ウロボロス
原始の海。
そこには何も無かった。どこまでも澄んだ水面だけが輝いている。
嵐が暴れ、火山が噴火しようとも、しかしそこは不純物のない海であり続けた。
ある時、突如として生命の雫がその海へと垂らされた。
それはあまりに単純で、あまりにか弱く、あまりに小さかった。自らが生きていることさえ知らない。しかしそれでも、それは立派な生命だった。
彼らは、波に身を任せ、どこまでも広大で、どこまでも神聖な海の中を漂った。
漂いながら、彼らは脈動した。自我を持たないはずの彼らが、しかしまるでお互いを求め合うように震えていた。
地球上で最初の生命は、いつまでも震えていた。
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地球上の陸地、そのほとんど全てが緑に覆われた。
その時代の支配者である植物らは、地に根を張り、空へ葉を伸ばし、天からの恵みを受け取っていた。
そのどこか。火山の噴火により形成された緩やかな丘の、その頂上。そこに、二輪の花が咲いていた。とても小さな花だった。今は花びらを落とし、変わりに種子を大切そうに抱えていた。
風が吹く。彼らは寄り添ういながら揺れている。それはまるで、静かに円舞曲を踊っているかのようだった。
名も無き彼らは、いつまでも揺れていた。
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その時代、強烈な寒波が地上を包み込んでいた。
一切を凍てつかせる絶対的な冷気と、何もかもを薙ぎ倒す圧倒的な暴風だけが、唯一の支配者だった。
そんな世界の片隅、どこかの山の麓にぽっかりと開いた小さな洞窟で、彼らは身を寄せあっていた。遥か未来で、人類と呼ばれるようになる彼らは、寒さを少しでも和らげるように身体を密着させて白い息を吐いていた。蓄えてある食糧も、残り少なく、それらを分け合って辛うじて彼らは生きていた。
いつか来る春を待っている。言葉を持たない彼らは、それでも手を握り合い、春を待った。
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人々は争いと略奪を知った。
急速に発展と成長をしていく彼らは、限られた土地や資源を得るために、同じ人間から必要なものを奪うことで生活をするようになった。
その時代、ある国が隣国の奇襲により滅亡しようとしていた。国中の至る所から火の手が上がり、悲鳴や破砕音が響き渡っていた。
それはその国の、国王の城も例外ではなかった。城門は突破され、血だまりがそこかしこに広がっていた。既に国王は討たれ、敵国の兵士は王女の部屋の扉を破った。隅で怯える王女の許へゆっくりと近づき、捕らえようと兵士が手を伸ばした。
その時、いきなり真横から強い衝撃に襲われ、兵士は地面に転がった。動揺する兵士たちと、王女との間に一人の青年が割って入った。傷だらけの身体に、ボロボロの鍬を握りしめている。
青年は叫んだ。
兵士たちが顔を歪め、臨戦状態に入った。
圧倒的に不利な状況で、それでも青年は王女をを守るために、叫んだ。
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人間による戦争や都市開発による環境破壊により、地球上の緑はその面積を減らしていった。
その影響で、地上の緑と比例するように数多の種が絶滅という道を辿っていった。
どこか、人里離れた山脈地帯の中腹、長閑な草原の広がるその場所で、二匹の狼が寄り添いながらぼんやりと昼寝をしていた。
彼らの種もまた、人々の手による環境破壊によりその数を減らし、ついには彼らだけとなってしまった。
暖かな陽光が降り注ぎ、彼らの毛並みを淡く照らしていた。草木が揺れるざわめきだけが、辺りに満ち満ちていた。
そんな絶対的な聖域の中、彼らは穏やかに微睡んでいた。
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雑踏が駅のホームを埋めつくしている。ほとんどがサラリーマンや学生で埋め尽くされたそこは、混沌と形容すべき様子だった。その場所で、一人の少女が電車を待っていた。
人混みに対する辟易と、平凡な日常の始まりに対する憂鬱、それらがまぜこぜになった溜息を吐いている。彼女は、肩にかけたスクールバッグに埃が付いているのを見つけ、指先で取り除いた。
やがて電車が到着し、乗っていた人々が面白いように吐き出されていく。それが途切れると、今度は失った分を取り戻すかのように人々が乗り込み始めた。彼女も負けじと人の流れに懸命に食らいついた。
何とか乗り込み、何とか窓の近くに落ち着くことが出来た。彼女は再び溜息を吐いて、窓の外へ視線を移した。
その時、不意に一人の少年の存在に気がついた。彼はべンチに腰掛け、ぼんやりと空を見上げていた。少し長めの前髪が、僅かに目にかかっている。少女の学校とは別の制服に身を包んでいた。
少女はどうしてか、その少年から目を離すことが出来ないでいた。まるで何かの魔法にかかったかのように、彼の姿を目に焼き付けた。
何かを感じたのか、少年が視線を下げた。窓ガラス一枚を隔て、少女と少年の視線がぶつかり合う。
その、刹那だった。
少女と少年、二人の脳内に数多の記憶が濁流のように流れ込んだ。
それは、何万、何億――否、いっそ無限に肉薄するほど繰り返された初恋と悠久の愛の、幾星霜の記憶だった。
どの時代でも、どんな姿であろうとも、寄り添い続けた二つの魂が再び出会った瞬間だった。
少女が思わず窓に手を付き、身を乗り出そうとした。少年は弾かれたように立ち上がり、駆け寄ろうとした。
しかし、そんな見透かしたようなタイミングで電車が動き出した。ゆっくりと離れていく彼らは、お互いの姿がみえなくなるまで見つめ合っていた。
幾度となく繰り返された初恋が始まる。
それは、これからもきっと永遠に。