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テセウスの妻

 妻が髪をばっさりと切った。

 僕達が結婚するより前――いや、付き合う前、出会った頃からずっと長かったその黒い髪を唐突に、なんの脈絡もなく切ったのだ。

 さらさらと真っ直ぐだったそれを、ふんわりと内巻きにして、更に濡れ羽色で美しかった黒を明るい茶色にした。

 最初は驚いたが、しかしまあ、髪型くらい誰しも急に変えたくなる時もあるだろうと、僕は納得した。最初こそ見慣れなかったが、直ぐに妻の新しい髪型には慣れた。


 それから少しして、妻がダイエットをすると宣言した。

 僕は今のままで十分に魅力的だから必要ないと言ったのだが、しかし妻の熱意は凄まじく「痩せる!」と言って聞く耳を持たなかった。

 僕も本人がしたいと言っているのだから、無理に止めなくてもいいかと思い、それ以上は何も言わなかった。

 それからというもの、妻はみるみる痩せていった。夫としては健康面が心配だったが、今のところは元気そうなのでとりあえず様子を見ることにした。

 妻は、細くなった自分の身体に満足しているようだった。


 妻が風邪を引いた。

 風邪と言っても、咳ばかりが出るだけで熱もそれほど高くは無いし、妻自身も寝込むほどではなかったので市販の風邪薬を買ってきて病院には行かなかった。

 薬のおかげか熱は直ぐに下がり、倦怠感も無くなったようだが、しかしどうにも咳だけが止まらない。病院に行ったらどうかと言っても、妻は病院嫌いで首を横に振るばかりだった。

 その頃になると、咳のせいで声が掠れ始めてしまった。見かねた僕は、嫌がる妻を半ば引き摺るようにして病院へ連れていった。医者に診てもらい、咳は次第に治っていったのだが、どうしても掠れて低くなってしまった声だけは治らなかった。

 妻が話しかけてくる。違和感があるが、これもそのうち慣れていった。


 それから暫くして、今度は妻が交通事故にあった。歩道を歩いていると、横から原付に突っ込まれたようだ。大怪我を負い、意識は回復していないが、幸いにも命に別状はないと医者に言われた時は胸をなでおろした。

 一日経って妻の意識が回復したと聞いて、僕は飛ぶようにして病室に駆け付けた。扉を開けると、頭と腕、そして足に包帯を巻いた痛々しい姿の妻が上半身を起こしていた。僕の姿を認め、困ったような笑顔を浮かべた。

 そのあと、妻と少し会話をして僕は違和感を覚えた。しゃべり方というか、言葉選びというか、そういうものにどこか引っかかるものを感じたのだ。まあ、大変なことがあった直後だから妻も混乱しているのだろうとその時は考えたが、どれだけ日をまたいでも、その違和感は消えてくれなかった。

 そのうち、僕は違和感の正体に気が付いた。性格が、変わっているのだ。

 今までの、どこかつんっとしたクールな妻とは違い、表情をころころと変えるような真反対の性格になっている。

 僕はすぐに医者に相談し、脳の検査をしてもらった。

 検査の結果が出て、医者はこう言った。

 事故の衝撃で、脳の一部にダメージが残ってしまっているようです。治療はできませんが、命に別状はないので、こういうものだと諦めて旦那さんが慣れていくしかないでしょう。


 事故の怪我は治ったが、妻の身体のあちこちには深い傷跡が残ってしまった。首から下の傷跡は服を着ることで隠せるが、しかしこめかみから頬にかけて浮かぶ、その三日月形の傷跡だけは人の目に晒されてしまう。

 もともと、自分の容姿にそこそこの自信を持っていたらしい妻はそれがどうしても気に入らないらしく、ある日突然「整形してくる」と言い出した。

 事故の時、妻に突っ込んでいった原付の人からは多額の賠償金をもらっていたので、このお金を使うといいよと、僕は妻を送り出した。

 それから手術が終わり、包帯を取った妻を見て、僕はあんぐりと口を開けた。

 そこには、僕の知っている妻とは全く違う容姿の人間がいたからだ。

 驚いて目を見開いている僕に、妻はさらりと言った。

 せっかくだから、気になるところも全部いじったのよ。今までより、もっと美しくなったわたしの方が、あなたも嬉しいでしょう?


 僕は家事をしている妻を見る。いや、今目の前にいるこの女性は本当に妻なのだろうか。

 髪型が変わり、体形が変わり、声が変わり、性格が変わり、容姿が変わった。もう、僕が愛した妻そのものの部位は、彼女には残っていない。

 まるで、テセウスの船だな、と思った。船を構成するそのパーツが全て入れ替わった時、それは元々の船と同一と言えるか、というパラドックス。

 そんなことを考えながらぼんやりと妻を眺めていると、不意に彼女が僕の方を向いて「どうしたの」と微笑んで言った。

 僕も微笑み返して、ゆるゆると頭を振ってなんでもないよと言った。

 目を閉じる。僕は何を考えているのだろう。見た目や声や、性格が変わったところで、目の前にいるのは紛れもなく僕の妻だ。それだけで十分だろう。

 変わってしまった妻を、それでも僕はいつまでも愛そう。


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