「……謝罪を受け取ります」(終)
その夜の出来事を、私はずっと後になって、アルヴィスから聞いた。
彼は湖の見える店で、いつものように茶を飲みながら、淡々とそれを私に語った。
自分が誰であるかを告げずに席を立ったこと。
夫が、亡き恋人をどれほど愛していたか。
そして、結婚前に腹を割って話し合うべきだったと、彼が夫に告げたこと。
私はしばらく言葉が出なかった。
何と丁寧に、私が、私とて夫に本当に言いたかった本音を伝えてくれたのかと、感嘆したからだ。
この話を聞いて、私の胸の中で長く凍りついていた何かが、ゆっくりと、輪郭を変えていくような心地がした。
「君は、怒ってもいいんだよ」
とアルヴィスは言った。
「ええ。でも……もう、いいの」
と私は答えた。本当にそう思ったから。
私が夫やリーゼに憎悪を向けなかったのは、このアルヴィスとかつて交際していたことも大きい。
長い理不尽に耐えるも折れることなく、物事の理を静かに見つめて、時間をかけて消化し、本質的な解決を求めていく姿。
学生時代は彼のそんな姿や在り方を、一番近い位置からずっと見ていた。
添い遂げることはもう叶わないけれど、彼に恥じぬ人間でいたい。それが私の生き方となっていたから。
その頃から、ジェラルドが少しずつ変わり始めた。
彼はリーゼの母だけを生涯ただ一人愛していた。その想いを、彼は今も否定しない。
けれど同時に、私という妻への不実を結婚という卓に、自分の手札を明かさず伏せたまま着いた卑怯を、ようやく認め始めたようだった。
愛を貫いた誇りと、欺いた咎と。
その相反する二つを抱えて、彼は夜ごと、ひとり項垂れているらしかった。
家の隅で小さくなっていた背中が、今度は別の重さで丸くなっているのをよく見た。
そんな、ある日の夜のことだ。
夕食を終え、私たちは家族のサロンで食後の茶を飲んでいた。こればかりは子爵家のルールなので、家族仲が悪くても特別な理由がない限り毎日の儀式である。
暖炉のそばで、私は刺繍をしていた。
リーゼはといえば、すっかり令嬢らしくなった所作でカップを傾けている。
ジェラルドはいつものように、少し離れた椅子で黙ってお茶を飲んでいた。
その静けさの中で、リーゼがふいに口を開いた。
「お父様」
ジェラルドの肩がびくりと揺れた。この家で、リーゼが彼にまっすぐ話しかけることはめったになかったから。
「わたし、お母様のこと、覚えていないんです。亡くなったのが、幼い頃だったから。……よろしければ、教えていただけませんか。お母様が、どんな方だったか」
私は針を動かす手を止めなかった。けれど、内心では感嘆していた。
この子は、なんという問いを選ぶのだろう。父をなじるでも、許すでもなく。ただ知りたいと、自分の失われた母親との思い出を取り戻したいと、それだけのまっすぐな願いを拒絶できるだろうか?
ジェラルドはすぐには答えられなかった。
カップを置き、何度か口を開きかけては、閉じた。そしてようやく、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「……学生の頃に、出会ったんだ。同じ学び舎にいた。聡明で、よく笑う人だったよ」
彼の声は震えていた。けれど、話し始めたことでもう止まらなかった。
「在学のさなかに、彼女の実家が没落してね。退学して平民になった。それでも……付き合いは続いたんだ。彼女は街のパン屋で働き始めた。朝の暗いうちから、粉だらけになって。わたしはこっそり、わずかばかりの支援をした。彼女は嫌がったよ。施しは受けないと。誇り高い人だった」
暖炉の薪がぱちりと爆ぜた。
つっかえつっかえ、自分の中を確かめながら話しているのが私にも分かった。
「どんなに暮らしが傾いても、ひたむきに、まっすぐに生きていた。その姿が……わたしは、好きだった。身分も、家も関係なく、ただ、あの人だから……好きだったんだ」
ジェラルドの目に光るものがあった。
リーゼは身じろぎもせず、父の言葉のひとつひとつを、宝物のように受け止めていた。
「お母様は……お父様を、愛していらしたのですか」
「ああ」
ジェラルドは迷わず頷いた。
「愛し合っていた。それだけは、本当だ。神に誓って。でなければ、お前は生まれていない」
しばしの沈黙があった。
それから、ジェラルドはゆっくりと、私のほうへ顔を向けた。
でも見たのは刺繍をする私の手元だ。さすがに私の顔や目を、直接は見れなかったと見える。
「エレオノーラ」
名を呼ばれて、私は針を止めた。
「すまなかった」
彼の声は掠れていたけれど、ごまかしのない本音の声だった。
「結婚する前に……わたしは、君に、あの人のことを、何も話さなかった。話すべきだった。隠したまま、君を娶った。それは、あの人への愛とは、別の話だ。君に対する、わたしの……卑怯さだった。今さら、どうにもならんことだが。それでも………………すまなかった」
七年。いや、もう八年近く。
私がただの一度もこの男の口から聞くことのなかった言葉が、暖炉の火に照らされてようやく、私の前に差し出された。
私は正直に言えば、驚いた。
けれど不思議と、嫌な気持ちではなかった。
「……謝罪を受け取ります」
私はそれだけ言った。許す、とは言わなかったし、言えなかった。
けれど、彼の謝罪をはねつけて暖炉に投げ込むこともしなかった。
ただ受け取る。それが今の私にできる、妻としての精一杯の矜持だった。
言いながら、私は自分の胸の内にある、ひとつの秘密のことを思った。
――私が、子を産みにくい身体であること。
リーゼを引き取った裏に、その空白と罪悪感があったこと。それをジェラルドは知らない。
話してしまえば、楽になれたかもしれない。
互いの傷を卓上に並べて。
ふと、リーゼと目が合った。
あの子は私を見て、ほんの小さく、首を横に振った。
――言わなくていい、と。
この聡い子は私の沈黙の意味を、とうに察していたのだ。
私は心の中で苦笑した。
話すべきだったと思う。それでも私は、最後のひとつのカードだけは伏せておくことを自分に許した。
ずるい女だ。けれど、すべてを明かすことだけが誠実とは限らない。
私とて、自分を守るために口を噤むこの沈黙が必要だったのだ。
暖炉の火が穏やかに燃えていた。
その夜、私たちの間に和解はなかった。
劇的な抱擁も、涙の許しもなかった。
ただ、長いこと不協和音を立てていた子爵家の歯車が、ほんの少しだけ、謝罪という油を差されて滑らかに回り始めた。
リーゼが、空になった私のカップに、そっとお茶を注いでくれた。
「お義母様。冷めてしまいますよ」
その声に私は微笑んだ。
窓の外では、月明かりの下で薔薇園が薄ぼんやりと見えていた。
明日は夫も誘って、リーゼと三人で薔薇園を散歩しても良いかもしれない。
おわり




