キミは世界
夕飯を食い、風呂にも入って、あとは寝るだけという一日の終わりの停滞した時間。その時間にゆったりとテレビを見ていた僕の許に、風呂上がりの彼女がやってきた。濡れた前髪が僅かに目ににかかっている。桃色がかった頬が艶めかしい。
ねえ、と彼女が言った。
「どうしたの?」
僕がそういうと、彼女は無表情のまま口を開いた。
「唐突だけどね、キミに言いたいことがあるんだ」
「言いたいこと?」
「そう。キミにだからこそ教える、わたしの秘密」
僕はテレビを消して、背筋を伸ばした。いつも、のほほんとした彼女がそういうことを言うのが初めてだったからだ。静かだった心臓が暴れだす。
「秘密……?」
「そう、秘密。誰にも言ったことのない、わたしと――これからあなたが知る、二人だけの秘密」
彼女は頭のタオルを首に掛けなおすと、髪をかき上げた。形のいい生え際が覗く。
「わたしはね、世界なんだ」
「……?」
「世界なの、わたし」
僕が眉を顰めて「この子は電波なのだろうか」と思っていると彼女は、続けた。
「わたしは何もかもを知っているの。この地球がいつ生まれて、どういう歴史をたどり、どうやって滅ぶのかをわたしは知っている。宇宙の起源も、隣の家の夕ご飯の献立も、今この瞬間に産まれた赤ちゃんの数も、何もかもを把握しているの」
「はあ……そうなんだ」
僕が適当な返事を返すと、彼女はわずかに眉を顰めた。
「あなたが信じてないこともわかるわよ。……じゃあ、信じさせてあげるわ。わたしに何か質問して。わたしが知らなそうなことを、なんだっていいから」
「……じゃあ、僕の友達のニシハラの、趣味は?」
「プラネタリウムね。最近は手入れをサボって水槽が緑になってるわ」
「僕が昨日食べた昼食」
「会社の近くの蕎麦屋さんで、ざるそばを食べたわね。つゆが甘めで、あなたの口に合わなかった」
「……ふうむ。……じゃあ、僕の一番のトラウマは? これは誰にも言っていないから知る由もないだろう?」
「中学二年のころ、お母さんの引き出しから開封されてあるコンドームの箱が出てきたことね。それから、あなたはしばらくの間両親と目を合わせられなくなった」
「……なるほど」
全部正解だ、と僕が唸っていると、彼女は僕の隣に腰を下ろした。ヘアオイルの甘い香りが鼻腔をくすぐる。彼女の手が、僕の太ももに触れた。
「これで信じてもらえたかしら。世界はわたしで、わたしは世界なの」
「信じたくはないけれど、でもまあ、証拠はそろったね。キミが知る由もないことを、それでも知っていた」
「信じるのね?」
「まあ、そうするしかないね。……でも、どうして今、その事実を僕に教えたんだい?」
僕がそう言うと、彼女は深いため息を吐いた。
「あら、鈍感ね。いっそ愚鈍とでもいうのかしら。言ったじゃない。わたしは何でも知っている。今現在起こっていることも、これから起こる未来も、誰もが知らない過去の話も、何でも知っているのよ」
彼女の、ぱっちりとした二重の目が僕を見つめてくる。でも、それでも僕は彼女が何を言いたいのかが理解できなくて、首を傾げた。
そんな僕の様子を見た彼女は、再び深いため息を吐いて、そして口を開いた。
「あら、ここまで言ってもわからないのね。仕方ないから、言ってあげるわ」
彼女の指先が僕の顎に触れる。吐息がかかるほどの距離で囁かれる。
「わたしは何でも知っている。そう、あなたが最近入ってきた会社の後輩に鼻の下を伸ばしていることも、今度ご飯に誘われたこともね。そして、あなたはそれに対して、満更でもないことも、わたしは全部知っているのよ」
僕は目を見開いた。そんな僕に、彼女はにやりと笑みを浮かべながら続ける。
「ね? わたしは何でも知っているでしょう?」
僕は弾かれたようにソファーから立ち上がり、全身全霊の五体投地を繰り出した。




