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レオンがぐったりと疲れて店に戻るとサヤが出迎えてくれた。
にっこりと笑顔で微笑み、長い艶やかな黒髪を高い位置で二つに結んだ彼女は、どう見ても十代半ばにしか見えないが、実は彼女、レオンと年齢が3つしか違わない。
この間店にやって来たヴィンフリートの奥方、アルベルティーナよりも年下に見えるのに、実は彼女よりも年上なのだ。
それはサヤが東方の島国出身であることが起因しているらしい。なんでもサヤの話だとサヤのいた国の者は皆、こちらの人間が見れば幼く見えるのだという。酷い時には十以上も年下に見られる者は少なくないのだとか。
「お帰りなさい、レオンさん」
「ん、ただいま」
わざわざ出迎えてくれたサヤにレオンは機嫌を良くし、「わざわざ出迎えるなんて良い心掛けだな、助手」と言う。普段なら表情を消し冷たい目でレオンを見つめて毒を吐くのだが、今日は違った。サヤは笑顔のままだった。
そんなサヤの様子が不気味に思ってしまうのは仕方のない事だと思う。
「レオンさん」
「ん?」
サヤはすっと片手をレオンに差し出した。
そんなサヤの行動にレオンは首を傾げ、はっと何かを思いつき、「仕方ないな」と呟いた。
そして───
「……レオンさん?」
「なんだ?」
「なぜ、私の手を握っているんですか?」
「なぜってそりゃあ、手を差し出されたら握るだろ? 助手はオレと握手がしたいんだろ?」
仕方のない奴め、と少し照れたように言ったレオンの手をサヤは無言で叩き、その手を離した。
「いって! 今、本気で叩いただろ!?」
「馬鹿なこと言っていないで、お金ください。今日の夕飯代です」
「はぁ? 昨日金渡したばかりだろうが」
「忘れたんですか? 昨日貰ったお金で店の細々とした備品を買うからまたお金くださいね、って言いましたよね? そしたらレオンさんが『明日は殿下からお小遣いふんだくってくるから任せとけ』って答えましたよね?」
「……あー。そういえばそんなことを言ったような。言わなかったような…?」
「言いました。しっかり、きっぱりと、はっきりと、言いました」
だから早く金を寄越せ、と言わんばかりにサヤはレオンの前に片手をかざした。
レオンは大袈裟に溜め息をついて、ズボンのポケットから財布を取り出した。そしてその中身を確認し、にっこりとサヤに笑顔を向けた。
「レオンさん…まさか…」
「……サヤちゃん。知っているか? この世にはツケというシステムがあるということを」
「……お金無いんですね?」
「その素晴らしいシステムを使うときがやってきたようだ…さあ、うさぎ亭に行こう。あそこの親父さんの料理は絶品な上に値段は良心的だからなぁ」
「誤魔化さないでください」
「ぐえっ」
サヤはレオンの鳩尾を殴った。カエルが潰れたような声をあげてレオンは腹を押さえて倒れた。
そんなレオンの背をサヤは思い切り踏みつけた。
「さ、サヤちゃん、手加減を…」
「私、散々言っていますよね? お金の使い方には気を付けて、と。依頼料を頂いたばかりですよね? それなのにもうないと? あなた、どんなお金の使い方してるんですか? まさか、女に使ったとか言うんじゃないでしょうね?」
「ふごっ! さ、サヤちゃん、オレ死ぬ…」
「いっぺん死んだ方がレオンさんのためになると思います」
サヤが冷え冷えとした目でレオンを見つめ、背中をダンダンと踏みつける。
そのたびにレオンは悲鳴をあげた。
「ちょっとオレ話を聞いて! 今回、金を使ったのには理由があってだな…!」
「言い訳は無用です」
「がぁっ」
ぐりぐりとレオンの背中を踏みつけ、トドメとばかりに踵落としをサヤは繰り出した。
レオンは声にならない悲鳴をあげ、もがいていた手足を力なく床に落とした。
サヤはそんなレオンの様子に少しだけ気が晴れたようで、いい仕事をした、と言わんばかりに、汗などかいていないのにも関わらず額をこすった。
「…その理由とやらを聞きましょうか」
サヤはレオンを痛めつけたことなど忘れたようにいつもの無表情でレオンを見つめた。
そんなサヤをレオンは涙目で見つめ、のろのろと起き上がり服に着いた汚れを落とす。
レオンの背中にはサヤの足跡がくっきりと残っていたが、サヤは敢えて言うのをやめた。嫌がらせである。
「ちょっと調査をしに遠出をして、その運賃に金を使った」
「調査?」
サヤはレオンの回答に首を傾げた。
調査などをするのはサヤの役割で、レオンの担当ではない。レオンはサヤの役割や得意分野に一切手を付けない。にも関わらずにレオンはサヤに相談一つせずに調査をしたと言う。
「…まあ、それ以外にも調べたい事があってな。そっちに金を使ったんだ。サヤに黙って使って悪かった」
「その調べたい事というのは、私が調べるわけにはいかないものですか?」
「今回の調査に関してはサヤに任せても良かったんだが…まあ、ついでだし、俺が調べることにした」
「…そうですか」
サヤはこれ以上質問をするのはやめた。
レオンには目的があることを知っている。その目的を果たすために活動している最中に、サヤと出会ったのだ。
だがレオンはその目的に関わることにサヤが関与するのを嫌がる。そして目的に関して質問してものらりくらりと躱し、質問に答えることはしない。
まるで関わるな、と言っているようなレオンの態度に、サヤは納得がいかない。だが、人には譲れないものがあることもサヤは知っている。レオンにとって譲れないものとは、その目的に関してなのだろう。
「ではご飯を食べながら、王宮での話を聞かせてください」
「おう。あんまり大きな声で言える内容じゃねぇから、大まかな説明だけにしとく。ここに戻ったら詳しく話してやるよ」
「はい」
色々とレオンに言いたい事はある。だけどサヤはそれをぐっと堪えて頷いた。
レオンには恩がある。その恩に報いるためにも、サヤはレオンの傍にいることに決めたのだ。
死んでも口に出すつもりはないが、サヤはレオンの役に立ちたいと心から思っている。
だけどその思いがレオンにとって邪魔になるのなら、その思いを殺す。
サヤは自分の心を押さえる術を知っている。身に付けたくて身につけたものではないけれど、今はそれを習って正解だったと思う。この術は色々と便利だ。
サヤは自分の心に蓋をし、一足先に店を出たレオンの背中を追った。
「……将来有望と言われている方たちが、一人の女性に現を抜かしている…?」
「ああ、どうもそうらしいな。それが本当かどうか確かめに今日行ってきたわけだが、これが本当でな。世も末だな」
あーいやだいやだ、とレオンは言いながら、頼んだ料理を口に運ぶ。
カレーライスと言われるその料理はこのうさぎ亭でしか味わえない料理だ。
いくつものスパイスが効いた南西の方の料理で、ここの主人が冒険者として世界を回っている時に巡り合った料理なのだという。
こちらの人間にも口に合うように調整されたカレーライスは、三種類の辛さを選べる。
レオンはもっぱら辛口だ。この辛さが堪らない。やめられない止まらない辛さである。
一方のサヤはビーフシチューを食べていた。パンに付けて食べるビーフシチューはサヤのお気に入りであった。
「それでな、その女性なんだが、これがまあ、なんとビックリ、あのアリーセ様のご婚約者と一緒にいたという女性でな」
「その言い回し、古いですよ」
「うるせぇ。とにかく、この女性、というか令嬢な。色んな男に媚を売っているらしくてなぁ。それも将来有望と言われる奴ばかりを。そんな奴らがあっさりとこの令嬢に落ちているらしいんだ。怪しいだろ?」
「…怪しいですね」
「それで殿下が手に入れたのがこの小瓶だ」
そう言ってレオンが懐から取り出し、その小瓶をサヤに見せた。
綺麗なオレンジのような、ピンクのような液体をサヤは不思議そうに見つめた。
「見たことのない色の液体ですね…」
「…オレにはこの色に見覚えがある。恐らく、今回の件はオレの師匠が絡んでいる」
「そうですか…」
サヤは少し視線を下に向けたあと、すぐにレオンに視線を戻した。
「それで、私は何をすればいいのでしょう?」
「サヤにはこの令嬢が落とした奴の近辺の調査を頼む」
「わかりました。任せてください」
「ん、頼りにしてるぜ、助手」
レオンはポンポンとサヤの頭を叩いた。
そんなレオンにサヤは子供扱いして、と憤慨してみせた。レオンは「わりぃわりぃ」と謝る。尚もサヤは怒った風を装ったが、レオンの見ていないところで少しだけ口角をあげた。
頼られるのは、嫌じゃない。むしろ嬉しい。
レオンは人たらしだ。人をその気させるのが上手い。
明日も仕事を頑張ろう、とサヤは心の中で誓いつつ、サヤのビーフシチューを盗もうとするレオンの手を叩いた。