあ飲み行くぞ」
一瞬の間。
「……いいんですか?」
「いいも何も、普通だろ」
少し黙る吉田。
「……じゃあ、驕りですか?」
「バカ野郎、割り勘だ」
思わず笑い合い、空気が戻る。
正確には、最初からそうだったように上書きされる。
吉田も決して悪い奴ではない。
だがこの会社では、それだけでは成立しないのだ。
「じゃあ程よい所で終わらせて、いつもの飯屋に行こう」
高城は吉田に声を掛け、2人は事務作業に戻る。
高城の会社には「上司が帰るまでは帰らない」という暗黙の了解があった。
上司の機嫌次第で、翌日以降に何を言われるか分からない為である。
やる気が無くダラダラと仕事をする吉田をよそに、高城は「表面的」でも黙々と仕事を続ける。
こうした何気ない調整が日々の「平穏な暮らし」を守るコツなのだ。
2019年2月某日 20時頃。
終業後の高城と吉田は飲食店で酒を飲んでいた。
既に店員とも顔なじみの、常連の店である。
ここで会社への不平不満を漏らすのが日々のルーティーンなのだ。
今日も当然の如く会社への愚痴を言い合う2人。
酒が進み、いつものように順調に会社への不平不満で場が盛り上がっていた。
その後もしばらく愚痴を話す。
いつもなら程良い所で解散をする流れである。
しかし、そのタイミングで思いもよらぬ言葉を吉田は発する。
「こんな状態なら、自分たちでやった方が良くないですか?」
「隼人さん、独立するつもりはないんですか?」
それは酒の席の冗談では無かった。
吉田の顔は真剣そのものだったのである。
一瞬、口籠る高城。
「あった…いや、ある」
暫しの間が空いた後、思わず高城の口から本音が溢れる。
吉田の言葉は高城の琴線を大きく揺さぶったのである。
高城は嬉しかった。
若さと勢いからだとしても、かっての自分を思い起こさせるようなその発言が。
そして、自分と同じ夢を志す「熱い魂」を持つ存在がいた事に...
「そうこなくちゃ、今日は社長の驕りですよね?」
ふざけた回答をする吉田に「馬鹿野郎、割り勘だ」と高城は返す。
笑い合いながら再度乾杯をする2人。
その後の飲みの席、喫煙所での会話は愚痴など一切なく、2人は大いに盛り上がった。
独立に向けての計画、成功した時の夢や願望など、今までに無い熱量で語り合ったのである。
それは、よくある光景だったのかもしれない。
冴えないサラリーマンが、お互いを慰め合うために語り合う「机上の空論」
本来であれば、翌日には綺麗さっぱり忘れてしまう「淡い夢」
だが、高城は確信していた。
安穏とした「かりそめの平穏な暮らし」は、今この刻に終了し、新たな時代に向けての「刻の流れ」が到来した事を...。
そして、高城は感じていた。
かってとうに捨て去った筈の感情である「恋しさと せつなさと 心強さと」が、内から溢れ出て止まない事を...
吉田と別れた高城は1人、新宿の街をあても無く歩く。
先程迄は嫌気がさしていたその街並みも、活気があふれ光り輝くものに見える。
高城はポケットからタバコを取り出し、火を付ける。
紫煙が夜空へと溶けていく。
その刻だった。
西新宿の高層ビル群に、次々と灯りがともり始める。
オフィスでは残業を続ける会社員達。
高層階のレストランで食事を楽しむ男女。
どこかの会議室では、今この瞬間も新たな商談が行われているのかもしれない。
それは毎日のように繰り返される、ごく当たり前の光景。
だが、その夜だけは違って見えた。
まるで無数の光が、新たな時代の到来を告げているかのように。
高城は静かにタバコを吹かす。
「刻が来たか」
その言葉と同時に、西新宿のどこかで、ごく小さな歪みが静かに解けた。
何かが変わったわけではない。
ただ、世界の重なり方だけが、ほんの僅かに噛み合ったような感覚が残っている。
高城の眼差しは、遠い昔に確かに持っていた鋭さと力強さを取り戻していく。
刻は、2019年2月某日。
忘れかけていた高城の独立に向けての夢が、再び始まろうとしていた...




