第7章
先輩は輪廻転生を信じますか?
キリスト教にはない。
里見先輩はそっけなくそう答えると、わたしのパジャマの中に手を入れた。
「こら――」
乳房を探る彼の手を軽く押さえてわたしは続けた。
そんなことは知ってます。真面目に答えてください。
僕らにとって、死からの復活は重要なテーマだからね。キリストの神性の証でもある。まあ、確かに原始キリスト教には生まれ変わりの思想はあったよ。でも、それは現在では認められていないことくらい真弓だって知ってるだろ?
うん。
だから、ノーコメント。
そんなのずるいです。宗教という思想体系が科学の発展をどれほど阻害してきたか、先輩は問題視してたじゃないですか。
今夜、僕の部屋に泊まりに来たのは、そういうことを話すためなの?
そういうわけじゃないですけど、図書館で本を読んでたら興味が出てきて。――先輩はどう考えてるのかなって。
しようがないなあ。真弓が求めているのは、宗教思想から見た輪廻かい? それとも、科学的実証主義に基づくもの?
先輩がどう考えているのか知りたいんです。だから、先輩が思うように論じてください。
わかった。じゃあ、仏教徒としての真弓さんは幽霊とか信じてるのかな?
え・・・うーん。笑ったりしませんか?
もちろん。
それじゃ、信じてます。子供っぽいようでやだけど・・・。
真弓はいい子だね。
ほら、馬鹿にする。約束が違います。
違うよ、本当に評価したんだ。幽霊を信じているということは正常な民俗学的教育を受けてきた人である証拠だ。それに肩肘張って信じていない振りをするよりは、そうやって認める方が素直でよろしい。
じゃ、先輩も信じてるんですか?
いいや。
もう、やっぱり馬鹿にしてるんですね。
違うってば。民俗学的には間違いなく存在している。だけど、それを除けば、現実世界に幽霊なんてものはいない。でも、この場はとりあえず存在するということにして話を進めた方が都合がいいんだ。本題は輪廻の話だろ?
うん。
じゃあ、しばらく話に付き合いなさい。すべての魂が輪廻転生をするという仏教の立場では、幽霊を認めることは大きな矛盾となる。そこで、質問。真弓さんはこの矛盾を避けるためにどう考える?
うーん。一般的には成仏できない霊魂があるからですよね。この世に未練を残している・・・例えば、恨みごととか。わたしもそう思ってますけど。
そうだね。古来からその考え方は、怨霊大国の国民である日本人に代々受け継がれてきた。
他の国にはないんですか?
アジア圏にはあるよ。魂魄結兮天泬泬。
え? 何ですか、それ。
唐の詩人、李華が詠んだ『弔古戦場文』の中の一節だよ。人が死ぬと魂は天に、魄は地に還るものなのに、非業の死のために結ばれてほどけない。と、まあ、そういう意味かな。これも日本的に言えば成仏できないってことだろ。
何となくピンときません。・・・その、結んでほどけないってあたり。
あれ? 真弓は「魂魄」っていう言葉は知らない?
それくらい、知ってます。「たましい」のことでしょう・・・違うんですか?
まあ、確かにそうだけど、「魂」も「魄」も一文字で「たましい」の意味を持つよ。それを了解した上で、なお、両者の意味の違いがわかる?
わかりません。何か重要なんですか?
僕の持説の上ではね、一応了解事項なんだけど。
不勉強でごめんなさい。教えて、先輩。
辞書にも載ってんだけどな。まず、漢字の成り立ちからいこう。「魂」は「云」に「鬼」って書くよね。「鬼」は日本人がよくいう化け物のことじゃなくて、漢字の発祥の地、中国での本来の意味は「死者」のことだ。日本でも『鬼籍に入る』とか言うだろ? 「云」は「雲」を表す象形文字だ。雲がわきたつ様子を表しているらしいね。すなわち「魂」とは、純粋に霊的なもので、天に属するたましいのことを指す。と、まあ、ここまではいいかい?
はい。
次に「魄」は「白」に「鬼」と書く。「鬼」はさっきと同じ意味だ。そして「白」は、髑髏のことを指している。これはすなわち「魄」は肉体、要は地に属するたましいのことを言うんだ。
その「白」が骨を表すっていうのは、こじつけっぽくないですか?
あのね。真弓はもともとの意味を取り違えているよ。「骨が白い色をしている」じゃなくて、「骨の色のことを白という」んだ。「白」という漢字はもともと頭蓋骨をかたどった象形文字なんだよ。
・・・知りませんでした。
じゃあ、「魂」と「魄」の意味は以上でいいね。すなわち「たましい」を「魂魄」と書くと、天に属する部分と地に属する部分の二つの性質を見事に表現できるわけだ。確か僕の持っている辞書には、「魂は人が天から受ける陽のたましい、魄は地から受ける陰のたましい」と書いてあったと思う。五経のひとつ、『礼記』には「魂氣は天に帰し、形魄は地に帰す」とある。昔は人が死ぬと魂と魄に分かれ、魂は天上にのぼり、魄は地上にとどまるとされたんだ。こう考えた場合、俗にいう幽霊は輪廻転生と矛盾しないよね。
そっか。幽霊は死後のたましいの中の「魄」の部分であるということですね。
そういう考え方もできるっていうだけさ。僕は基本的に幽霊は信じないって、さっき言ったろ。
でも、現実に・・・っていうか、わたしの場合は伝聞ですけど、怪談話ってよくあるじゃないですか。それを鵜呑みにするわけじゃないけど、伝説や民話には一片の真実が隠されているというのは、里見先輩の持論でしょ?
うん。その隠された真実っていうのが、民俗学的なものなんだよ。最初に、民俗学的には幽霊は存在するって言ったろ。日本のように怨霊がここまで国政を動かした国家は世界に類を見ない。でも当時の為政者は怨霊そのものよりも、怨霊となる生前の人物に忠誠を誓った生き残りの人間たちの動向を恐れていたんだと思うね。その方が現実的で、スマートだろ。科学的には遅れていても、昔の人を物事を知らない愚か者だと思っちゃいけない。日本には主人に絶対の忠誠を誓った武士集団がいたからね。主人を討った後、その勢力の残党をどうするかで考え出された方法じゃないのかな。逃亡を重ねて地方に散った彼らを探し出して討伐するよりは、怨霊と化した主人の霊魂を鎮めるための神社を建てて彼らを宥めた方が得策と判断したんだろうと思うよ。最初にこの方法を考えた人は頭がいいね。でも時代が経つにつれて、それは慣例化され、本来の目的よりも本当に怨霊を鎮めることが一般化していったんだ。その傾向に拍車をかけたのが、お上の事情を知らない一般の庶民だろう。お偉いさんがああまでして怨霊を鎮めるのは、実際に恐ろしいことがあったのだろうと邪推してね。そんな風評に尾ひれが付き、やがては浄瑠璃なんかで怪談をやるようになった。つまり、文化の一形態になったんだ。その文化は、時とともに日本人の心に深く根付いていった。民俗学的に幽霊がいると言ったのはそういうことさ。
でも、実際に被害にあった人だとか、御祓いが効いたっていうのは、どう解釈するんですか? それも本当はただの噂で、里見先輩の言う民俗学的真実ってやつですか?
八割方、そうだと思うよ。残りの二割は人の心の中の問題だ。民俗学じゃなくて、精神医学の扱う分野だね。「病は気から」って言うだろ。現代風に言うなら、偽薬効果だ。呪いや御祓いが時として効果を現すのはそのせいだよ。でまかせじゃなく、実際に幽霊を見た人がいたとしても、それも心の作用だ。日本人特有の伝統気質の中に眠る幽霊を何かの拍子で脳が現実世界に作り出してしまうんだろう。
脳が・・・作り出すんですか?
そうだよ。真弓が今見ている世界の姿が、本来の姿と全く同一であるという保証はない。真弓は自分の目を通して送られてきた信号を、脳の中で世界の姿として再構成しているんだから。その再構成の作業の中で何らかの誤差が生じても不思議じゃないだろ? 脳は現在見ている像に対して、保有するデータの中から照合、類推して、無理矢理にでも何らかの意味づけを行わなきゃいけない。そこに誤差が生じるのさ。例を挙げれば、隠し絵なんかがそうだ。最初は絵の中に何が隠れているのか、なかなかわからなかったのに、いったん解答を知ってしまうと次からはそれが簡単に見えるようになるだろう。それは脳がそのディフォルメされた画像情報と今まで蓄積された過去の情報とのリンクに成功したから、これまでになく良く見えるようになったんだ。それと同じ。光線の加減なんかで柳の枝が幽霊に見えたりするのは、現在見ている像にはっきりとした意味づけを行えないから起こる現象なんだろうと思うよ。つまり、幽霊を信じている人の脳は、その像が過去のデータとうまく照合できずに、仕方なく柳の枝が作る複雑な陰影に幽霊という意味づけをしてその人に見せてしまったと。・・・言ってること、わかるかい?
うーん。そういうふうに言われれば、納得できるような気もするけど・・・。
何だか騙されているみたい、かい? まあ、無論、これは単なる仮説だけどね。でも、そういう考え方のほうがすっきりすると思わない?
そう言って、里見先輩は台所に立った。
「真弓も飲むだろ? ウイスキー」
「え、あ・・・うん」
生返事を返しながら、わたしは里見先輩の言葉を反芻していた。
わたしの脳の中に棲まう幽霊。
それが存在し得る条件は、わたしの中の神様のケースとほぼ同一だ。
『我思う、ゆえに神あり』
以前、里見先輩が冗談めかして言ったその言葉が、今はすごくリアルに感じられた。
自分の肉体や精神に限って言うなら、聖痕や超意識体験などの奇蹟も、内に棲まう神のイメージが為す偽薬効果なのだろうか。
いや、それだけではない。
里見先輩が指し示してくれた考えは、個人レベルにおいて世界そのものが相違しているということを指している。世界という巨大な原型にアクセスする、参照データも思考ルーチンも処理能力も異なる個性的な端末――それがわたしたちの脳なのだと。
彼は幽霊の存在は否定したけれど、まがい物だとは言っていない。ある人にとっては幽霊は現実の存在であり、ある人にとっては違うと言っているだけだ。
それはすなわち、真実も世界も、認識し思考する存在の数だけあるということに他ならない。
そこまで考えて、わたしは少し淋しくなった。
どんなに言葉を尽くして話し合っても、どんなに肉体の隙間を埋め合っても、わたしと先輩が本当に理解し合うことはないかも知れないと思ったからだ。
住んでいる世界が重ならないのだから。
でも、だからこそ人は幸福になれるのかも知れないとも思う。
それぞれの脳の中で作り出す仮想現実に住んでいても、知識や感情を抽象的な「言葉」という媒体で交換しているから、人はそれぞれの世界から足を踏み出すことなく、人生を生きていられるのかも知れない。
単一の概念であるはずの宗教が多くの人間に支持されるのも、それが原因だろう。
人がその宗教的真実を自分の仮想現実の中に、微妙に、そして好意的に変化、解釈して取り入れているからこそ、多くの人間を幸福にする力を宗教は維持できるのだ。壇上の教祖が熱っぽく語る、癒しや救済という教義の意味が、彼の想う形のまま信者の仮想現実の中で再構成されることはないのだから。
台所から戻ってくる先輩の足音で、わたしは思考の淵から上がった。
「補足になるけど――」
里見先輩は琥珀色の液体の入ったグラスをわたしに差し出すと、コンビニの袋からスナック菓子を取り出しながら続けた。「それでいくと、よく子供の方が霊を見ることができるなんていう新興宗教なんかの言い分もうまく説明できる。彼らが主張するようにまだ汚れていない魂を子供が持っているからなんじゃなくて、経験上、子供たちは脳の中に蓄積されているデータが少ないからだってね。・・・どうだい? やっぱり、スマートだろ?」
「え・・・う、うん」
「どうした? あ、さては、お前、また何かややこしいこと考えてたろ?」
「人を疑う練習をしてたんです。今の場合は、里見先輩の言葉とこのお酒の意味」
彼の指摘が図星だったので、わたしはむっとして言い返した。
「さっさと酔わせてうやむやにする気かしらって」
「こいつ」
里見先輩は笑いながらわたしの頭をこづくと、グラスに口をつけて話を促した。
先輩の言う「幽霊は脳の所産物」であるっていう仮説は確かに幽霊の存在を否定して、かつ、いろんな現象をうまく説明してると思います。幽霊を見た人たちの描写が共通しているのも、幽霊の原型っていうのが、すでに日本人の脳の中にあるからっていうので矛盾はないし・・・。あ、そうだ、先輩、じゃあ、ユングの原型論じゃないけど、そういう日本人の抱いている幽霊の原型モデルを作った人は誰なんですか? やっぱり、四谷怪談の鶴屋南北?
いいや、時代的にはもうちょっと古い。真弓が連想する幽霊像ってのは、腕をこう曲げてる足のない幽霊だろう? 足のない幽霊が一般化したのは、享保の頃の画家で円山応挙なんかが活躍した時期だ。お約束の形に手を曲げてるのだって、十返舎一九の『仇討夜居鷹』にあるから、もうその頃には確立されてる。まあ、現代人が思っている幽霊のおどろおどろしいイメージを定着させたのは、真弓の言うとおり鶴屋南北の出世作、『東海道四谷怪談』だといっても間違いじゃないとは思うけど・・・。
ふうん。
でもね、余談になるけど、それ以前については、幽霊にも立派な足があったんだ。享保期以前の『発心集』や『男色大鑑』、『拾遺お伽婢子』などにはほとんどの場合、幽霊は「シ」の字とか「卍」が書かれた白い紙の額帽子に白衣の姿で描写されている。つまり、棺に納められた死人の姿のままだ。日本最古の幽霊画とされてる『北野天神縁起』には、菅原道真公の幽霊が描かれているけど、生前と全く変わらない立派な束帯姿だよ。もちろん、足だってある。順序が逆になったけど、そんなふうに時代ともに幽霊の姿は生者から遠ざかり、より恐ろしくなっていってるだろ。これは要するに造型とか表現方法における人間の進歩の結果だ。つまり、人間の豊かな想像力が、幽霊を恐ろしくしていったんだよ。ジェットコースターやバンジージャンプがより過激になっていくのと同じだね。ちなみに、真弓はああいうの好きだろ?
うん。バンジーはやったことないけど、ジェットコースターは好き。
やっぱり。僕には理解できないなあ。まあ、ともあれ、止よせばいいのに、より恐ろしいものを求めて、新たに創造したその対象に恐怖する。人間っていうのは、不思議な動物だね。
そういう言い方されると、少し悲しい。今度の合宿が山梨に決まったら、帰りに富士急ハイランドで一緒に遊ぼうと思ってたのに。里見先輩、全然理解できませんか?
個人的にはね。だけど、人工的な恐怖っていうか、そうだな、安全が保証されてる恐怖を求める人間の心理はわかるよ。特に日本で暮らしていると、普段の生活の中で死の恐怖なんか感じられなくなってるからね。アドレナリンを放出する機会が少ない。だから、怖いものを求めるんだろうとは思う。アドレナリンの放出による高揚感は一種の快感だから。それに「死」を意識することで、初めて「生」を意識できるということもあるんじゃないかな? 恐怖を感じることで、自分が生きていることを実感したいって心理だね。だけどさ、ジェットコースターなんかに頼ってそれを求めるのは、現代人の想像力が貧困なせいだと思わない?
どうせ、貧困です。もう、完全に赤貧状態。これで満足ですか?
いや、真弓のことをだね――。
貧困だと言ってるんですよね。
わかった。しょうがないなあ。一緒に乗るよ。今度の合宿まで待たなくたって構わない。冬はそれじゃなくても風が冷たいのに、秒速何十メートル、体感気温マイナス何十度の世界を経験したくない。
秒速何十メートルもないと思うけど・・・。
揚げ足を取らないの。言葉の綾だよ。秒速一桁だったら迫力ないじゃないか。分速に直すといまいちピンと来ないし。
里見先輩って典型的な文系ですよね。
違いない。それでどうなんだよ? 行くの? 行かないの?
行きます。来週の連休でいいですか?
いいですよ。――ったく、とんだ藪蛇だった。さて、幽霊の話に戻ろうか。そういった、恐怖の対象を追求する人間の性向が、幽霊のイメージをより恐ろしくしたわけだね。本当に人間というのは不思議な動物だ。ついでに言えば、当時すでに定型となってしまった足のない幽霊とは逆の造型を試みた芸術家もいるよ。江戸後期の小説家、山東京伝がそうだ。彼の『妬湯仇討話』には、大江判官の妾媾火の怨霊に二本足だけで顔も胴体もない幽霊が書かれている。どう? なかなか奇抜な着想だと思わない?
そうかしら? あんまり怖くなさそうだけど。
真弓は手厳しいなあ。
先生に似たんです。・・・じゃあ、話を戻しますけど、仏教では霊はどんなふうに解釈しているんですか? お墓とか永代供養だとか、ありますよね。ああいうのって、御先祖様の霊を認めていることが、前提条件でしょう?
うん。そこが日本仏教の抱える問題点なんだよね。もちろん、仏教だけが悪い訳じゃないんだけど、今、真弓が指摘したような仏教が掲げる宗教的真実に矛盾する社会習慣を容認したのは、やはり責任があるのかなあ。歴史的に見て、仏教にはキリスト教のように宗派同士の闘争もなかっただろう? まあ、中には真言密教立川流に対する弾圧のように例外もあるけど、あれは仏教の本流から見てあまりにも異端だったからだし・・・。
立川流なら聞いたことがあります。髑髏の前で、その・・・エッチなことする日本の黒魔術みたいなものでしょう?
ったく、お前はどこでそんなつまらない知識を仕入れるかなあ?
・・・少女マンガ。
どうして女の子の読むマンガにはオカルト系が多いんだろう。・・・あのねえ、立川流に限らず、宗教や思想と名がつくものには、必ず大多数の人間が納得できる真実が含まれているんだ。じゃなければ、一個人の考えが「思想」と呼ばれるまで広まるわけがないだろう? これはこれから真弓がいろんな思想を吸収していく上で、忘れちゃいけない大切なことだから話すんだよ。立川流に関して言えば、僕もさっき異端と評したけど、それは当時大勢を占めていた日本仏教から見たときにその姿が表面的に全く異質なものに見えるから、そう言っただけだ。確かに真言密教立川流は上っ面を見れば、真弓が読んだマンガと同じだよ。本尊とする髑髏の前で男女相和合し・・・っていうくだりはね。詳しく話すと夜が明けるから、簡単に説明しとこうか。それとも、もういい?
・・・う。一応、伺います。
あはは、そんなに恐縮することはないよ。立川流は平安時代後期に仁寛が興した真言密教の一派でね、名前の由来は、武蔵国立川の陰陽師がそれを修めて広めたことによる。流祖の仁寛は、後に謀反と女犯で流罪になるけど、鎌倉時代の終わりになって後醍醐天皇の信任を受けた真言僧、文観房弘真によって大成され爆発的に流行する。その後はさっき話したとおり、淫祠邪教として迫害され衰えていくんだけど・・・歴史的な説明はこれくらいでいいかな?
うん。
で、その実態だ。髑髏を礼拝の対象とする宗教は、僕らには奇異に感じられるけど、土俗的な民俗信仰を入れれば、世界中にごまんとある。『日本霊異記』なんかにも喋る髑髏の話とかあるだろう。人間の髑髏というのは、古来からそれだけ神秘的なイメージを持っているもので、それが礼拝の対象に祀り上げられても別に不思議なことじゃない。その点だけを挙げて立川流を邪教と考えるのは、思想的に貧しい僕らの側に問題があると言えるよね。それから、よく槍玉に挙げられる黒ミサまがいの性交儀式だけれど、立川流の即身成仏の秘術は男女の性的な結合にあることは確かだ。ただそれにはものすごく長い時間がかかる。大体、七、八年くらいかな。・・・ああ、別に想像しなくていいよ。
してませんっ。
でもさ、それってすごい労力がかかると思わない?
馬鹿っ。
真面目に話してあげてるのに、馬鹿はないだろ。
真面目なんですか?
もちろん。儀式そのものに多大な労力と長い時間がかかるっていうのが味噌なんだよ。このパターンは、いろんな宗教にあるけれど、特に立川流の母胎である仏教の十八番だ。例えば、禅でいう公案がそうだよ。有名な公案に「趙州狗子」があるだろ?
えっと、犬に仏性はあるかないか、でしょ?
そう。この公案は『従容録』や『道樹録』なんかにもあるけど、一番短いやつが『無門関』にこう出てる。「趙州和尚、因に僧に問う、狗子に還って仏性有りや也無しや。州云く、無」とね。実際の参禅の場では、この公案を出して趙州の答えた「無」を持ってこいって、参禅者に言うわけだ。わかる?
その「無」ですか?
いいや、僕の言ってることだよ。
それだったら、わかります。
OK。さて、ここでこの禅問答の目的は何でしょう?
あ、そっか。「無」を持っていくことより、その「無」を探す過程で、悟りを得るのが目的です。
合格。まさしく、その「過程」が大切なんだ。立川流の秘儀も同じだよ。立川流においては乱交パーティーのようにセックスの相手をとっかえひっかえはしない。初めから最後までずっと同じパートナーで行うんだ。儀式だとか宗教色をなくせば、まさしく夫婦だ。そして、髑髏を拝し、性交を重ねていく「過程」の中で、ある真理を悟らせる。即身成仏を遂げるというのは、まさにそのことだ。詳しく説明しなくちゃ分かりにくいかも知れないけれど、その時にはもう本尊である髑髏も何も要らなくなる。立川流にとって、本尊である髑髏はまさに悟りに至る「過程」を演出する道具に過ぎないともいえる。・・・そうだな、こう考えると、真弓はある意味で立川流に共感するかも知れないね。立川流は、男だけでも女だけでも即身成仏は得られない。文化的にも宗教的にも男尊女卑の時代にあって、男女平等の原理を内包した数少ない宗教のひとつであると。
・・・うん。ごめんなさい。
誰に謝ってるの?
その開祖の人。えっと・・・仁丹さんでしたっけ?
仁寛。
固有名詞覚えるの苦手なんです。
そうだな、今度資料見せてやるよ。そしたら、何故、本尊が髑髏なのか、何故儀式に時間がかかるのか、今日話さなかった詳しい理由がわかる。固有名詞もね。・・・ええっと、本題はどこまでいったっけ?
んと、仏教は各宗派同士であんまり揉めなかったってとこです。
そうだった。そこでつまんない例を出したから、話が長くなったんだよな。まあ、とにかくだ。そういう宗教的に怠惰とも呼べる仏教変遷の歴史の中で、宗教社会内部による淘汰を受けないまま、様々な教義解釈が蔓延してしまった。今日、聡明で敬虔な信者である真弓さんまでもが霊の存在がどうのこうの言ったり、変な誤解をしてるのは、それが一番大きな要因だろう。他宗を攻撃したのは、日蓮さんくらいのもんだ。この例外はいいよね?
知ってます。それから、わたしに対する形容詞は余計です。
それは失礼。
もう。でも・・・先輩が言いたいのは、もしかして仏教に対するわたしの見解が違ってるってことですか?
そうだ。真弓はもう気がついたみたいだから、最初に解答を言うけど、仏教を含めた世界三大宗教のすべてが霊の存在は認めてないんだ。つまり、幽霊だの祟りだの、そういうことを持ち出す宗教は本来その中にないはずなんだよ。仏教にだけ関して言えば、お墓も戒名も同じだ。仏典の中にそれを支持する記述は一切ない。現代仏教にそうした矛盾が蔓延したのは、前に話した日本仏教の気質と日本人特有の民俗学的心霊観や身分差別に根ざした世間体とか、見栄とか・・・原因を挙げればきりがないよ。過去に融合していた儒教や神道の影響もあるだろうし、そうだな、寺請制が廃止されたことによって、従来、お寺を養ってきた壇家が日常的にお寺に寄進や寄付をしなくなったことも大きな要因だろう。経済基盤の瓦解だね。日本人の精神性の崩壊と言ってもいい。まあ、そういったことが、一層、宗教としての仏教をいわゆる葬式仏教に変化させていったんだ。
戒名もお墓も違うんですか?
そうだよ。『涅槃経』の中で、釈尊は死後自分の骨を各地に埋めることを指示したけど――いわゆる舎利塔だね、でもこれは輪廻の鎖を断ち切って解脱した自分だから許されることであって、一般の信者が同様の行為をすることは堅く戒めているよ。戒名だって、仏典の中に死んだら名前を変えるような記述はない。大体、戒名なんてものは、死者の名前じゃなくて、仏教に帰依した者の名前だ。いわゆる出家名だね。僕らの場合で言えば、洗礼名に当たる。確かに、最近じゃお寺に頼めば生前授戒をしてくれるところもあるけど、ほとんどの場合は死んでから高い戒名料を払ってつけてもらうよね。これは僕らキリスト者から見ると不思議な慣習だよ。会員ナンバーをもらうために入会料を支払うようなものだ。第一、戒名に格があるのも不思議だね。○○院の下に一文字「殿」とつけるだけで格が上がったり、戒名の値段も数倍から数十倍になる。僕らの持ってる洗礼名には「マリア」の方が「ヴェルナデッタ」より格が上なんて区別はないだろ? それに差別戒名なんて問題もあるしね。
差別戒名ってどんなのですか?
戒名の中に動物に関する文字を入れるんだ。「畜男」とか「禅革門」とかね。そうやって、死んでからも差別する。
信じられない・・・。それ、お寺の和尚さんがつけるんですか?
まあね。だけど、そうした慣習の全部が全部、仏教だけの責任じゃない。そういうことを求める人たちがいるからあるわけだし・・・そうだな、真弓には少し刺激が強すぎたかな? もちろん、今では仏教の内部から過去のそうした歴史を清算しようとする動きが出てきてる。だから、さっきの話は忘れていいよ。蛇足だった。
でも、何か嫌な感じ。
それはそうだね。だけど、今の仏教は概ね健全だ。それにさっきも言ったように地域の住民と結びついてこその宗教だろう? だから、宗教の側だけを責めるのは間違いなんだよ。話が長くなっちゃったけど、こうしたお墓だとか戒名とかを仏教が公然と認めてる点が問題なんだ。それらは霊魂の存在をも暗に認めた大きな矛盾となる。すべての魂が生まれ変わってくるのなら、御祓いだとか霊魂をダシに商売をしたり、死後の名前を設けてるなんてのは変だと思わない?
うん・・・。
――と、まあ、そういうこと。
え? それが結論ですか?
そうだよ。
ん? ――もうっ、まわりくどい言い方! 要するに、先輩は輪廻転生を認めているわけですね。
うーん。まあ、確かに、原始キリスト教をはじめ世界のほとんどの宗教が輪廻の思想を提出していたのは刮目すべき事実だ。そして、現在、新世代の科学でも輪廻転生の検証を行い、それを肯定する証拠をいくつも発見しているのに対して、それを否定する反証は乏しい。真弓、僕はずっと以前からこう思ってた。――太古の昔から、人は・・・そう、神秘を知る力を持っているじゃないかって。
人は神秘を知る力を持っている――か。素敵な考え方ですね。うん・・・でも、里見先輩ってば、どうして、素直に信じてるって言えないかなあ?
僕はキリスト者だよ。それに輪廻の思想にはある種の危険性も感じてる。死を見つめて生きることは、人生において大切なことだからね。キリスト教が輪廻の思想を禁じたのは、教会支配の体制を維持するためだけれど、もしかすると、当時の宗教者がまだ一般の信者がその宗教的真実を知るには時期尚早だと考えたのかも知れないとも思うんだ。実際、原始仏教が勢力を持ってる国々とか自殺率がすごく高いって言うしね。
何かうまく誤魔化されたような気もする。
――あのね、はっきり言うけど、真弓の聞き方が悪いんだよ。僕に踏み絵でも踏ませる気かい?
え? あ・・・そっか。ごめんなさい。じゃあ、質問を変えます。
うん。
先輩は輪廻転生の考え方が好きですか?
素敵な思想だと思う。
輪廻転生が現実にあるとして、また、来世もわたしのことを好きになってくれますか?
もちろんさ。
――それが聞きたかったんです。
わたしは里見先輩の胸にもたれかかりながら、ティンクのことを思い出していた。わたしが高校生だったときに無惨な殺され方をした最愛の猫。
彼の魂は今どこにいるのだろう?
もうこの世界に転生してきているのだろうか?
輪廻転生が本当に宇宙の摂理に組み込まれているのならば、わたしのもとに戻ってきて欲しい。
そうすれば、貴方の存在そのものが輪廻の証明になるから。わたしを優しく抱いてくれるこの人と再び来世で見えることの希望になるから。
「ったく、精神的な前戯も楽じゃないよ」
わたしの身体を後ろから優しく羽交い締めにすると、彼は微笑みながらそうぼやいた。
「――ごめんね」
わたしは悪戯っ子のように舌を出して答えた。そして、パジャマのボタンを外してゆく彼の指先を見つめながら、彼の唇をわたしは静かに受け入れた。




