鉄錆の王国
吸気山脈の険しい尾根を、一列の影が静かに歩んでいた。
吹き下ろす冷たい風が、足元の赤錆びた砂を巻き上げては、彼らの泥に汚れた外套を叩く。
先頭を行くゼノの背中には、かつてグレイ工房の片隅に置かれていた、ずっしりと重い「錆びた工具箱」が革紐を通じて彼の肩を強く圧迫していた。
「ゼノ。」
歩調を合わせたミラが、ゼノの横顔を睨みつけるようにして問いかけた。
「私たちはあなたに従い、帝国から逃げ延びる道を選んだ。だが、いつになったら『王国再興の旗』を掲げるつもりだ? あなたが王として立たなければ、我々には戦う大義が無い」
ゼノは歩みを止めず、東の地平線を見つめ続けた。
夜霧が引いたその先には、どこまでも広がる赤錆びた「鉄錆の荒野」が、朝光を浴びて鈍く輝いている。
「俺は、王様として軍隊を率いるつもりは無いよ、ミラ」
「何だと……?」
「だけどな」
ゼノは、工具箱の揺れる音を背中に感じながら答えた。
「この錆びついたアトラスが、あちこちで目詰まりを起こして壊れかけているのは本当だ。だから、俺はまず、何が壊れているのかを、この目で直接見に行きたいんだ。壊れた機械を直すために、まずは故障箇所を調べる。それが俺の旅だ」
「王としてではなく、ただの技師として行くというのか」
ミラが吐き捨てるように言ったが、その隣にエリアナが静かに並び立った。
彼女の左手首には、すでに呪縛ではなく、一つの「決意」として、折れた木剣の柄がしっかりと結びつけられていた。
「ええ。ゼノの技術と王家の血脈が、アトラスの心臓を直す唯一の鍵になるなら──私たちはその鍵を守る盾になるわ。それが、新しい『折れたる獅子』の役割よ。王国を再興するためではなく、この壊れた世界を直すためにね」
エリアナの琥珀色の瞳には、揺るぎない覚悟の光が宿っていた。
ゼノは隣のエリアナを見つめ、静かに頷いた。古い旗印ではなく、「世界を修理する」という新しい旅路のために、彼らは共に歩み始めたのだ。
──一方、崩壊した第一リアクター跡の地上、帝国の臨時本陣。
「……バルブの固着を叩き壊し、物理的なバイパスだけで暴走を制圧した、と」
ギデオンは、煤まみれの作業台の上に置かれた、旧水門から回収された「真鍮のバルブと金線の残骸」を冷たく見つめていた。スレートグレーの甲冑を脱いだ彼の素顔は、驚くほど若く、そして這い上がる者の冷徹な知性に満ちていた。
「はい。標的と反乱軍は山脈を越え、東方の荒野領へ向けて逃亡しました。直ちに追跡部隊を編成しますか?」
副官の問いに、ギデオンは静かに首を振った。
「焦る必要は無い。あの少年の卓越した技術と王家の血脈は、帝国のどの魔導学者をも凌駕している。彼を生きたまま手に入れることこそが、アトラスの高度沈下を止め、世界を救う唯一の手段だ」
ギデオンは琥珀色の瞳を細め、東方の地図に一本の赤い線を引いた。
「帝国機密魔導局の全戦力を投入する。第二の制御塔──『荒野の円筒』へ先回りし、包囲網を敷く。徹底的に、彼を追い詰めるぞ」
吸気山脈の尾根を越え、乾いた風が吹き抜ける。
ゼノの背中の工具箱の中で、精密ドライバーとピンレンチが「カチャ、カチャ」と静かに乾いた金属音を立てて揺れていた。
それは、かつて錆びた揚水機を直していた日常の音であり、同時に、これから始まる「世界を直す旅」の鼓動そのものだった。
(第一巻・完)




