10【Ⅼ】まったく素直じゃないんだから
「シスター、おはようございます」
「みんなおはよう」、すれ違う子供たちにリリィは笑顔で手を振った。
「シスター、おはようございます」
「おはよう、危ないから走っちゃ駄目よ」とリリィは笑顔で注意する。
「はあい」
すると突然アイリスが目の前に現れて、目を見開いてリリィの両肩を摑んだ。
「い、いったい何があった?」
「何が?」、リリィはにっこりとした。
「機嫌が直ってる。いやそれどころか、むしろ上機嫌じゃない」とアイリスは言った。
「そうかしら?」
「そうよ」
「ああ——そう、昨晩〈システム・サクラメント〉ですごく強いボスを倒したからかな?」
「それだけ?」、アイリスはまだ納得がいかない。昔から姉妹のように過ごしたから、女の勘が働いているのだ。
「それだけよ」、リリィは嬉しそうに微笑んだ。「そろそろミサに出ないと。今朝のミサは合唱だからピアノの準備をしなくちゃいけない」
アイリスは息をついた。「わかったわ。行ってらっしゃい」
「うん」、そしてリリィは礼拝堂に向かった。
リリィが礼拝堂に行くと子供たちは全員そろっていた。彼女はピアノの屋根を開いて固定し、椅子に座ったら、鍵盤蓋を開き、譜面台に譜面を載せた。
「みんな準備はいい?」
いいよ、と元気よく返事が戻ってくる。
リリィは童謡の「紅葉」の伴奏を弾き、子供たちは一生懸命に歌いだした。ほとんどの子は——特に幼い子は——歌詞を見ながら歌っている。でもミナやカホのような年長者は歌詞を見ていない。何回も歌っているうちに歌詞を暗記してしまったのだ。とりわけカホは歌が最も上手で——耳がいいのだ——そのことに明らかなプライドを持っているようだった。きっと陰で練習しているのだろう。その大人びた透明感のある歌声は合唱中もよく響いたし、他の子供たちの音程の標ともなっていた。もしカホにピアノを教えればある程度まではすぐに覚えられるかもしれない。でもリリィはミナとアイサにピアノを教えるので手一杯だったから、そのことを口にはしなかったし、カホの方もとくにピアノに関心があるような素振りは見せなかった。第一、本人がやりたがらなければ意味はない。それに修道院でいくらピアノを練習したところで、プロのピアニストになれる道はないのも同然だ。彼女が師事したシスターが別れ際に申し訳なさそうにしていた理由が今なら理解できる。そんなわけでリリィは色々ともどかしさを覚えていた。
合唱が終わるとみんなで食堂に移動した。今朝の献立はコッペパンにオニオンスープ、それとトマトサラダだ。いつものようにみんなでお祈りをしてから、食事をした。向かいの席でカホが優雅にオニオンスープを飲んでいたので、リリィは思い切って尋ねてみた。
「ねえ、カホ。ピアノのレッスン受けてみない?」
近くのパンジーがそれを聞いて口を添えた。「それはいい考えね」
カホは怪訝な表情をした。「厭よ」
「どうして?」とリリィは聞き返す。
「私には他にやることがあるの」
「他にやることってなあに?」とパンジーが訊く。
「なんだっていいでしょう?」とカホは返す。
「歌を聞いていて思うんだけど、カホは音感がいいからきっと上達すると思うの」とリリィは説得してみる。
「無理よ」
「無理って?」
カホは食事の手を止めて苛立たしそうに立ち上がった。
「ミナとアイサがピアノのレッスンを受けているのに、そのあいだ誰が年少者の面倒を見るわけ?」、場が騒然となる。
そう言うとカホは食事を終えぬまま一目散に食堂から出て行った。わがままに振舞っているようで、本当は人一倍責任感が強いのだ。陰で年少者の面倒を、ひとり熱心に見てくれていたのだ。
「申し訳ないことをしたわ」、リリィは呟いた。「お節介だったかな」
「リリィは正しいことをしたわ」とパンジーが慰めた。
そのあと会議があり、円卓をシスター4人が囲った。
「別に当座のお金には困ってないんだけれど、暗殺の依頼がないわね」とアイリスが身をのけ反らせながら言った。
「暗殺の仕事がないのはいいことなんじゃない?」とビオラが前のめりに言った。ビオラは根が臆病だから、暗殺の仕事があまり好きではないのだ。「大口の寄付とかないの?」
「そんな奇特な人や団体、都合よく現れないわよ」とアイリスが言う。
「修道院のホームページとか作ってみたらどうでしょうか?」とパンジーが提案する。
「ホームページねえ」
「うちが孤児を預かっているのを知れば、協力してくれる方も現れるかもしれません」
「それいいわね」とリリィは賛同する。
「あたしもいいと思う」とビオラも賛同する。
「でもあまりうちの内情を明かしたくないのよね」とアイリスは言った。「曲がりなりにもあたしたちは確然としたアサシンなわけだし」
「都合の悪いことは載せなければいいだけです」
「ホームページを見て、支援してくれる人もいるかもしれない」とリリィは言った。
「ところでホームページって誰が作るの?」とアイリスが当然の疑問を口にした。
皆そこで黙りこくった。ずっとデジタルとは無縁の生活をしてきて、パソコンに精通している人間がいないのだ。そんな中、パンジーがすっと手を挙げた。
「私が一から勉強します」
それを聞いてアイリスは引き下がった。
「わかったわ。パソコンを買ってくるといい。領収書はちゃんともらってね。あとホームページにシスターの写真は載せちゃ駄目よ、絶対。必要があれば名前も偽名を使うこと。いい?」
リリィとビオラは顔を見合わせ、パンジーは黙って首肯した。
「じゃあ今日の会議はこれにて閉会ね」とアイリスは言って席を立とうとした。
「ちょ、ちょっと待って」、リリィが呼び止める。
「どうしたの?」、アイリスが座り直す。
「私が子供たちにピアノを教えているあいだは、子供たちの面倒をシスターに見てほしいの。ミナもアイサも年長者だし、二人がいないとカホがひとりで子供たちの世話をしているみたいなのよ」
「ふむ、それは由々しき事態ね」、アイリスがあごに手をかける。
「それでね、実はカホも本当はピアノを習いたいんだと思う。でも子供の世話があるから言い出せずにいるんじゃないかな?」
「私もそれは感じました」、パンジーが後押しする。
「いつもはどれくらいピアノのレッスンをしてるわけ?」
「午後3時から1時間」とリリィは言う。
「わかった」、アイリスが頷いた。「あたしらのスケジュール、調整しましょうか」
「異議なし」とビオラとパンジーが声を上げた。
リリィは嬉しくなってさっそく大部屋にいるカホに会いに行った。が、どこにもカホの姿がない。大部屋はひどく騒々しくて、みんな夢中で遊んだりしている。リリィは近くにいたミナに尋ねた。
「ミナ、カホがいないんだけど、知らないかな?」
ミナは首をかしげた。「あれ? さっきまでそこにいたんだけどなあ。どこ行っちゃったんだろう?」
リリィは修道院内を必死に探してまわった。でもどこにもカホの姿は見当たらなかった。もしかして外に? 家出? 嫌な予感がする。庭に出ると桜の葉は黄色く染まっていた。その傍のベンチにカホはぽつんと座っていた。姿勢は固まり、うつむいている。
「カホ」とリリィは近づいて呼びかける。「探したわよ」
カホはリリィを見上げ、またうつむいた。
「聞いて」、リリィはその隣に座る。「さっき会議で決まったことなんだけれど、ピアノの稽古の時間は必ずシスターが子供たちの世話をすることになったの。だからね、あなたもピアノのレッスンに参加できるようになったわよ」
しかしカホは黙っていた。沈黙が下りる。リリィは自分が何か間違ったことを言ったのではないかと気が気でなかった。しばらくするとカホは顔をぬぐい、おもむろに立ち上がってわずかに顔を向けた。
「大きなお世話よ!」
そして今度は振り返らずに駆け出して行った。リリィはその背中を呆然と眺めていた。
「大きなお世話かあ」
その日の晩——時刻は午後10時をまわっている——リリィは自室でカホの態度を思い返しながら編み物をしていた。ほっといてほしいのだろうか? すると部屋の扉が開く気配がした。振り返ると入口にはイチカがいた。リリィはびっくりして駆け寄る。
「イチカ、どうしてここに。こんな時間なのになんでおねんねしてないの?」
「リリ、きて」とだけイチカは言った。
「ええ?」
イチカについていくと彼女は1階へ降りる階段を指差した。階段上には誰かが座っていた。上半身を壁にもたせかけている。
「カホ、かなしいしてる」、イチカは言った。「リリ、どうにかして」
「わかった。イチカはここにいてね」
「あい」
リリィは歩み寄ってカホの隣に腰を下ろした。窓から差し込む月明かりが辺りをほんのり照らしている。
「何よ?」とカホは言った。
「別に。ここに座りたかっただけよ」
「ふうん」
「無理にピアノの練習に誘ってごめんね」とリリィは謝った。
「そんなのいいから、あっち行ってよ」、カホの手は震えていた。
リリィはそれを見てカホの気丈さに気づき、優しく彼女を抱きしめた。
「カホは偉いね。絶対に人前では弱音を吐かないんだから」
「なんで――」、そのあとの言葉は続かなかった。カホがリリィにしがみつき、号泣しだしたからだ。それでもやがて彼女は顔を上げ、声を振り絞った。「シスター・リリィ。私――ピアノを習いたい!」
「まったく素直じゃないんだから」、リリィはにっこりと微笑んだ。「最初からそのつもりよ」
カホはとめどなく泣き続け、そのあいだリリィはずっと彼女を抱きしめていた。虫の音は響き渡り、月明かりは淡く二人を包んでいた。
リリィ「パジャマの胸もとが鼻水だらけに――」
カホ「色々とごめんなさい」




