桜の下の少女
初投稿です。よろしくお願いします。
少し不思議で、少し切ない青春恋愛ものです。
最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。
財布に残っていた小銭をぜんぶ賽銭箱へ放り込み、鈴を鳴らしてから、作法どおりに二度、手を打った。
「どうか神様。高校三年の一年間を、平穏無事に過ごせますように」
高校三年の初日に、わざわざ神社まで来て願うことがそれかよ、と言われるかもしれない。
普通なら、成績が上がりますようにとか、志望校に受かりますようにとか、そういうことを願うのだろう。
それでも、俺が願ったのはただの「平穏無事」だった。
今の俺には、それだけで十分だった。
四月。
桜がいちばん見頃を迎える季節だ。
風が吹くたび、淡い桃色の花びらが枝先からくるくると舞い落ちる。
数が増えると、まるで春にだけ降る細雪みたいだった。
見ているだけで、自然と歩く速さまでゆるんでいく。
神社の前には、よりにもよって町でいちばん立派な桜の木が立っている。
太い枝を四方へ伸ばし、幾重にも重なった花が枝先までびっしりと咲き誇っていた。
木の下から見上げると、頭上にはほとんど空がなく、視界いっぱいに春色だけが広がっている。
町の人たちは、みんなここへ参拝に来る。
平穏を願う人もいれば、願いごとが叶うよう祈る人もいる。
この木にも、真偽のほどはわからない、そんな言い伝えが昔から残っていた。
ちゃんと願えば、神様がその願いを叶えてくれる。
ただ、俺は昔から、そういう話を観光客向けの作り話だと思っていた。
だからさっきの参拝も、結局は形だけのものだった。
参拝を終えると、俺は神社前の長い石段を下りていった。
始業までには、まだ少し時間がある。
ショルダーバッグからカメラを取り出した。
写真を撮るのは、わりと好きだ。
気に入った景色を見つけるたびにシャッターを切って、その一瞬を残してきた。
桜なんて、毎年咲くものだ。
それでも、目の前の景色が理屈抜きに美しいことだけは認めざるを得なかった。
カメラを構え、舞い散る花びらのあいだでゆっくりと構図を探す。
石段、鳥居、木陰、散った花びら。
どこを切り取っても、春そのものが用意した一枚のように見えた。
そのとき、ファインダーの中に、一人の少女が入り込んだ。
どこかから歩いてきたわけでも、たまたま通りかかったわけでもない。
むしろ、俺がレンズを向けたその瞬間には、もうそこに立っていたように見えた。
けれど、さっきまでその場所には、確かに誰もいなかった。
思わず息を止めた。
肩に届くくらいの黒髪。
ガラスみたいに透き通った青い瞳。
左目の下には、薄い泣きぼくろがひとつ。
彼女は綺麗だった。
現実味がないほどに、綺麗だった。
けれど見とれるより先に、別のものが俺の視線をつかんだ。
言葉にしづらい、違和感。
風も、花びらも、陽射しも、春の匂いも。
周りにあるものは全部、本物のはずだった。
なのに彼女だけが、それらすべてとのあいだに、ひどく薄い膜を一枚挟んでいるように見えた。
ほとんど本能的にズームを寄せ、レンズを彼女へ向ける。
そのとき、少女がふいに振り返った。
こちらを見て、何かを言おうとしているようだった。
レンズ越しに視線がぶつかった瞬間、俺の指は先にシャッターを切っていた。
「カシャリ」
シャッター音が、石段のあいだにやけにはっきり響いた。
まずい。
我に返った俺は、慌ててカメラを下ろした。
謝ろうとして顔を上げる。
けれど、彼女が立っていたはずの場所は、もう空っぽだった。
人影どころか、立ち去る足音さえ聞こえない。
視界に残っているのは、石段と木陰と草むら。
それから、一枚、また一枚と落ちてくる桜の花びらだけだった。
風は相変わらず吹いていて、まるで何事もなかったかのようだった。
俺はその場に立ったまま、撮れた写真を確認した。
写っていた。
画面の中央。
少女は満開の桜の中に、静かに立っていた。
黒髪が風に少し持ち上げられ、青い瞳はレンズ越しにこちらを見つめている。
構図は出来すぎなくらいで、偶然撮れた一枚のポスターみたいだった。
その写真を見つめているうちに、背中に冷たいものがじわりと広がっていく。
ひとつ、気づいてしまった。
あのときシャッターを切った瞬間、彼女が見ていたのはレンズではなかった。
レンズの後ろにいる、俺だった。
その日の残りの時間、授業の内容はほとんど頭に入ってこなかった。
何度もよみがえるのは、神社にいたあの少女のことばかりだった。
放課後のチャイムが鳴るなり、俺は鞄をつかんで教室を出ようとした。
「おい、湊。今日、なんでそんなに急いでんだよ? あとでゲーセン行こうぜ」
呼び止めてきたのは、橘司だった。
中学からの同級生で、高校でも同じクラスのやつだ。
付き合いが長すぎて、何かを説明することさえ面倒になることがある。
「今日は無理だ。用がある。また今度な」
「おい、冷たすぎだろ――」
最後まで聞かずに、俺は先に教室を出た。
今は、もう一度あの神社へ行かなければならない。
あれが幽霊なのか、それとも別の何かなのか。
それを確かめるために。
夕陽が空を緋色に焼いていた。
神社前の桜の木も夕暮れに染まり、朝見たときとはまるで別物みたいに輝いている。
鞄からカメラを取り出し、まず桜の木へ向けてシャッターを切った。
それからゆっくりレンズを動かし、本来そこにいるはずのない人物を探す。
ファインダーの中に、その姿が映った。
彼女は神社のそばに立ち、静かに祈っていた。
カメラを下ろし、彼女のほうへ歩いていく。
けれど鳥居をくぐった瞬間、強烈なめまいがどっと押し寄せてきた。
視界が一気に傾く。
体勢を立て直す間もなく足元から力が抜け、俺はその場に倒れ込んだ。
膝に鋭い痛みが走る。
どうにか息を整えて顔を上げたときには、少女はもう消えていた。
……無駄足だった。
膝を見ると、擦りむけたところから少し血が滲んでいた。
仕方ない。
ひとまず、家に帰るしかない。
家に着くと、ちょうど母さんも玄関を入ってきたところだった。
俺の姿を見るなり、母さんはすぐに眉をひそめた。
「湊、またどこをほっつき歩いてたの? もうすぐ受験だっていうのに、そんな怪我までして。お兄ちゃんみたいに、少しは私に心配をかけないようにできないの?」
こういう言葉には、とっくに慣れている。
どうせ母さんの目に映っているのは、いつだって兄だけだ。
けれど、「受験」という言葉だけが、俺を一瞬固まらせた。
俺は、高校三年だったはずじゃないのか?
適当に返事をしてから、自分の部屋に戻った。
壁には受験用の資料。
机の上のカレンダーは、四月を開いていた。
二〇一六年四月八日。
その数字を数秒見つめる。
呼吸が、少しずつ沈んでいく。
……嘘だろ。
机の縁に手をつき、どうにか体を支えた。
これは冗談じゃない。
俺は三年前に戻っていた。
部屋の隅には、中学の制服が掛かっていた。
机の上には当時書いた付箋も残っていて、そこには一言だけ――「受験、頑張れ」と書かれていた。
その紙を見ていると、ふいに少しおかしくなった。
あの頃の俺は、本当に馬鹿みたいに真面目だった。
どれだけ努力したところで、母さんが俺を見てくれるわけじゃないのに。
この家が今までどうにか保たれてきたのも、たぶん兄がずっといたからにすぎない。
もっとも、そういうことはもうとっくに割り切っている。
母さんが一人で俺たちを育ててきたのは、もともと簡単なことじゃなかったのだから。
俺にとっては、この家を出られる日まで、波風を立てずに耐えられればそれで十分だった。
それより今、大事なのは――どうやって戻るかだ。
本来の俺の時間へ。
無意識に胸元へ手をやり、そこでカメラがないことに気づいた。
そうか。
あのカメラは、もともと高校一年のときに買ったものだ。
ここまで一緒に戻ってくるはずがない。
ポケットを探り、ほかに何か残っていないか確かめる。
指先に、薄い紙の感触が引っかかった。
一枚の写真が、ポケットから滑り落ちる。
俺は動きを止めた。
俺とあの神社、そしてあの少女を結びつけるものがまだあるとすれば、もうこの写真しかない。
それは、学校で印刷しておいた写真だった。
もともと写真の少女は、何かに無理やり消し取られたみたいに、ほとんど見えないほどぼやけていた。
けれど今は、彼女の輪郭が不自然なくらいはっきりしている。
もう一度、写真の中の彼女を見た。
「……この制服、なんでこんなに見覚えがあるんだ?」
顔を上げ、部屋の隅へ目を向ける。
そこに掛かっているのは、俺の中学の制服だった。
「……え?」
喉の奥から絞り出した声は、自分でもわかるくらい乾いていた。
まさか彼女は、俺が中学のときの同級生――
違う。
すぐにその考えを否定した。
もし学校に本当にこんな人物がいたなら、俺がまったく覚えていないはずがない。
少なくとも、噂ひとつ聞いた覚えがないなんておかしい。
やめだ。
ひとまず寝よう。
明日学校に行けば、自然と答えが見つかるかもしれない。
膝の傷を簡単に処置し、洗面を済ませてベッドに横になった。
今日一日で起きたことが多すぎて、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
どうすれば元の時間へ戻れるのか。
この少女を見つけられなかったら、どうすればいいのか。
そんな考えを抱えたまま、俺はゆっくり目を閉じた。
視界はすぐに、暗闇へ沈んでいった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
次話もお付き合いいただけたら嬉しいです。




