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あの日空が裂けた  作者: リンダ


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7/59

夕焼けの約束

『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』

 第7話

 夕焼けの約束


 九月の終わりに近づいたニューヨークの午後は、夏の名残をわずかにとどめながらも、どこか透明な秋の気配を帯びていた。


 授業の終わりを告げるベルが鳴ると、校舎の中は一気にざわめきに満ちた。ロッカーの扉が開閉する音、廊下を駆けるスニーカーの足音、誰かが大声で友人を呼ぶ声、遠くで笑い合うグループ。窓から差し込む西日が、それらすべてを橙色に染めている。


 朝陽はロッカーの前で教科書をまとめながら、小さく息をついた。


 ここへ来たばかりの頃は、この喧騒の中で自分だけが異物のように感じられた。言葉は聞き取れても、会話の流れに入るのが難しかった。冗談が少し遅れて分かって、一拍遅れて笑う。そんなことが何度もあった。


 だが最近は違う。


 昼休みに友達と笑えるようになった。授業中に発言するのも前ほど怖くない。英語を話している自分が、少しずつ“借り物”ではなくなってきている。


 それでも、夕方の光を見ると、ときどき胸の奥が静かになる。


 この街に慣れていく自分と、まだ慣れきらない自分。

 ここにいたい気持ちと、いつか去るかもしれない予感。

 どちらも本物で、どちらもまだ、はっきりとは形になっていなかった。


 ロッカーの扉を閉めた、その時だった。


「Hey, Asahi.」

(よう、朝陽)


 振り返ると、ノア・ベネットが立っていた。


 同じ学年だがクラスは違う。典型的なニューヨーク育ちの男子、という印象のある生徒だった。茶色がかった短髪、少し日焼けした肌、気負いのない立ち方。誰とでも自然に話し、笑い、ふとした瞬間には妙に静かな顔をする。朝陽は彼のことを以前から知っていた。というより、少し気になっていた。


 彼が学校のブラスバンド部でトランペットを吹いていること。

 放課後に音楽室の前でケースを抱えている姿を見たこと。

 友達の輪の中心にいながら、時折ひとりで窓の外を見ていること。


 そういう断片が、なぜか記憶に残っていた。


「What?」

(何?)


 朝陽が平静を装って言うと、ノアは肩を軽くすくめた。


「Nothing. You looked like you were thinking too hard.」

(いや、なんか考え込みすぎてる顔してたから)


「That’s none of your business.」

(余計なお世話)


「Fair.」

(そりゃそうだ)


 ノアは笑った。押しつけがましくない、軽い笑い方だった。朝陽は少しだけ警戒をゆるめる。


「Can I ask you something?」

(ひとつ聞いていいか?)


「Depends.」

(内容による)


「Are you going back to Japan someday?」

(君、いつか日本に帰るのか?)


 その問いに、朝陽は一瞬だけ言葉を失った。


 最近、この質問は何度かされた。友人からも、家族の会話の中でも。だが、誰に聞かれても、答えは曖昧になる。自分でもまだ分からないからだ。


「I don’t know yet.」

(まだ分からない)


 ノアはそれ以上急かさず、ただ静かに待っていた。朝陽は視線を少し落とし、言葉を探す。


「When I first came here, I wanted to go back all the time.」

(こっちに来たばかりの頃は、ずっと帰りたいって思ってた)


「Yeah?」

(そうなのか?)


「Everything felt too loud, too fast, and too far from home.」

(何もかもがうるさくて、速くて、家から遠すぎる感じがしてた)


 ノアは黙って聞いている。変に同情するでも、冗談で流すでもなく、そのまま受け止めている顔だった。


 朝陽は窓の外に目をやった。校舎の向こう、夕方の空が少しずつ色を深め始めている。


「But now… I’m getting used to living here.」

(でも今は……ここで暮らすことに、少しずつ慣れてきてる)


「That sounds good.」

(それはいいことだな)


「I think so.」

(たぶんね)


 そして、少しだけ笑う。


「I want to understand New York better.」

(もっとニューヨークのこと、分かるようになりたい)


「Like what?」

(たとえば?)


「What makes it interesting, what makes it beautiful, what makes people love it… even when it’s loud and messy.」

(何がこの街を面白くしてるのか、何がきれいなのか、うるさくて雑なのに、どうして人が好きになるのか)


 ノアはしばらく朝陽を見つめていたが、やがて口元を少しだけ緩めた。


「That’s actually a very New York thing to say.」

(それ、かなりニューヨークっぽい考え方だな)


「What does that mean?」

(どういう意味よ)


「It means you’re starting to get it.」

(少し分かり始めてるってこと)


 その言葉は、不思議と軽く聞こえなかった。朝陽の胸の奥に、静かに沈んでいく。


 ノアは顎で廊下の先を示した。


「Come with me.」

(ちょっと来いよ)


「That sounds suspicious.」

(その言い方、かなり怪しい)


「It’s not. Mostly.」

(怪しくない。たぶん)


「“たぶん”って何よ」

 朝陽は日本語でそうこぼしてから、仕方なくついていった。


 二人が向かったのは、校舎裏の小さな中庭だった。ブラスバンド部が時々音出しをする場所で、古いベンチがいくつか並び、フェンスの向こうには通りが見える。遠くでサイレンが鳴り、地下鉄の振動が足元の地面にごくかすかに伝わってきた。


 ここにもニューヨークはある。

 ただし、教室の中や交差点の喧騒とは少し違う顔で。


 ノアはベンチの上にケースを置いた。


「You carry that around all day?」

(それ、一日中持ち歩いてるの?)


「Only on band days.」

(ブラスバンドの日だけな)


「Still looks annoying.」

(それでも面倒そう)


「Worth it.」

(その価値はある)


 ケースが開く。中には銀色のトランペットが収まっていた。夕日の赤みが管体に映り、楽器の輪郭をやわらかく縁取っている。


「You play every day?」

(毎日吹いてるの?)


「Pretty much.」

(だいたいな)


「You really like it, huh.」

(本当に好きなんだね)


「Yeah.」

(ああ)


 短い返事だったが、そこには迷いがなかった。


 ノアは楽器を持ち上げ、少し離れた場所へ歩いた。西日が彼の横顔を照らす。廊下で見る時の、少し気楽そうなニューヨーカーの顔とは違っていた。そこにあったのは、何かを大事に抱えている人間の静けさだった。


 そして、彼はトランペットを構えた。


 最初の一音が鳴った瞬間、朝陽は思わず息を止めた。


 強く押し出すような音ではなかった。空へ突き刺さるのではなく、夕方の空気にすっと溶け込んでいくような音だった。甘く、少し切なく、けれど決して弱くない。高い音は光に触れるように伸び、低い音は街のざわめきの下へ静かに沈んでいく。


 夕焼けに染まるビルの壁。

 フェンス越しに流れていく車の列。

 遠くのクラクションとサイレン。

 そのすべての上に、ノアのトランペットの音色がやわらかく重なっていく。


 朝陽はその音を聞きながら、自分がさっき口にした言葉を思い出していた。


 何がこの街を面白くしているのか。

 何がきれいなのか。

 どうして人が、こんなに騒がしくて雑な街を愛するのか。


 もしかしたら、その答えのひとつはこういう瞬間にあるのかもしれない。誰にも注目されていない校舎裏で、誰かが夕日に向かって音を放つ。街はその音を知らないまま流れていく。それでも確かに、ここには美しさがある。


 演奏が終わってもしばらく、朝陽は言葉を失っていた。


 やがてノアが楽器を下ろし、少し照れたように振り返る。


「Well?」

(どうだった?)


 朝陽は少し遅れて息をついた。


「…That was beautiful.」

(……きれいだった)


 ノアの目がわずかに見開かれる。


「Thanks.」

(ありがと)


 朝陽は夕焼けの空を見たまま言った。


「It sounded like this city in the evening.」

(なんか……この街の夕方みたいだった)


 ノアは一瞬言葉を失い、それから小さく笑った。


「That might be the best thing anyone’s ever said about my playing.」

(それ、今までで一番いい感想かも)


 朝陽は少しだけ照れた。照れ隠しのように肩をすくめる。


「Don’t get used to it.」

(調子に乗らないで)


「Too late.」

(もう遅いな)


 二人の間に笑いが落ちる。夕方の光が少しずつ薄れていく。


 ノアは楽器をケースに戻しながら、ふと何でもない調子で言った。


「Hey… would you come hear me play sometime?」

(なあ……今度、俺の演奏を聴きに来てくれないか?)


 朝陽の胸が、小さく速く打った。


 それは唐突な誘いではなかった。ここまでの会話と、夕焼けと、トランペットの音が自然に連れてきた言葉だった。だからこそ、朝陽はすぐに素直には頷けなかった。


 少しだけ意地を張りたくなる。


 少しだけ、からかいたくなる。


 それでいて、断りたいわけではない。


 朝陽は口元をわずかに上げた。


「Yeah. When you get better.」

(うん。あんたがもっと上手くなったらね)


 ノアが一瞬だけ固まり、それから大げさに顔をしかめる。


「That’s cold.」

(冷たいな)


「That’s encouragement.」

(励ましてるの)


「That is not encouragement.」

(それは励ましじゃない)


「It is where I’m from.」

(私の地元ではそうなの)


「Your hometown sounds terrifying.」

(君の地元、怖すぎるだろ)


 朝陽は吹き出した。ノアも笑う。


 それから彼は少しだけ真面目な顔になり、右手を差し出した。


「Fine. Then I’ll get better. Promise?」

(分かったよ。じゃあもっと上手くなる。約束な?)


 朝陽はその手を見つめた。


 ただの冗談みたいに始まったのに、その瞬間だけ空気が変わった気がした。夕焼けの色も、遠くの街のざわめきも、すべてが少し静かになる。


 この約束が将来どうなるのかなんて、まだ分からない。

 けれど今は、たしかに大事なもののように思えた。


 朝陽はゆっくりとその手を握った。


「…Promise.」

(……約束)


 握った手は、思っていたより少しだけあたたかかった。


 帰り道、朝陽はいつもよりゆっくり歩いた。街は変わらず騒がしかった。タクシーのクラクション、歩道の人波、角のデリから漏れるラジオの音。けれどそのどれもが、少しだけ違って見えた。


 ニューヨークの面白さ。

 ニューヨークの美しさ。

 ニューヨークの楽しさ。


 それらはきっと、有名な景色や映画みたいな場面の中だけにあるわけじゃない。こんなふうに、夕焼けの中で誰かの音を聞く瞬間にも宿っている。


 そして、その街の中に、自分も少しずつ足を置き始めている。


 玄関を開けると、シャム猫のつばめが真っ先に気づいて、小さく鳴いた。キッチンからは夕食の匂いが流れてきて、リビングでは北斗が何かを大げさに再現していて、そのたびに梓が笑っていた。


「ただいま」


 朝陽が声をかけると、さくらが振り向いた。


「おかえり。今日は少し遅かったわね」


「うん。ちょっとだけ」


「学校で何かあった?」


 朝陽はリュックを下ろし、少しだけ考えてから答えた。


「……ちょっと、いいこと」


 さくらはそれ以上聞かなかった。ただ「そう」と穏やかに笑って、鍋の火を弱めた。


 食卓には、いつものように一平が座り、梓が今日の宿題の話をし、北斗が陸上クラブのタイムを誇らしげに報告する。つばめは椅子の間を気まぐれに歩き回り、家の中にはいつもの温かい音が満ちている。


 その夜、食後に一平が何気なくテレビをつけると、ニュース番組のキャスターが少し固い声で海外情勢を伝えていた。中東の映像、空港の警備、専門家のコメント。内容は断片的で、夕食後の家庭にはどこか遠い話のように聞こえる。


「Security agencies continue monitoring possible threats abroad…」

(治安当局は海外における潜在的脅威の監視を続けています……)


「Tighter airport procedures are being discussed in several sectors…」

(複数の分野で空港手続きの厳格化が検討されています……)


 一平はリモコンを持ったまま画面を見つめ、ほんのわずかに眉を寄せた。


「なんか、最近こういう話多いな」


 さくらが静かに食器を重ねる。


「そうね」


 朝陽も何気なくテレビに目を向けるが、深くは考えなかった。夕焼けの中で聞いたトランペットの音の方が、今はずっと現実味があったからだ。


 ニュースの画面は次の話題へ移る。株価。天気。交通情報。いつもの流れの中に、その不穏さは埋もれていく。


 窓の外には、夜のニューヨークが広がっていた。

 無数の灯り。

 行き交う車。

 遠くの高層ビル。

 そのもっと向こうの空には、見えない飛行機がいくつも航路をなぞっていた。


 誰もまだ知らない。

 この穏やかな夜の上を、何気ない日常の上を、静かに近づいているものがあることを。


 朝陽は寝る前、窓辺に立って外を見た。ガラスに映る自分の顔は、少しだけ違って見えた。ニューヨークで暮らし始めた頃よりも、この街の光の中に自然に馴染んでいる。


 そして胸の奥には、ひとつの小さな約束が残っている。


 今度、俺の演奏を聴きに来てくれないか。

 あんたがもっと上手くなったらね。

 約束。


 その言葉は、夕焼けの色と一緒に、静かに胸の底へ沈んでいた。


 外ではサイレンがひとつ鳴り、やがて遠ざかっていく。

 夜はいつも通り、更けていく。

 けれどその静けさの底に、ごくかすかな、説明のつかない緊張が混じっているように思えた。


 それは、まだ誰の言葉にもならない。

 ただ、見えないどこかで、何かが少しずつ形を持ち始めている。


 朝陽はカーテンを閉めた。


 部屋の中には、家族の気配がある。

 温かな食卓の記憶がある。

 そして、夕焼けの中で交わした約束がある。


 そのすぐ外で、世界は静かに動いていた。

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