序章(9) 白砂の交渉
彼女、いやアスラの指示によって、交易船が比較的に停泊しやすいと見られる箇所へ案内される。
激闘のあった浜から、よりアスラの家に近い海岸であった。
ドーブは、船を投錨する際の条件をアスラに伝えた。
接岸、あるいは停泊というのは、想像以上に神経を使う作業だ。
特に、地理が分からない初見の陸地となれば、より慎重になる必要があると言っていい。
先の〈船飲み〉との命懸けの追いかけっこで見せたドーブの浅瀬への誘導は、いわゆる座礁をも可能性に入れた捨身の作戦であった。
船を廃船にしてでも、命は助かろうという動きなのだ。
そうではない今、神経質になりすぎるということはない。
目を瞑りながら話を咀嚼したらしい彼女は、分かった、と端的に言って場所を指示した。
あいもかわらず淡々と迷いがない。
指定された海辺は、なるほど、それなりの深さがあり、かつ潮汐によっても喫水が十分保てそうな雰囲気がある。
ドーブは、実のところ苦笑いをした。
これがまあ、いい位置どりなのだ。
彼女の拠点から、ここは非常に良く見える。
監視ということを考えるのであれば、理想的すぎるほどの位置関係。
近くもなく、遠くもない。
彼女の見せた身体能力を考えるのであれば、アスラから船はアクセスしやすく、一方でこちらからアスラへの接触は難しい。
浜は平地であるから、何らかの戦闘になったとしても不利なのは明らかだ。
一瞬で恐ろしくアドバンテージを稼ぐ誘導。
それも、好意から、というような入り口まで用意しているのだ。
抜け目がなさすぎる。
ゆえに、油断してくれ、とドーブは苦笑したのだ。
恐ろしいのは間違いないが、それと同じくらいによく分からない魅力がアスラにはある。
何故なら、これで慈悲深いのだ、彼女は。
頭がおかしくなりそうだ。
その本人はといえば、例の祈祷師のような格好のまま、交易船をじっと観察している。
すでに包帯も巻き直して、長い耳を覆う布と、赤い手と、鳥の鉤爪のような足も標準装備でついてくる。
怪しい。
何と怪しいのか。
本当に何らかの邪教徒にしか見えない。
これで素顔が嫌なくらいに綺麗なのだ。
事実と事実の羅列だけで、脳が焼かれそうだ。
何なのだ、彼女は。
馬鹿なのか。
いや、頭はいいのだろうが。
「おれは下がっておいた方が良いか?」
アスラが、実に中性的な声で言う。
抑揚のないような声調。
これだ。
これも言いたかった。
そうなのだ。
彼女は自分のことを、『おれ』と言うのだ。
いかれている。
いや、いいのだ、どんな一人称を使おうと。
本人の自由だ。
ただ、この情報過多の状態で、これ以上に装飾をするな、とドーブは言いたいのだった。
第一、彼女、あるいは少女、と己は呼称しているが、これは合っているのか。
意味不明なくらいの容姿をしているので分からないのだ。
その上混乱させるような一人称を使うなどと。
やはり馬鹿なのか、彼女は。
いっそ馬鹿であってくれ。
アスラ、君は馬鹿だ。
「何だ…?」
アスラが怪訝な表情でこちらをみる。
返答もせずに見つめていたからだろう。
こっちこそ、何だその睫毛の長さは。
仲間たちとの再会だというのに、アイデンティティの権化のような存在がいるのでどうしてか気が散る。
加えて、先の戦闘の興奮、正確には神域の戦いを観戦した高揚も完全には冷めやらぬ状態ではある。
本当に馬鹿げた光景だった。
神話の一幕のような決戦。
南の海の化け物を一蹴する、稲妻のような金の虎。
それを真っ向から斬り伏せてみせた、静謐な少女剣客。
世界そのものを相手取るような、恐ろしい状況。
一転して、神の息子を殺すなどという、罪深きも圧倒的すぎる戦果。
未だに夢心地が抜けきらない。
〈耳の深酒〉もあるのだろうが、それ以上に酔っているかもしれない。
護衛の剣士としては失格だろうが、単に剣士としては興奮しない訳がない。
彼女は、恐らく今まで会った剣客の中でも随一の腕の持ち主。
隔絶しているといってもいい。
畏怖と尊敬が混じり合って、ただの浮き足だった感情が作られる。
まるで、童心に帰ったようだ。
彼女は、いったい何者なのか。
そのアスラは、船の停泊の際の手順をしげしげと眺めている。
心なしか、翡翠の目に映る光量が多いような気もする。
冷めているように見えて、好奇心が旺盛なのか。
いや、非常に賢そうな彼女のことだ。
知的探究が好きでもおかしくはない。
船が珍しいのか。
まあ、ちょっと可愛い。
ギャップがあっていいかもしれない。
そして、同時に寒気もする。
帆が畳まれた船は、随分と速力が落ちた。
若干距離のある海面に浮いているので、ほとんど止まっているように見える。
船上で何やらがやがやと大声や指示が飛んでいる。
コルビンスはいないが、それでもベテランの水夫は数名いる。
彼らが精神的な支柱となって船の屋台骨を支えてくれていたのだろう。
それにしても、声も動きも、さすがに元気がないように見える。
〈船飲み〉からの逃走に、嵐の海の航海、そして悪夢の再来、今度は〈聖地〉の島への近接、そして最後はあの黄金の獣だ。
疲労困憊でなくて何なのか。
〈耳の深酒〉もあるだろう。
特に、水主が心配だ。
呪い師は得てして世界の声をよく聞けるものが多い。
世の声を聞けることも才能、それを受け入れられることも才能、そして世に語りかけることも才能。
これらは、似ているようで別種だ。
嗜好品の酒と一緒で、それが良いものだと見出せるのと、量を飲めるのと、美味しくアレンジができることは、全く異なる。
大概の呪い師は、声の酒気も、一般の人間と比べれば摂取できる絶対量、つまり耐性も多い傾向にはある。
ただ、問題なのは、水主がこれまでの航海で随分と世界と接触をしてきたということだ。
呪いは、世界との対話。
穿って言えば、世界をまやかすこと。
この世と対話をして、うまく丸め込み、ありもしない事象を引き出させることこそが呪いなのだ。
逆に言えば、世界と会話をしなければ呪いは使えない。
話せば話すほど、使えば使うほど、〈耳の深酒〉が悪化する。
おそらく、己が〈船飲み〉と戦って海に落ちた時点でも、水主はかなり酩酊していたはずだ。
それで今に至って〈聖地〉に上陸をしようなど、およそ褒められたものではない。
本来であれば、世界の声が小さい場所で、安静にしなければならない。
そもそも、彼女は、アスラはどうして酔わないのか。
稀にだが、そういった体質のものもいるにはいるらしい。
断定できないのは、そもそも〈声の深酒〉をするケースが限られるという点が大きい。
呪いを使うか、あるいは〈聖地〉またはそれに準ずるような秘境へ赴いて、世界の声を多く身体に入れなければならない。
単に、サンプル数が多くないのだ。
とはいえ、一説によれば、声の酩酊を訓練で慣らすことも可能、とされてはいる。
呪い師の酔いの耐性が高めで推移しているのも、これは一種の順応、耐性の獲得ではないか、と。
〈聖地〉で長く暮らせば、あるいは殆ど世界の声を無視できるほどに身体が強くなる、かもしれない。
アスラに語る才能があれば、きっと良い呪い師になれることだろう。
言動からすると、当人の素養はともかくとして知識の類は希薄である。
そのような文化が無かったと見るべきか。
祈祷師のような形をしておきながら、呪い師ではないとはこれ如何に。
船から、一際大きな声が上げられる。
投錨だ。
船の脇に吊るされていた巨大な錨が、海へと落とされる。
重い音、そして大きな水しぶきが上がった。
すぐに、一瞬後ろの帆が貼られて、船が後退する。
あれは、海底に錨を沈めたのちに引っ掛かりを付けさせる作業だ。
そうして余分なロープがゆっくりと巻き取られる。
ピンと縄が張った。
投錨が終了したのだ。
停泊完了である。
「お前の仲間は気分が悪そうだな。
これが先ほど言っていた深酒かえ?」
アスラが船上を見ながら言う。
名前の交換、そして握手の後に、ドーブはしっかりと〈耳の深酒〉の概念を彼女へと伝えていた。
彼女は静かにそれを聞き、そうか、とだけ言った。
どうにも、己の説明と実際の現象とを比較しているらしい。
ここが怖いのだ。
楽しそうに見えなくもないが、それだけでは決してない。
ドーブから聞いた情報を鵜呑みにせずに、状況を追いながら真偽のほどを確かめている。
加えて、戦力分析でもあるだろう。
作業の緩慢さ、精度の悪さ、そして持っている武装の消耗、〈声の深酒〉。
戦力は乏しい。
きっと、そこの評価の裏付けでもある。
包帯の合間から見えるアスラの翡翠の瞳は、空の色を映し込んで冷たい色を帯びている。
彼女がコルビンスや己にしてくれた、手厚い看護や、弔いなどが思い出される。
そして、抵抗もなく殴り飛ばされた姿が。
先ほどの感想は、訂正した方が良いかもしれない。
非対称の美しさといえばそうだが、これは矛盾だろう。
どのような精神状態なのだ。
この島の、無数の墓標が脳裏をよぎる。
彼女は、人を心から信頼するのだろうか。
諦観と慈悲だけが、いたずらに暴走しているようにドーブには見えた。
死者こそが、唯一、沈黙と美化によって、アスラを蝕みつつも抱擁してくれるのではないか。
そんな気がしてならない。
彼女は、酷く孤独だ。
交易船から小舟が降ろされる。
力を振り絞るような声と共に縄が引かれて、ゆっくりと水面に着水した。
小舟にはロープが渡されて、護衛の仲間と荷主がくたくたの様子でそれを伝う。
四人ほどが小舟に乗ると、ゆっくりと梶が動かされて浜の方へと漕がれる。
見るからに体力の限界だ。
声を気力を振り絞って小舟を進めている。
だが、良かった。
本当に良かった。
彼らが生きていて。
ドーブは、目頭が熱くなるのを感じた。
悪夢は終わった。
数日は、本当に酷いものだった。
今、ここは〈聖地〉という魔境でこそあるが、空は明るく、そして海は青々として広がっている。
風はまだ強いが、どこか清々しい。
ありがたい。
やっと、己の知る世界が帰ってきた。
小舟が、浜へと至った。
海に足をつけながら四人は降りて、波にさらわれない位置まで小舟を押している。
ドーブは、ゆっくりと歩みよった。
太陽に照らされた湿った砂浜に、重い足跡をつけながら足を進める。
波打ち際と濡れた砂は、白く光を照り返して輝いている。
そこに、人影がうごめく。
さざなみの音。
海の香り。
そして、眩い浜辺。
体温が上がる。
ドーブの前に、数日前まで顔を合わせ続けていた護衛仲間の姿があった。
誰も何も言わなかった。
無言で抱き合った。
苦労。
心配。
絶望。
そして、再会。
感動などという陳腐な言葉ではどだい説明できないような情緒。
地獄を一緒に生き抜いたという連帯。
〈船飲み〉に、ドーブはやられたと皆が思った。
そして、船は〈船飲み〉に呑まれると。
あの、天災のような黄金の獣に消し炭にされると。
理不尽ばかりに襲われて。
見知らぬ島へ、それも〈聖地〉へと流されて。
嫌な世界だと思う。
親友は死んだ。
ここはどこだ。
帰れるのか。
けれども、少しだけ希望がある。
仲間がいる。
船もある。
まだ、やれる。
それが、この世の恐ろしさかもしれない。
「ドーブ…。
コルビンスは…」
護衛の一人が言った。
彼も、コルビンスと気が合うような様子で、良く話をしていた。
奴はうるさいし、酒癖はやや悪かった。
それで、女房にも逃げられて、おんおん泣いて。
翌日真っ赤な目で縄を引きながら、海が俺の嫁っ子よ、などど軽口を飛ばして。
馬鹿な奴だった。
奴の、声が聞こえる。
闇の中、己を呼ぶ野太い大音声が。
そうだ。
彼らは、コルビンスが重傷のまま己を追って海に飛び込んだ、ということまでしか知らない。
実際に、ドーブの命を助けたのだと知るはずがない。
あるいは、錯乱した末の愚行という冷たい視点すらあるかもしれない。
己に、闇の海へと沈んで行った己に、コルビンスは死んだと言いたいのだろう。
その末路を。
訃報を届けようとしているのだろう。
奴のことを。
まあ。
なんだろうか。
説明、なのか。
うまい表現が見つからない。
できない、と言った方が適切か。
ドーブの心には、名前もないような澄んだ情念が考えられぬほどに満ちているだけだ。
ただ、それだけなのだ。
あとは、何だっていい。
嵐の中でも、船飲みに追われていても、重傷を負ってさえ、奴は笑った。
不敵で、声のでかい髭もじゃ。
優しいやつ。
そうだ。
あのアスラでさえ、コルビンスには敬意を払っているような様子がある。
それも単に、人格のみを高く買っているような印象だ。
彼女らしくない、感情が優位な評価。
コルビンス。
死に際に何をしたのか。
何を語った。
アスラも、その僅かな間に見知ったのだろう。
きっと、コルビンスの気高い魂に惚れたのだ。
あのような美人をも魅了するとは。
罪なやつだ、お前は。
「俺を、助けてくれた…」
ドーブはどうにか言葉を絞り出した。
文脈がおかしい。
会話の流れも合っていない。
けれども、これでいい。
これ以上に話すことはない。
涙が落ちるのを感じた。
護衛仲間と荷主は目を見開いた。
そうだ。
あり得ないと思うだろう。
けれども、奴は成した。
成し遂げた。
そして、役目を終えたように逝った。
そうだ。
そうなんだろう、アスラ。
ドーブは、親友を看取った少女を見た。
アスラは、静かに瞑目をしていた。
亡き者への敬意。
飾らない、そして語らない。
彼女はいつだって、静かな態度を持って示すのだ。
アスラを見てややぎょっとしたような護衛仲間も、次第に目が腫れ出した。
声を出さぬままに、しばらく感情を垂れ流す。
言葉など、出るわけがなかった。
「ドーブ。
それで、彼は…」
荷主だ。
燃えるような赤毛と、同色の髭を蓄えた男。
光の満ちる浜で、哀悼を捧げ果たしたその余韻。
涙の残る緑に近い目で、アスラを訝しげに見ている。
彼らは、先の戦闘の一切を感受できたのか。
彼女が、あの世界の化身を斬り伏せたことを知っているのか。
なんにしても、説明が必要だ。
彼らは、アスラを強く警戒している。
申し訳ないが、無理からぬことだ。
彼女の風体は、まあ化け物じみている。
文明を感じないというか、未開の異文化を非常に強く匂い立たせる衣装。
怪しげな祈祷師あたりが、どうしても妥当な評価だ。
かなり離れた位置取りをしているのは、単に余計な威圧をしないため。
その他に、気も使ってくれているのかもしれない。
彼女は、冷徹だが野暮はしない。
実際、この距離でさえアスラはこちらに容易に干渉をすることができる。
戦術的には非対称性を保っている。
行儀よく、威嚇をせず、静かに盤面を整えるのが彼女だ。
老練な手練手管。
そういえば、アスラは何歳なのか。
謎が多い。
多すぎる。
「俺とコルビンスの面倒を見てくれた。
この島の、多分唯一の原住民だ」
恩はある。
はっきりと言って、ありすぎるほどにある。
こちらの過失も含めれば、もはや彼女には頭が上がらないような状況といえる。
交易船という論軸でいっても、〈船飲み〉を一撃で粉砕するような神獣を退けてくれたという、命そのものを救う以上の異常なくらいの貢献度がアスラにはある。
「平気なのか?」
荷主が目を細めた。
真っ当な質問ではある。
様々な感情が込められている気がする。
己への心配。
文化の摩擦への不安。
彼女の人間性の確認。
知性はどうか。
戦力はどうか。
交渉などはできるか。
この男は、へろへろになっても頭が回る。
日焼けした顔はいかにも精強そうだが、どこか知性と思慮深さをもたたえている。
疲労の色はいかにも濃いが、瞳は爛々と強く光っている。
やはり嫌いではない。
「捉え方によるだろうな。
戦力の等質性でいえば、全くない。
彼が、あの虎を斬ったのを見たか?」
荷主は、愕然としたような表情を見せた。
周囲の護衛仲間もそうだ。
やはり、風雨と距離の関係でよく判別ができていなかったのか。
とはいえ、あの場にはドーブとアスラしかなく、ドーブは木の棒しか持っていなかった。
自ずから、答えは出る。
どうしたって、彼女が金の虎を始末したという結論に辿り着かざるを得ない。
あの虎は、強かった。
そして、彼女はより強い。
それが事実なのだ。
「まさか…。
いや、そうだな。
現実を正しく認識する必要がある。
確かに、あの浜辺にはかの虎の骸があり、剣を佩びているのは彼だけか…」
赤毛の商人は、顎を撫で付けながらそう言った。
流石にこの男も冷静だ。
〈聖地〉の酒気もあるだろうに、思考は殆ど濁っていない。
あるいは、耐性が高いのか。
何にしても、感情で場を引っ掻きまわすような傾向がないのは実にありがたい。
この交易船において最も立場が上なのが彼だ。
ドーブも、護衛仲間も、水夫連中も、厳密には彼の管轄下にあると言っていい。
無論、武力などを考えればドーブや護衛仲間も勢力があるといえるが、雇い主に妙なことをしたという記録が商会に周知されれば、社会で生きていくのは相当に厳しくなる。
人間というのは、信頼を通貨にして世を渡る生き物なのだ。
結果として、商会という庇護がある彼は、本当の極限下にならない限りは上司の立場が揺らがない。
今回は怪しいところではあったが、偶然にも連帯の方へと一同が結束し、彼も威厳を保っている。
そうでなくとも頭の回る男ではある。
まあ、今回の復路の荷である商会からの依頼品については、少々きな臭さを感じながらも受領しているので、勢いで動くところも大いにあるが。
海の静けさと、激しさを、一人に入れ込んだような男なのだ。
「ああ、そうなる。
彼は異常に強い。
それと、あんたこの島の場所はわかるか?」
赤毛の商人は、力無く首を振った。
やはりそうか。
あの嵐の海を割ってきたということは、星読みなども満足にできなかったということ。
航路を外れて、考えられないような場所まで船を進めてしまったかもしれない。
今朝思ったことは、あながち間違ってはいないようだ。
正直にいって、良くない確認が取れた。
つまり、帰るあてが無い可能性があるということだ。
最悪、一か八かで航海をすることになる。
「状況を整理する。
食料と水は殆ど底をついていて、船員の体力も限界に近い。
水主は今私の部屋で休ませているが、酩酊が酷い。
船は一定の損傷があるが、現状浸水などの致命的な損壊は見られない。
総合すると、一刻も早く補給を済ませて、安全地帯で休息をする必要があるだろう。
日程は遅れるが、いつ港につけるかどうかもわからない状態だからな。
現状では人工の消耗の方を避けたい。
はっきり言うが、コルビンスの抜けた穴は大きいよ」
赤毛の商人は、船を振り返って言った。
護衛仲間も頷いている。
地に足のついた現状把握であり、行動の指針もはっきりとしている。
この男はやはり聡明だ。
彼からすれば、荷を持ったままの遭難、それもリソースは枯渇寸前という商人としては窮状の中の窮状と言っていい困難な位置にあるにも関わらず、しっかりと休息による安定化なども考慮して先行きを占っている。
悪くない。
問題は、そのリソースの回復が試みられるか、ということになる。
ドーブも少し前に悩んでいたが、これはアスラの協力が必要不可欠だ。
〈聖地〉で我々が食糧や水を収集しようとすれば、またあのような次元の違う化け物と遭遇するやもしれない。
可能性としてはそう高く無いのかもしれないが、一度目にしてしまえば、絶対の恐怖が焼きついたように心に残る。
万が一にでも死人などが出れば、士気の低下は免れず、単純に人員不足によって船の運用すらも厳しくなってゆく。
どうしても彼女の協力を得たい。
それでなくとも、保存食などはすぐに作れるものではない。
干物や燻製などは、作成に時間がかかる。
場所についても、窯などの設備が必要になるだろう。
問題は、彼女との交渉だ。
ドーブは、こちらをじっと観察しているアスラを見た。
潔白な色の砂浜に佇む、白地の服の番人。
太陽の光を照り返して、眩しい。
彼女は目を僅かに細めて、手櫛で髪と髪飾りを撫で付けている。
これは、まあ難航する可能性が高い。
第一の問題として、アスラが恩人であること。
すでに、船の停泊の案内や、己への手当など、虎の退治がなくとも、分かりやすい成果物が彼女にはある。
むしろ、対価を求められるのはこちら、とそのように捉えることさえできる。
この時点でパラドックスが生じている。
ようは物乞いのような、実に歪な交渉の構造になる恐れが高いということ。
第二の問題として、アスラの知性。
戦術的な賢さがあるということは、物事を俯瞰する能力が高いということと同義だ。
こちらの見え透いた動きなどはまずもって簡単に察知され、言葉少なにいなされるだろう。
飾り立てた言葉を並べても、良いことのみを抽出しても、齟齬があったり、全体の均一性の無さなどから違和感を見出してくる可能性は高い。
彼女には法律や相場などの知識がないディスアドバンテージこそあるが、楽観視はできない。
第三の問題として、よしんば対等の交渉のテーブルにつけたとして、どのように進めるかということ。
彼女が求めているものを的確に見定め、それを今あるリソースをどれだけ払い出すことによって提供できるか。
そして、リターンとして、払ったもの以上のリソースを得なければならない。
文化が違うということは、価値観も違うということ。
こちらが大して珍重していないものでも、喜んでくれるという望みはある。
一方で、貨幣やあるいは宝石といった、大衆が喜ぶようなものでは心を揺らせないかもしれない。
彼女が、欲らしい欲を見せないというのも厄介だ。
最後に、異常な武力。
これが最もややこしい。
基本的には無いとは思うが、アスラがその気になれば力での強引な交渉が可能だ。
その場合、対抗する手立てはない。
彼女があの古ぼけた剣を抜いて佇むだけで、我々は全てを差し出さなければいけないようになるかもしれないのだ。
この際なので述べるが、困りごとでいえばそれのみにとどまらない。
水主が床に伏していることも痛い。
船上での筆頭戦力兼、航海の安定化を司る要職についている彼女が機能しない。
どうだろうか。
例えば、〈船飲み〉が番で襲ってきていて、もう一頭いたら、などと。
あの大嵐にもうひとたび遭遇したら。
それでなくとも、いわゆる海賊らといったならず者などに襲われなどすれば。
この島の場所が分からない以上、あり得ないことではない。
安穏な海域という保証はどこにもない。
これは殆ど、冒険家が行うような手探りの航海になる。
水主は〈聖地〉から離れて安静にさせれば回復はするだろうが、時間はかかる。
つまり、最悪に近いコンディションのまま、一旦は海に出なければならないということ。
戦力の補充が必要だ。
食い扶持が増えたとしても、リスクヘッジを考えればそうしない訳がない。
ただ、人がいない。
ここは、孤島だ。
「彼とは、話せるか?」
赤毛の商人がいう。
言語という意味だろう。
「話せる。
頭もいい。
やり方としては快くはないが、いっそのこと憐憫の情に訴えた方がいい、と思う。
普通に考えて、俺たちは交渉の立場に立てない。
純粋に、助けを乞う形以外に整った体裁が保てない」
ドーブは赤毛の商人の目を見ながら言った。
嘘偽りのない本音。
アスラとは短い付き合いだが、濃い交流があった。
希薄な言葉の交わし合いではない、心胆を微かに見せ合うほどのやりとりが数回あった。
今でも彼女はミステリアスだが、心根や行動のパターンは読めなくはない。
彼女の優しさだけが、地獄に垂らされた唯一のか細い糸。
意地汚くとも、縋る他にはない。
「まあ、そうか。
そうだな…。
彼に助力を乞うしか道はない。
ドーブ、お前も治療をしてもらったのだろう?
なんにしても、まず礼があってしかるべきだな」
ドーブは頷いた。
話の分かる男だ。
外観のみで人を判断するバイアスが薄い。
だからこそ、この男はやり手なのだ。
新たな価値観の更新と、変えてはならぬ視点の保ち方がうまい。
これがきっと商いの才能の源泉なのだろう。
「彼と話をしてみよう。
俺が一応のつなぎ役を試みる」
ドーブと赤毛の商人はアスラの元へと寄った。
白く美しい砂浜を、急ぐわけでも、もたつくわけでもなく歩く。
いらぬ緊張を高めぬため、護衛仲間は小舟の側で待機をさせている。
アスラとの戦力差を考えれば、何人いようと殆ど変わらない。
己と荷主だけでいい、とドーブは判断した。
赤毛の荷主も同様の考えらしい。
ただ、彼には珍しく平静を少し欠いている。
深呼吸が多い。
流石に、彼女が恐ろしいのだろう。
そのアスラは、もう目の前だ。
翡翠の瞳がこちらを射止める。
「アスラ。
俺の、何だ。
立場が上の人が挨拶とお礼をしたいそうなんだが、いいか?」
上司、と言いかけてドーブはやめた。
おそらく、そのような概念は彼女にはない。
アスラは、分かった、とだけ言った。
まあ、いつもの通りである。
「お初にお目にかかります。
ドーブ・エットラ、およびコルビンス・ラスコの雇い主をしております、ネルガン・セペリアノ・ホルヘ・デ=ヨビスと申します。
この度は、当船の乗組員の介抱と弔いの方を、誠に手厚く行っていただきまして、心より感謝致します」
ネルガンが、実に慇懃に礼をする。
非常に丁寧な挨拶である。
これはドーブの国における最上敬礼に近い。
彼女は流石にこの礼節については知らないだろうが、それでも丁寧な挨拶に出たネルガンは、これまた粗がなく文明的だ。
理解できずとも、その本意というのはえてして伝わるもの。
印象は、恐らく悪くない。
ドーブも便乗するように、本当にありがとう、と言葉を続ける。
「アスラ・ウシール・アンラ=マンユ・パブ=ダ・アセド・ラ=スーヤイルム・カルナだ。
不慮の事態に遭われたこと、衷心よりお見舞い申し上げる。
コルビンス氏を拙の微力な力添えで支えようと存じたが、叶わなかった。
何らお役に立たず、忸怩たる思いだ」
アスラからとてつもなく丁寧な挨拶が返される。
高い声に、あいもかわらず一定の調子。
言葉こそ古いが、高い知性を感じざるを得ない返答。
知識が無いからか所作は何もないが、それのみだ。
無駄なことや文化の猿真似などを排した、質素ながらも誠実な姿勢。
ネルガンも、流石に驚いている。
この邪悪の権化のような見た目から、声質も含めてなんという落差。
ある意味ではアスラ体験だが、いかにも手強い雰囲気を感じる。
酔いも相まって、すこしばかり目眩のようなものがしてきた。
「なんと滅相もございません。
ひとかたならぬお心寄せをいただき、当方一同を代表いたしまして、改めて深く感謝申し上げます」
ネルガンも硬く、これまた丁重に返す。
さて、導入はこのようなものだろう。
どう動く。
「アスラ殿。
己の無力を、蒙昧を承知してお聞きください。
このようなことを申し上げるのは、誠に身勝手で恥晒しなこととは重々承知いたしております。
しかしながら、我ら一同、もはや自力では抗い難い窮状にございます。
何卒、御身のお力をお貸しいただけないでしょうか。
食料と日用の品を少しばかり、我々にお恵みください」
ネルガンが頭を下げた。
アスラは、それをじっと翡翠の瞳で見つめている。
背後で、髪飾りが海風に揺れる。
そうだ。
それで良い、ネルガン。
プライドがどうなどと、お行儀の良いことは言っていられない。
彼も悟ったはずだ。
彼女は一筋縄ではいかない交渉相手。
戦力としても異常の一言。
そして、特に対価を求めずにドーブとコルビンスを助けたという事実。
ならば、これのみが活路。
許してくれ、アスラ。
頭を下げる我々を許してくれ。
君の優しさを食い物にせんとする、卑小な輩を。
「大変なご苦境の折、お言葉を求める無礼、平にご容赦願いたい。
拙なる問いにお答えを頂戴できれば有難い。
ネルガン殿ご一行は、いかなる経緯にてこの地へ到達されたのか。
詳らかにご説明を賜りたく」
アスラの双眸が鋭く光った。
白い砂浜が、逃げ場のない眩しさを一帯につくっている。
来たぞ。
彼女は、相手の言葉をそのまま飲み込んだりは決してしない。
裏どりを必ず行う。
今ある現実と、ネルガンの言葉を並べて照らすはずだ。
妥当な経緯の説明がなければ、彼女は不審を高める。
加えて、これは非常に賢い情報抽出の方法だ。
はい、でも、いいえ、でもなく保留。
アスラは特に何もしていないのに、こちらの解像度を高めることができる。
ネルガンが一瞬やや難しい顔をした。
だから言ったではないか。
難敵だと。
ネルガンは、承知致しました、と漂流の経緯を滔々と語り始めた。
ある国からの出発、異国への到着。
荷物の売買。
〈船飲み〉との遭遇。
今度は嵐。
そして、また〈船飲み〉、ドーブとコルビンスの水難。
嵐と〈船飲み〉との、終わりもないような地獄。
そうして、この島へ。
アスラは瞳を閉じて、身じろぎもせずにそれを聞いた。
ときおり袋を被った長い耳がぴこぴこと動く。
ちょっと可愛いのは何なんだ、とドーブは腹が立った。
「ご無理を強いて、申し訳ない。
真摯なご説明を賜って、恐縮の至りに存じる。
だが、重ね重ねの不躾、平にご容赦願いたい。
最後にもう一問のみ、拙い問いをお受けいただきたく。
ネルガン殿の船の人員は、心身ともに大変な折とは思われるが、それにしてもご様子が芳しくない。
これは、何らかのご病気などがおありか?」
何ということをするのだ、この耳ぴこは。
〈耳の深酒〉についてのクロスチェックを平然と行ってきた。
これは、ドーブとネルガンが互いに正しい知識を出すかどうか、というのをも監査しているのだ。
つまり、信用度、信頼度の査定でもある。
概ね内容が合致していたとしても、情報のトリミングの仕方から何が痛点か、不利な情報も出しうるのか、という炙り出しも可能だ。
耳をぴこぴこさせながらえげつないことをするな、とドーブは顔が引き攣った。
ネルガンが一瞬こちらを見た。
ほんの微かにだが、焦燥が見える。
幸いなことに、己が彼女にした説明は概念として正しく十分であった。
そのまま話せば、問題はない。
ネルガンは、〈耳の深酒〉についての話をアスラへと行った。
アスラはやはり瞳を閉じて、耳をぴこぴこさせながら黙然とそれを聞く。
妙な緊張感。
高い気温から、汗が滴って落ちる。
砂浜はやはり白く、潔癖なまでに輝いている。
ネルガンは、ややあって全てを語り終えた。
生唾が飲まれる。
アスラが、ゆっくりと目を開けた。
何度も見た、翡翠の瞳。
その中に、太陽の光が小さな輝きをつけていた。
「深甚なるご教示、痛みいる。
お陰を持って、迷妄が晴れた」
やった。
やったのだ。
どうにか、どうにか通った。
かの耳ぴこ鬼頭をどうにか信用させることに成功したのだ。
ネルガンの顔にも、ようやく笑みが浮かぶ。
初めの一歩ではある。
だが、大きな歩みだ。
この〈聖地〉をものともしない彼女の理解が得られたのだ。
大きい。
大きすぎる。
「では、具体的な内容についてお話ししたいが、ご体調に問題は?」
アスラが言う。
ネルガンは、汗を拭いながら息を吐いた。
先のやり取りでより疲弊したのだろう。
一旦休んでからの方がいい。
幸い、アスラは合理的だが性格が歪むほど冷徹というわけではない。
体調が優れない相手を、無理やりに交渉の場へ引きずり出したりはしないだろう。
「少し、時間を空けてもいいか?
再度船の状態や、人員の状態を確認したい。
ネルガンには戻って見てもらって、具体的な物資の必要量を計算してもらうよ。
俺は恩もあるし、あんたの雑事でもするからさ」
時間を置く。
これが良い選択だ。
水主のことを考えれば悠長に構えていられないが、短くても流石に休息が必要だ。
ここらの海は天候さえ荒れなければ静かなので、身体も休められる。
アスラの自宅からは船が確認しやすいことも相まって、不慮の事故にも対応しやすい。
今に思えば、彼女がこの場所に船を停泊させたのは、かの虎のような神獣が我々を狙っても、それを発見しやすく、対処しやすいからではないだろうか。
戦術的な意味合いも強いのだろうが、気を配ってくれていたということも事実である気がする。
まあ、いつだって彼女は頭を回している。
優しさと冷たさを行き来しながら。
アスラは、ドーブを流しみた。
冷涼な視線。
「そんなことより、仲間と会ってやれ」
アスラはぶっきらぼうに言った。
ネルガンは少しばかり驚いたようだった。
冷徹、理詰め一辺倒に見えていたのだろう。
彼女は、極めて様々な側面がある。
「さっき十分に会った。
俺たちは、あんたに貢献できることが少ない。
なら、小さくても、力を貸せる所に貸すよ」
恩を売る、といえばそうだ。
けれども、そのような意図など希薄だ。
単純に彼女の力になれるのであれば、やりたい。
コルビンスもそうしただろう。
優しいものへ、敬意を。
アスラは実際、誰よりも優しかった。
「お前の好きだ」
言い残して、アスラは鉤爪の靴でとぼとぼと歩んで行った。
背後で、長い髪と髪飾りが風に遊ばれている。
浜の白い色の中、彼女の姿が遠ざかる。
ネルガンに一言添えて、ドーブはアスラの後を追った。
ゆらゆらと、陽炎が揺れていた。
♢
ドーブは、アスラを横目で見ていた。
昼を過ぎて、洗濯物が傷むというので、彼女はこれを取りこんでいる。
丁寧で、無駄のない動き。
思えば、これも彼女の剣客としての腕前を、静かに語っていたのかもしれない。
何のこともなく、自然な足運び。
素人に見えるが、あれを見た後では天然の宝石のように思えてくる。
手元の鍋が煮たって来た。
まだ、昼飯を食べていないのだ。
一気に空腹感が襲ってきて、力が抜ける。
薪を投入しながら、火加減を調節する。
乾燥肉と野草を用いた汁。
シンプルだが、美味い。
ドーブが評するに、アスラは料理の腕において、平均的かやや上という程度の水準だ。
家庭料理としては美味い、という程度。
馬鹿げた武力に、切れる頭、異常な美貌と人間味がないが、これについては親しみが湧く。
彼女も、ちゃんと人間なのだ。
灰汁を取りながら考える。
台所近くの明かり窓から、斜めになった陽光が入ってくる。
色はまだ白っぽく、強く、熱い。
この島で目覚めた日のことを思い出す。
朝日が登った集落。
静けさと、墓標にまみれた、終焉を伸ばしてできたような無彩の景色。
寂しく建つ、この家。
たった一人で暮らす、彼女。
淡々と家事をこなし、文句も言わず、嘆きもせず、死者のみに向き合う冷たい人生。
いいのだろうか。
彼女は、アスラは、幸せなのだろうか。
『ドルゴブム』
彼女の声が聞こえる。
狭い部屋の陽だまりの中で、静謐に微笑みながら、己を見ている。
どうしたのだろうか。
いや、そうか。
孤独。
そうだ。
似ているのかもしれない。
境遇は違う。
容姿も違う。
性格も。
けれど、似ている。
一人ぼっち。
どうする。
どうすればいい。
ドーブは、ゆっくりと振り向いた。
洗濯物を取り込み終えたアスラが玄関に佇んでいた。
籠を脇に持って、敷物の外周を回るようにして四角の脇に立った。
鉤爪の長い靴を脱ぎ、薄手の股引きのようなものを履いた脚を折って座る。
身長が縮んだように見えるのは、どうにもかの靴が特殊な構造をしているかららしい。
こうなると、いよいよ少女じみてくる。
包帯の合間の目元は、長いまつ毛が双眸を縁取って、強そうな意志をそこへ滲ませる。
気丈な娘、というような雰囲気。
どうしてだろうか。
妙な単語が、思いつきが、ドーブの頭にあった。
あまりに狂った発想。
戦力。
そうだ。
補充要員がいる。
コルビンスも居なくなってしまった。
口が、何故か動く。
「なあ、アスラ」
彼女は、ちら、とこちらを見た。
洗濯物を畳んでいるらしい。
几帳面そうな、美しい折り込みの仕方。
凄まじい効率の良さで、赤い手が動く。
器用な娘だ。
「なんだ」
短い返事。
素っ気ない。
適当な言葉を己の中で探す。
けれども、うまく形にはならない。
もういい。
口よ、お前の好きだ。
「船、乗らないか」
屋内に、強い風が入ってくる。
炉の火が揺れて、玄関の布が大きくはためく。
ドーブは、じっとアスラを見つめた。
彼女は手を止めて、きょとん、とした。
「…なぜだ?」
すぐに理性が帰ってくる。
声質も怜悧そのもの。
探っている。
意図を。
こちらの利害の関係を。
行け、口よ、心よ。
コルビンスのように、かの澄んだ大波のようにぶつかれ。
「あんたが…。
その…。
寂しそうに、見えるから…」
馬鹿な理由。
考えたが、これしかなかった。
背景や、事情など、御託は一旦どうでもいい。
彼女を、助けたい。
アスラは、はっきりと瞠目をした。
今までに無い反応。
これは明らかな動揺だ。
辛くないことなど、あるのだろうか。
どれだけの期間、一人で過ごしていたのだ。
何もない、誰もいない島。
会話すらもできないという、考えらぬような孤独。
どれだけ強くとも、賢くとも、人は独りではいられない。
仮に彼女が何らかの咎人で、その贖罪ということであっても、これほどに残酷な仕打ちはない。
どうして狂わずにいられる。
何という精神。
だからこそ、歪んで、摩耗し、あのように矛盾するのではないか。
命あるものの、暖かな抱擁を。
世界よ、〈始神〉よ、彼女を包んでくれ。
この、冷たい島から、アスラを解放してくれ。
「…そう見えるか?」
彼女はかすかに目を伏せて訊いた。
どうしてか、心細く聞こえる声。
まつ毛が覆い被さって、物憂げに見える。
孤独が匂う。
彼女を蝕む、この地の静けさが漂う。
アスラは、手元の服を、じっと注視している。
古そうな衣服。
いつから使っているのか。
あるいは、思い出の品なのか。
「そう、見えたよ…」
ドーブは、天井を見た。
反射した淡い光がそこにある。
屋内の暗がりが、少し退いている。
風が、また強く吹いた。
からからと、窓の脇に吊るされた干物や薬草が音を立てる。
「まあ…」
アスラも、ドーブを追うように天井を見た。
翡翠の瞳は、どこか弱々しく見えた。
神樹の葉のような色の眼。
鮮やかで、力強く、酷く孤高そうな涼やかな眼差し。
それが、少しばかり泳いでいる。
ほんの僅かな間、手元の服が握られ、離される。
吐息が、一つ、小さく吐かれた。
「そう、かもな…」
そして、疲れたように彼女は言った。
静寂の集落の中に、その言葉が染みるように消えていった。
ドーブも、アスラもじっと光を見ていた。
やはり、布のはためく音だけが屋内には残されていた。
用語集
・耳の深酒
声の深酒とも。世界の声を聞きすぎることによって生じる不調。
耳鳴り、視界の不明瞭、感覚の麻痺、酩酊感などが代表的な症状。酷くなると意識を失って昏睡する。死に至ることもある。
聖地で世界の声を耳に入れすぎるか、呪い師が世界と長く対話をしてしまったことによる発症が殆ど。




