カヌレ・その3
咲子さんの憂鬱なおやつ前。
遊びのためには投資が必要。
そのための仕事がなかなか進まず、野口咲子はため息をついた。
彼女の仕事について語る前には、彼女の「特性」が大切だと思われる。
彼女は「みえる」人間だった。
と言っても幽霊ではない、特に文字に特化して色や形がみえる。それは日本語でも英語でも仏語でもだから、もしかしたらその他の言語にも当てはまるのかもしれない。
幼いころから、咲子が美しいと思う文字は、穏やかでまあるい触り心地だった。逆に苦しみを感じる言葉は苦々しいほどの濃い灰に染まり、棘を放った。
世にいう「共感覚」に近いものを感じるが、咲子はそれを病院で名付けたいとも思わなかったため、誰ひとり知らせないままに歳を重ねた。
文語だけでなく口語にも色・形があった。それは咲子の青春時代にかなり苦労をかけたが、咲子の性格……ざっくりとしていて、他人や群れを嫌がる性格が幸いしてか、そこまで問題になることはなかった。
とはいえ、棘のある言葉を投げかけられると本当に棘の痛みを感じるものだから、次第に彼女は他者を避けるようになっていった。
代わりにのめり込んでいったのは文学だ。本の中の美しい活字に触れるたび、胸がときめいた。まろやかな淡いその色に彼女は魅了され続けた。
生涯を捧げた翻訳にも、この力はとても有効だった。同じ形、同じ色の言葉同士を拾っていけば、簡単にひと通りは訳せる。もちろん、それだけでは成立しないので修正はどんどん必要だったが、それでも能力的に向いていたのは確かだろう。
だが、今日はなんだかうまくいかない。仕事終わりの魅力的な「遊び」が邪魔をするのだ。頭の中にはまあるいりんご色のふんわりとした雲が浮かんでいる。今日は俊ちゃんと午後から洋菓子店の改装の手伝いに行く。そのことにどうしても頭が持っていかれるのだった。
手土産に買っておいた小さなキッチンブーケが部屋の隅で揺れている。
楽しみすぎるのも困ったものねと、彼女は伸びをしながら仕事の原書のページを繰った。




