笑い声のある食卓
『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』
第8話
笑い声のある食卓
十月に入ったニューヨークは、朝の空気に少しだけ輪郭が出てくる。
窓を開けると、冷たすぎるわけではないのに、夏とは違う匂いがした。ビルの谷間を抜ける風が、どこか乾いている。歩道の木々も、まだ本格的ではないにせよ、ほんの少しずつ色を変え始めていた。
秋田家の朝は、いつものように台所から始まる。
味噌汁の湯気。
トーストの焼ける匂い。
フライパンでベーコンが小さくはぜる音。
炊きたてのご飯の白い熱。
さくらはエプロンの紐を結び直しながら、鍋の火加減を見ていた。朝の支度は、何度やっても少し慌ただしい。だが、その慌ただしさの中にこそ、暮らしの形があると彼女は思っていた。
「北斗、まだ靴下片方しか履いてないでしょ」
キッチンから声をかけると、リビングの方でぎくりとした空気が一瞬だけ流れた。
「……なんで分かるの」
「母親だから」
「それ、超能力みたいな言い方だね」
「違うわよ。毎朝見てるから分かるの」
北斗はソファの陰からひょこりと顔を出し、片足だけ靴下を履いたまま笑った。十歳の男の子らしい、妙に明るい朝だ。
一平はネクタイを締めながら、その様子を見て吹き出した。
「北斗、おまえ毎朝半分だけ出発しようとするな」
「全部やると時間かかるんだよ」
「半分でも結局怒られるんやから、効率悪いわ」
その会話を、梓が牛乳を飲みながら横目で見ている。十三歳の彼女は、最近ますます“見てから一言言う”のが上手くなってきた。
「北斗はいつも工程を減らそうとして失敗するタイプだよね」
「違うよ、僕は最短ルートを探してるだけ」
「そのルート、大体行き止まりだけど」
朝陽がオレンジジュースを口元まで運びながら言うと、北斗は不服そうに振り向いた。
「お姉ちゃんだって昨日、宿題やったって言って最後のページだけやってなかったじゃん」
朝陽がぴたりと止まる。
「……なんで知ってるの」
「見たから」
「見ないでよ」
「机の上に開いてあったもん」
「北斗、そういう観察力は別のところに使いなさい」
さくらの声に、食卓が笑いに包まれた。
一平はその笑いの中で、味噌汁をすすった。
毎朝のこの時間は、どうしてこんなに短いのに、あとから思い返すと長く見えるのだろうと時々思う。
子どもたちが同時に喋る。
さくらがその流れをさばく。
誰かがツッコミ、誰かが笑い、また別の話題が始まる。
ただの朝食だ。
特別なことは何もない。
けれど、たぶんこういう時間が、家というものの芯なのだろう。
「お父さん、今日は魚の仕事?」
北斗が聞く。
一平は箸を置いて頷いた。
「今日は魚も野菜もやな。日本から来る冷凍のホタテと、あと梨の件もある」
「梨も輸出できるんだ」
梓が少し興味を示す。
「できるで。簡単じゃないけどな。鮮度もあるし、見た目も大事やし」
「お父さんって、食べ物の旅の途中にいる人なんだね」
朝陽が何気なくそう言った。
一平は一瞬だけ目を上げた。
その表現は、自分では考えたことがなかった。
「食べ物の旅、か」
「変?」
「いや、ええな」
さくらが笑う。
「ちょっと詩人っぽい言い方だけどね」
「でも合ってるよね」
朝陽はパンをちぎりながら言った。
「日本のどこかで作られたものが、ここに来るまでの途中にお父さんがいるんでしょ」
一平は少し照れたように肩をすくめた。
「まあ、そういうことになるな」
「なんかいいね、それ」
北斗が無邪気に言う。
「僕、将来は空の途中にいる人になる」
「飛行機か」
「うん」
「じゃあ、お父さんは食べ物の旅の途中、おまえは空の旅の途中やな」
「つばめは家の途中にいる猫」
梓が言うと、ちょうど椅子の足元を歩いていたシャム猫のつばめが、何のことか分からない顔で一度だけ鳴いた。
また笑いが起きた。
その朝、一平は出勤前にいつもより少し長く家の中を見渡した。
朝陽が髪をまとめ直している。
梓がノートを鞄にしまっている。
北斗がまだ片方の靴下を探している。
さくらがその全部を見ながら、弁当箱の蓋を閉めている。
この家には、ちゃんと笑い声がある。
それが、何でもないようで、実は一番大きなことなのかもしれない。
その日の夕方、秋田家の食卓には、少しだけ特別な匂いが漂っていた。
醤油とみりんの甘い香り。
焼いた魚の香ばしさ。
炊き込みご飯の湯気。
味噌汁の出汁の匂い。
さくらは学校と塾の予定を調整しながら、こういう日は少しだけ手をかけた夕食を作るようにしていた。毎日ではない。毎日やれば自分がもたない。けれど、週に一度か二度、「今日はちょっとだけ、ちゃんとした食卓にしよう」と思う日がある。
今日はその日だった。
一平の帰宅は、いつもより少し遅かった。玄関のドアが開く音がして、つばめが真っ先に廊下へ走る。
「ただいま」
その声に、北斗がリビングから飛び出した。
「お父さん、今日ね、僕、算数のテスト満点だった」
「おお、すごいやん」
「でもスペルの小テストで一個間違えた」
「人生うまくできとるな」
「何が?」
「全部満点やったら調子乗るやろ」
「僕、そんなにすぐ調子乗らないよ」
横から梓が即座に言う。
「いや、乗るよ」
「乗らないって」
「絶対乗る」
「お姉ちゃんたち、ひどい」
一平は靴を脱ぎながら笑った。
家に帰ると、会社の数字や調整や交渉の言葉が少しずつほどけていく。代わりに、この家のテンポが戻ってくる。
ダイニングへ入ると、さくらが鍋敷きを置きながら顔を上げた。
「おかえり。今日はちょっと遅かったわね」
「冷蔵便の確認で少しな。通関のところでややこしい話が出て」
「大丈夫だった?」
「なんとかした」
その返事に、さくらは深く追及しなかった。大丈夫だったのならそれでいい。詳しいことは、話したい時に話すだろうと分かっている。
食卓に全員が揃う。
「いただきます」
声が重なる。
その一言が、家の輪郭をはっきりさせる。
北斗は焼き魚を見てすぐに声を上げた。
「やった、これ好き」
「ちゃんと骨気をつけなさいよ」
朝陽が言う。
「分かってるよ」
「前に“分かってる”って言いながら思いっきり引っかかったじゃん」
「それ一回だけだし」
「一回あれば十分なのよ」
梓が味噌汁をすすりながら言う。
「でも北斗、今日は学校でめちゃくちゃ元気だったよ。先生のモノマネまたやったでしょ」
北斗が目を丸くした。
「なんで知ってるの?」
「廊下で噂になってた」
「そんな広まることある?」
朝陽が笑う。
「“The kid with the dramatic news voice”って言われてた」
「“大げさなニュース声の子”か」
一平が吹き出す。
「ええやないか。将来のアナウンサーや」
「いや、僕は飛行機」
「じゃあ機内アナウンスで」
「それはちょっといいかも」
さくらも笑った。
一平は、茶碗を持ちながら家族の顔を順に見た。
朝陽の笑い方は、渡米したばかりの頃よりずっと自然になっている。梓は相変わらず落ち着いているが、家ではちゃんと年相応の顔を見せる。北斗はどこにいても北斗だ。そして、さくらがその全部を受け止めている。
「今日、学校どうやった」
一平が何気なく聞くと、朝陽が箸を止めた。
「普通。あ、でも」
「でも?」
「メーガンが、おにぎりの具で一番好きなのは梅だって言い出して、ソフィアとめちゃくちゃ揉めてた」
「何で揉めるのよ」
梓が笑う。
「ソフィアはツナ派なんだって」
「なんか平和やな」
一平が言うと、朝陽も笑う。
「すごい真剣だったよ。“Plum has personality.”って言ってた」
「“梅には個性がある”か」
さくらが吹き出した。
「面白い言い方するわね」
「で、ソフィアが“ Tuna has emotional depth.”って」
「“ツナには感情の深みがある”」
梓が訳して、もう箸を置いて笑っている。
「おにぎり一個に何を背負わせてるんだろ」
「ニューヨークやなあ」
一平がしみじみ言う。
「何でも議論にする」
「お父さん、それ好きだよね。“ニューヨークやなあ”ってまとめるの」
朝陽の言い方に少しだけ茶目っ気があって、一平は苦笑した。
「便利やろ」
「便利すぎ」
その向かいで北斗が急に手を挙げた。
「はい、僕も発表あります」
「何でしょう」
さくらが先生のような顔で聞く。
「今日、ジェイデンとルイスとやった新作コントがすごかったです」
「自分で言うんだ」
梓が呆れたように言う。
「タイトルは?」
朝陽が乗ってくる。
北斗は得意げに胸を張った。
「“What if homework could call the police?”」
一平が一瞬止まる。
「宿題が警察呼ぶのか」
「うん。宿題を無視し続けた生徒が逮捕されるやつ」
食卓がもう笑い始めている。
「どういう流れなんそれ」
「まず僕が宿題役で、“You ignored me for three days!”って怒るの」
「“おまえ、三日も無視したな”」
朝陽が訳しながら笑う。
「で、ジェイデンが生徒役?」
「そう。で、“I was emotionally overwhelmed!”って言い訳する」
「“心がいっぱいいっぱいだったんです!”」
梓が言うと、もうみんな笑っていた。
「それで警察が来るの?」
さくらが目元を押さえながら聞く。
「うん。ルイスが警察役で、“This is academic negligence.”って」
「“これは学業上の怠慢です”」
一平はとうとう箸を置いて笑った。
「おまえら、ほんまにようそんなもん思いつくな」
北斗は満足そうに頷いた。
「僕、日本にいた頃からこういうのやってたし」
その一言で、一瞬だけ空気が柔らかく静かになった。
日本にいた頃。
その言葉には、遠くなりつつある日々の匂いが少しだけ混じっていた。
朝陽が先に口を開いた。
「そういえばやってたね。学校の帰り道とか、公園とかで」
「駅でもやってた」
梓が言う。
「あ、やってたやってた。お父さんが待ってるホームで急に始めて、めっちゃ恥ずかしかった」
「覚えとるわ」
一平が笑う。
「朝陽が妙に大げさな車掌さんやって、梓がツッコミで、北斗はまだ小さかったから途中で脱線する役やった」
「脱線する役って何」
朝陽が笑いながら言う。
「実際してたやろ。話の途中で全然違うこと言い出して」
「今もだけどね」
梓の一言で、また笑いが戻る。
けれどその笑いの奥で、さくらは少しだけ胸の奥が動くのを感じていた。
日本にいた頃の記憶。
駅。
帰り道。
当たり前だった景色。
それはもう失われたわけではない。
けれど、いつでも手の届く場所にあるものでもなくなっている。
今のこの笑い声も、いずれ思い出になるのだろうか。
そう考えると、さくらは鍋の湯気の向こうで家族の顔を少し長く見つめた。
「どうした?」
一平が気づく。
「ううん」
さくらは笑って首を振った。
「ただ、みんなよく食べるなと思って」
「それ、母親が言う台詞としては平和やな」
「平和でいいのよ」
その言葉に、一平は頷いた。
平和でいい。
むしろ、それがいい。
仕事ではいつも何かを調整している。
学校では子どもたちが言葉や関係の中で小さく戦っている。
外へ出れば、ニューヨークは常に速く、少しだけ緊張を含んでいる。
だからこそ、この食卓の笑い声は大事なのだ。
食事の途中、電話が鳴った。
一平が立って受話器を取る。相手は会社からだった。冷凍便の到着時刻について確認したいという、短い連絡だった。
「はい、分かりました。明日朝いちで再確認します」
電話を切って戻ると、北斗がすぐに聞いた。
「仕事?」
「仕事や」
「魚?」
「魚と野菜」
「食べ物の旅の途中の人、大変だね」
朝陽が言うと、一平は苦笑した。
「その言い方、気に入っとるやろ」
「ちょっとだけ」
「でも、ほんまにそうやな」
一平はそう言って、湯気の立つ味噌汁に目を落とした。
日本の港。
倉庫。
コンテナ。
飛行機。
トラック。
通関。
そして最後に、どこかの食卓。
物は旅をする。
人もまた、旅をする。
秋田家もきっと、その途中にいる。
そして今は、この小さな食卓が、旅の途中の大事な停車駅のように思えた。
食後、北斗が突然立ち上がって、椅子を少し後ろへ下げた。
「では本日のメインイベントを始めます」
「何の」
梓が笑う。
「秋田家ニュース」
「ああ、また始まった」
朝陽が口元を押さえる。
北斗はスプーンをマイク代わりに握り、妙に通る声で話し始めた。
「Good evening, ladies and gentlemen. Tonight’s top story: Mom’s fish has disappeared in record time. Experts believe the family was extremely hungry.」
(こんばんは、皆さん。本日のトップニュースです。お母さんの焼き魚が記録的な速さで消えました。専門家は、家族が異常に空腹だったとみています)
一平がもう笑っている。
「続けてください」
さくらが乗ると、北斗はさらに大げさになった。
「In other news, Dad claims he only works with food, but evidence suggests he also works with complicated phone calls and mysterious papers.」
(続いてのニュースです。お父さんは食べ物の仕事だけをしていると主張していますが、複雑な電話と謎の書類も扱っているという証拠が見つかっています)
「正確やな」
一平が感心したように言う。
「And Asahi was seen smiling at dinner. Sources say this is a positive development.」
(さらに、朝陽さんが夕食中に笑っているのが確認されました。関係者は、これは良い兆候だとしています)
「ちょっと待って、それニュースになるの?」
朝陽が笑いながら抗議する。
「Very important news.」
(とても重要なニュースです)
「梓, meanwhile, remains suspiciously calm. Scientists are still investigating.」
(その一方で梓さんは、不自然なほど落ち着いています。科学者たちは今も調査を続けています)
「不自然って何」
梓が笑う。
最後に北斗は胸を張った。
「And finally, Tsubame the cat has denied all allegations of stealing attention, despite strong evidence.」
(最後のニュースです。猫のつばめは注目を独占しているとの疑惑を全面否定しましたが、有力な証拠があります)
ちょうどそのタイミングで、つばめがテーブルの下から何食わぬ顔で現れたので、家族全員が声を立てて笑った。
その笑いはしばらく止まらなかった。
食卓に残る湯気。
洗っていない皿。
少し散らかったテーブル。
椅子を引く音。
猫の尻尾。
家族の笑い声。
なんでもない夜だった。
特別な記念日でも、誰かの誕生日でもない。
ただ、みんなが揃って、よく食べて、よく笑った夜だった。
だからこそ、その時間はかけがえがなかった。
一平はふと、窓の外を見た。
夜のニューヨークが広がっている。向かいのビルの窓にも灯りがともり、それぞれの部屋にそれぞれの夕食があるのだろうと思った。
遠くでサイレンがひとつ鳴る。
それはこの街では珍しくもない音だ。
それでも今日は、なぜか少しだけ長く耳に残った。
テレビでは食後につけたローカルニュースが流れている。空港の混雑、株価、海外の小さな不安、どこかの地域で警備体制が強化されたという短い報道。だがそれらは、今この食卓には遠い話だった。
「ねえ、お父さん」
朝陽が何気なく言う。
「ん?」
「今度、私、ニューヨークでもっと面白い場所見つけたい」
一平は少し意外そうに、でも嬉しそうに娘を見た。
「ええやん」
「何かおすすめある?」
「いっぱいあるけどな。場所だけやなくて、音も見とけ」
「音?」
「街の音や。駅の音でも、楽器の音でも、店の音でも。そういうのが、その街の正体やったりする」
朝陽は一瞬だけ黙ってから、「ふうん」と言った。
だがその返事は、前よりずっと柔らかかった。
食卓の笑い声は、やがて片づけの音へ変わっていく。
さくらが皿を下げ、一平がそれを受け取り、梓がグラスを運び、北斗はつばめを追いかけながら何か歌っている。
そのどれもが、当たり前の夜の風景だった。
そして、その当たり前は、永遠には続かない。
まだ誰も知らない。
この笑い声のある食卓を、あとになってどれほど激しく思い出すことになるのかを。
湯気の匂いも、焼き魚の香りも、北斗のふざけたニュースも、朝陽の少しだけやわらかくなった表情も。
その全部が、未来のある時点から振り返れば、まぶしすぎるほどの“普通”になることを。
窓の外では、夜空のどこかを、見えない飛行機が音もなく横切っていた。
リビングに戻った朝陽は、家族の笑い声を背中で聞きながら、一瞬だけ立ち止まった。
この家の中には、ちゃんとあたたかさがある。
それを、今日の彼女は妙に強く感じていた。
そしてそのぬくもりの輪郭が、なぜか少しだけ胸を締めつけた。
理由は分からない。
ただ、何でもない夜ほど、あとで思い出になるのかもしれないと、ふとそんな気がした。
食卓にはまだ、笑いの余韻が残っていた。




