忘れられない日々
『あの日、空が裂けた ― 365日の記憶 ―』
第46話
忘れられない日々
忘れたい日ではなかった。
忘れられる日でもなかった。
九月十一日。
あの日の朝の空。
爆音。
煙。
病院の廊下。
手術室のランプ。
一平の変わり果てた姿。
それは、秋田家の中にずっと残っている。
けれど、同じくらい大切にしたいものも増えていた。
ノア。
マーカス。
ジェシカ。
ローラ。
トーマス。
ジェニー。
そして、この地で出会った人たち。
事件は奪った。
だが、その後に人と人がつながったことまで、奪わせたくなかった。
だから、さくらたちは小さな交流を続けていた。
学校の一室を借りて、食事会をする。
公園で軽いスポーツをする。
それぞれの家庭の料理を持ち寄る。
宗教や文化の違いを、いきなり議論にするのではなく、まずは同じテーブルにつく。
そこには、イスラム教徒の家族も招かれていた。
彼らの中にも、事件のあと深く傷ついた人たちがいた。
悪いことをしたわけではない。
だが、視線が変わった。
言葉が刺さるようになった。
学校でからかわれる子もいた。
街で心ない言葉を投げつけられる親もいた。
ある母親は言った。
「外に出る時、娘が私の手を強く握るようになりました」
その言葉に、さくらは胸が痛んだ。
被害に遭った家族の痛み。
そして、何もしていないのに責められる家族の痛み。
同じではない。
同じと言ってはいけない。
でも、どちらも人を壊す痛みだった。
ある日、学校の体育館で交流会が開かれた。
バスケットボール。
簡単なリレー。
持ち寄りの料理。
日本の巻き寿司、アメリカのサンドイッチ、中東の豆料理や焼き菓子。
最初、イスラム教徒の子どもたちは緊張していた。
笑っていいのか分からない顔。
楽しむことに罪悪感を抱えているような顔。
周囲の反応を気にして、声を抑える子もいた。
その中に、サミラという女の子がいた。
黒い髪を肩まで伸ばし、目の大きな、少し内気な子だった。
彼女はジェシカと北斗が大阪弁まじりで言い合いをしているのを、少し離れた場所から見ていた。
「なんでやねん、北斗!」
「ジェシカ、それは使い方完璧すぎるやろ!」
「知らんけど!」
周りの子どもたちが笑う。
サミラも、一瞬だけ笑いそうになった。
けれど、すぐに口元を押さえた。
ジェシカはそれに気づいた。
「Hey. You okay?」
(ねえ、大丈夫?)
サミラは少し戸惑いながら言った。
「Can I… laugh?」
(私……笑ってもいいの?)
その声は、小さかった。
体育館の喧騒の中で、ジェシカだけに届くくらいの声だった。
ジェシカは一瞬、きょとんとした。
そして、いつもの調子で胸を張った。
「ええねん。人生、笑わなもったいないやろ」
サミラは固まった。
「……What?」
(……何?)
北斗が横で吹き出した。
「ジェシカ! 大阪弁じゃ通じないって!」
ジェシカも「あっ」と顔を赤くした。
「Sorry! I mean—yes. You can laugh. You should laugh. Life is too short not to.」
(ごめん! つまり、うん。笑っていいよ。笑った方がいい。笑わないには人生は短すぎるから)
サミラは目を瞬いた。
北斗がさらに補足する。
「ジェシカの日本語、たまに説明が必要なんだよ」
ジェシカがすかさず言う。
「なんでやねん」
今度はサミラが笑った。
最初は小さく。
次に、こらえきれないように。
そして、周りの子どもたちもつられて笑った。
大人たちも、その様子を見ていた。
サミラの母親は、少し離れた場所で目を潤ませていた。
娘が、事件以来初めて人前で声を出して笑ったからだった。
さくらはその隣に立ち、静かに言った。
「笑っていいんです」
サミラの母親は、涙を拭いながら頷いた。
「その言葉を、ずっと聞きたかったのかもしれません」
体育館の中では、ジェシカがサミラに大阪弁を教え始めていた。
「Say, ‘nande yanen.’」
(“なんでやねん”って言ってみて)
「Nande… yanen?」
「Perfect!」
(完璧!)
北斗が笑う。
「また増えた」
ジェシカは得意げに言った。
「国際大阪弁連盟や」
「何その団体」
「知らんけど」
また笑いが起きる。
その笑いは、事件を忘れるためのものではなかった。
痛みを軽く扱うためのものでもなかった。
笑ってもいい。
生きていていい。
楽しんでもいい。
誰かの罪を、関係のない人が背負い続けなくていい。
そのことを、みんなが少しずつ確かめるための笑いだった。
後に、サミラとその家族はこの日のことを何度も語ることになる。
「娘が、初めて笑っていいと思えた日でした」
「ジェシカが最初に何語で話したのか、今でも分かりません」
「でも、あの時の笑い声だけは、忘れられません」
秋田家にとっても、その日は忘れられない日になった。
あの日の記憶は消えない。
消えるはずがない。
だが、忘れられない日々の中に、悲劇だけを置かなくてもいい。
そこには、つながりも置ける。
笑いも置ける。
誰かの小さな勇気も置ける。
一平はその話を病室で聞き、静かに笑った。
「……ジェシカらしいな」
北斗が得意げに言う。
「大阪弁、世界進出やで」
一平は痛みに気をつけながら、少しだけ肩を震わせた。
「……ほんま、えらいことになっとるな」
さくらは、その笑いを見て思った。
生きている。
傷つきながらでも。
怖がりながらでも。
笑っていいのか迷いながらでも。
それでも人は、少しずつ生きていく。
忘れられない日々の中で、忘れたくない笑顔もまた、生まれていく。




