婿の名前を思い出せない 後編
☆ ☆ ☆
三つ目は、もっと根深いものだった。
婿は自分の父親の腹違いの庶子で、叔父だったアルヴィスを慕っていた。幼い頃から、優しく賢い憧れの叔父としてだ。
けれど彼は、肝心なことをまるで知らなかった。自分の祖母と、母――アルヴィスの兄嫁にあたる人が、庶子である叔父を長年にわたって冷遇していたことを。
だから、アルヴィスが生涯独身を貫ぬくと表明していたことの理由を、婿はこう思い込んでいた。
「あの人は、既婚の義母上に誑かされて、他の縁談から遠ざけられていたのだ」
何度違うと伝えても、婿は聞かなかった。リーゼが実の父の話まで持ち出して説明しても、彼は「義父上も、義母上に誑かされていたのでしょう」と言わんばかりの顔をするばかりだった。
正直に言えば——私にも弁明しづらいところがあった。
夫の庶子であるリーゼを引き取った後、私がアルヴィスとの間柄を選んだのは、誰かに強いられてのことではない。
私自身の、意地と自尊心のためだった。
子を持てなかった焦りと痛み、夫に裏切られた屈辱を、自分の意思で選んだ関係によって、静かに満たし直したかった。
爛れた情事ではなかったけれど、それが完全に清らかで無垢な選択だったかと問われれば——私は、頷ききれない。
その込み入った事情を、婿にわかるように説明する言葉を、私は結局、組み立てる労を取らなかった。
だから婿の目には、私は「自分本位なあばずれ」に映っていたのだろう。
婿はそもそも私の話をまともに取り合う姿勢を見せなかった。婿養子の立場で婚家の義母にこの態度。
それもあり、私は彼の誤解を正す気にもなれなかった。
リーゼ曰く〝正義感の強い〟婿は、ある種の潔癖症なのだ。
このタイプに事情を話したとて、私のかすかな後ろめたさを探り当てて、さらに攻撃の理由にするだろうことは想像に難くない。
子爵家に婿入りしてからも案の定、その気質が元で、年に数回は社交会や取引先と揉めごとを起こしている。
まだ、リーゼがフォローできる範囲ではあったけれど……
ただ、子供たちにも自分の正義や潔癖さを押しつけるところがあって、子供たちは少し抑圧に鬱屈した様子を見せている。
今はまだ母親のリーゼや、経験豊富な使用人たちが上手くフォローしているけど、年頃になったら父親と衝突しそうだとは思っていた。
そして——婿の最後の失態は、いちばん皮肉なものになった。
リーゼが三人目の子を身籠った頃だ。
つわりが重く、彼女はある夜会を欠席した。
婿はひとりで出席し、そこで給仕を務めていた女に声をかけられた。若く愛想のよい女だったそう。
……婿はその誘いを断らなかったのね。
その関係は一度きりでは終わらなかったらしい。
その頃私はもう子爵家を出て神殿に出家していたけれど、リーゼが臨月を迎え、無事に三人目を産み落として、ようやくひと息ついた頃。
その女が子爵家に押しかけて、子ができたと暴露したそうで。
私は、産後の体力が回復するなり神殿を訪れたリーゼからその話を聞いて、呆気に取られてしばらく何も言えなかった。
あれほど、私の不貞まがいの生き方を詰り、あばずれと言わんばかりに蔑んでいた男が。
妻がいちばん守られるべき身重の時期に、まったく同じ轍を踏んだ。
リーゼは迷わなかった。今回はかつて私の祖父公爵が私に離縁を勧め、私自身がそれを打算で退けたあの日とは違う。
今度は彼女自身の意思で迷いなく、夫を切った。神殿にはそこまで済ませた後の報告に来ていたのだ。
「お義母様。私、もう、あの人の手綱を握る気は失せました」
凛とした声だった。かつて孤児院から連れてこられた、あの怯えた小さな女の子はもう、どこにもいなかった。
長い年月の中で、この子は私よりも潔くまっすぐに、自分の道を選べる女に育っていた。
私はただ頷いた。
人は、自分が最も嫌ったものに、いちばん似た姿で堕ちていくものらしい。
それをまさか、婿自身から身をもって教わることになるとは。
「人生って、皮肉よね」
思わず呟くと、三人の子を産んで、初めて会った頃の痩せっぽちが嘘のように貫禄のついたリーゼが、同意するように苦笑した。
「一応、他国のアルヴィス様にも報告のお手紙を出しました。甥子様との縁を活かせず申し訳ありませんって」
「そう。まあ彼も、今さら帰国してまであの元婿に関わることはないだろうけど」
とはいえ、私のその予想は後に反した結果として現れる。
その後、私は神殿でのお勤めが忙しくなって、義娘を苦しめた態度の悪い元婿のことは思い出さなくなっていた。
ところがそこから一年ほど経った頃にアルヴィスの実家の祖母が亡くなり、彼が他国の婿入り先の女侯爵を伴って葬儀に参列したとリーゼから聞いた。
葬儀には元婿もいたそうだが、リーゼと子供たちは挨拶もしなかったそうだ。まったく、ざまあみろね。
リーゼはアルヴィスから預かった手紙を後日、神殿の私まで届けてくれた。
帰国したアルヴィスから面会申請があったようだけど、残念ながら私は地方出張で不在だったので。
「アルヴィス様、元夫に事情を全部話したそうですよ。一晩中、誤解や曲解を許さず、理解するまでこんこんと膝を突き合わせて。もちろんお酒も入れずに、素面できっちりと」
「まあ。そうなの?」
家の恥だから、私は元婿との軋轢はそこまで詳しくアルヴィスに話しも、相談もしてなかったのだけど。
「そりゃそうですよ、お義母様。葬儀に来たら私はあの男と離婚してるし、離婚理由だってあれの不貞ですしね。私、ここぞとばかりにあれのお義母様への態度の悪さ、暴露しちゃいましたわ」
私はその場でアルヴィスからの手紙を開いた。
『君のことだから、私に心配をかけぬよう甥の所業を黙っていたんだろう?
相談くらいして欲しかったけど、君の人を思いやる気持ちが学生時代から変わってなくて、話してもらえなかった悲しい気持ちと、嬉しい気持ちが混ざって言葉に尽くし難い。』
『あの子は父や祖父が外に愛人を作り、祖母や母が長年苦しんでいたのを見ている。
私は早々に家を出たけど、リーゼ君と結婚するまでは随分辛い思いもしたようだ。
もっとも、それで君やリーゼ君への仕打ちが許されるわけではないけど。』
『いい機会だから、妻の許しを得て、一晩かけてあの子の話を聞いたよ。呆れるほど思い込みが強く、骨が折れたが君に対する誤解だけはきっちり解いておいた。
今は君への申し訳なさに罪悪感で打ちひしがれているが、君のいる神殿へ直接謝罪に行くことは止めておいた。
君も、長年不快だった甥とはもう顔を合わせたくないだろう?』
結局、元婿はアルヴィスが引き取って、彼の婿入り先の南方大国で職を斡旋することにしたようだ。
一応アケロニア王国の学園卒業生だから高等教育を受けているし、婿入り先の領地の下っ端役人を任せると書いてある。
「アルヴィス。本当に、あなたって人は」
さすがに神殿入りした今はもう「もし彼と結婚していたら」と考えることはないけれど、ジェラルドと結婚して数年くらいはよく夢想していた。
リーゼが感心したように言う。
「あの方、話はわかるし、物事の道理は弁えてるしで、ある意味理想の男ですよねえ。ちょっと幸が薄いのが玉に瑕ですけど」
「そう、なのよねえ……でも今は女侯爵様の婿様だわ。大切にされてるようだし、良かった」
手紙にはその後の元婿の顛末も書いてあった。
「……彼、浮気相手との間に子供は出来てなかったんですって?」
「あ! そうなんですよ! 相手の女に子供が出来たのは事実だけど、別の男の子だったと判明したそうで。まあ浮気は浮気ですから、元鞘とかありえませんけど!」
と言うってことは、再縁要請はあったみたいね。リーゼのこの様子だと即断ったようだけど。
「子供たちとの文通は許してますけど、私はもうあの男のことはたくさん。清々しました」
「もう吹っ切れたみたいね? あの人……ええと、名前は何だったかしら?」
元婿の名前が思い出せずにいると、リーゼがきょとんと不思議そうな顔になって、笑いだした。
「お義母様ったら、相変わらずなんだから!」
「だって、口煩いのに言うことを聞かないところ、実家で子供の頃飼ってた犬そっくりなんだもの。ついそっちの名前で呼んでしまいそうになるの。困ったわよねえ」
キャンキャンうるさい、困った子だったわ。
結局、よその雌犬に手を出して処分せざるを得なくなったところまで同じだった。
☆ ☆ ☆
というところまで話して、座談会はしんと静まり返った。
「……その、ご実家の飼い犬はどうなされたので?」
今までの比ではないくらい恐る恐る訊かれて、私はにっこり微笑んだ。
「家には置いておけないので、母が自分の実家の領地に送ったんですの。公爵家ですから、番犬や猟犬に大型犬をたくさん飼っておりましてね。小型犬でしたから大きな先輩犬たちに囲まれて、大人しくなったそうですわ」
どれだけキャンキャン甲高く鳴いても、訓練された大型犬たちは相手にもしなかったようだけど。バウって大きく野太い声で叱咤されておしまいだったのね。
「………………」
場が静まり返ってしまって、私はちょっと会話を外してしまったなと苦笑した。
「婚家にいた間も、出家して出た後も、私の人生にはままならないことばかりでした。しかし、その時々で自分にできることを一つずつこなしていった。自分なりの誠実さと、貴族の女の狡猾さのバランスを取りながら、ですわ」
これが私、エレオノーラの単純な処世術でした、と話を結んで、その日の座談会をお開きとした。
この座談会の議事録はその後、参加者の中にいた女流作家がエッセイにまとめたいと許可を得に来た。
私は特にこだわりもなかったので快く許可し、後に雑誌連載され完結後に本にされたそう。
庶民には、貴族の女の考えや、振る舞いを知る娯楽小説として。
貴族には、複雑で困難な家族や男女関係のテキストとして読まれたと聞いて、私は苦笑してしまった。
いずれにせよ、賛否両論の意見や批評が出て、しばらくは雑誌や新聞の交流欄を賑わせたそう。
おしまい




