第20話 至宝への誓い―――甘美なる執着と皇帝の膝上
東部境界都市フェルゼンへの巡幸を終え、帝都ガルディナへと帰還したその日の夜。
皇宮の回廊は静まり返っていた。本来であれば、旅の報告を終えたエレノアは己の与えられた客室へと戻るはずであったが―――気づけば彼女は、皇帝の絶対的領域である「皇帝私室」の深い絨毯の上に立たされていた。
執務室ではない。ヴァルハイトが個人的に過ごすためだけに作られたその空間は、重厚な天蓋付きベッドと暖炉の火が優しく揺らめく、甘く密やかな空気に満ちていた。
「ヴァ、ヴァルハイト様……? あの、長旅でお疲れでしょうし、私はそろそろ自室へ……」
胸の高鳴りを隠しきれず、そわそわと後すさろうとするエレノア。 だが、その手首は、すぐに伸びてきた大きな手によって、あっさりと、とらえられた。
「逃がすとでも思ったか? フェルゼンではあんなにも輝かしい顔で余を魅了しておきながら、仕事を終えれば知らぬ顔で去るつもりか」
「そ、そのようなつもりは……っ」
引き寄せられた反動で、エレノアの華奢な体が浮かび上がる。 視界がふわりと揺れたかと思うと、彼女はヴァルハイトの膝の上―――彼の強固な両腕の中に完璧に閉じ込められていた。
「あっ……! ヴァルハイト様!」
「じっとしていろ。……何日も馬車に揺られ、現地で無理な演算までしたのだ。君の疲労を癒やすのは余の仕事だ」
背後から回された太い腕が、エレノアの細い腰をすっぽりと抱きかかえる。 臣民や諸外国の使節の前では「冷血皇帝」と恐れられ、一切の感情を見せない覇王が、今やただの過保護な男のようにエレノアを離そうとしない。
ヴァルハイトはテーブルの上に用意させていた極上の蒸留茶と、一口サイズの焼き菓子を手に取ると、エレノアの唇へ直接運んだ。
「ほら、口を開けろ。フェルゼンで評判だったイチジクのタルトだ」
「じ、自分で食べられますから……っ!」
「ダメだ。君は放っておくと自分の食事すら忘れて計算を始める。余が手ずから与えなければ、気が済まん」
アイスブルーの熱い瞳で見つめられ、エレノアは抵抗を諦めて小さく口を開けた。甘く香ばしい味が口いっぱいに広がる。それを見届けたヴァルハイトの口元に、満足げな、どこか執着に満ちた笑みが浮かんだ。
「……美味いか?」
「……はい、すごく美味しいです」
「そうか。君が美味そうに食べる姿を見るためなら、どんな珍味でも世界中から買い集めよう」
ヴァルハイトの手が、エレノアの柔らかい絹糸のような髪をすき、その細い首筋へと滑り落ちていく。彼の体温が直に伝わり、エレノアの耳たぶは林檎のように真っ赤に染まった。
「フェルゼンでの君は見事だった」
耳元で囁かれる低く温かな声に、エレノアの身体がぴくりと震える。
「あの薄暗い街の未来をひと目で見抜き、生まれ変わらせる確信を得た時の君の顔……あまりにも美しかった。……同時に、猛烈な嫉妬を覚えたよ」
「え……? 嫉妬、ですか?」
「ああ。君のその素晴らしい頭脳が、君のその美しい情熱が、余以外の臣民に向けられていることにだ」
冗談めかした響きはない。本気でエレノアという存在を独占したいと願う、深く重い感情が言葉に滲んでいた。
「旧王国の者どもは、この頭脳を『無能』と蔑み、暗い地下室に押し込めていたそうだな。……愚かすぎて吐き気がする。もし今、奴らが君のこの輝きを見たら、どのような顔をして己の愚を呪うだろうな」
ヴァルハイトの腕にぐっと力がこもり、エレノアを己の胸板へと固く引き寄せた。
「だが……二度と誰にも渡さん。君が求めるなら全権を与える。君の技術を讃えるための神殿でも作ろう。だからエレノア、君のすべてをこの帝国に……いや、余だけに捧げよ」
それは、世界を統べる覇王による、たった一人の少女への「絶対の服従と支配」の申し出だった。
エレノアはそっと目を閉じ、背中から伝わるヴァルハイトの力強い鼓動に耳を澄ませた。
―――かつて、シルヴェニア王国にいた頃の自分。 冷たい地下室で、どれほど計算を重ねても褒められることはなく、手柄は妹に奪われ、「役に立たないゴミ」と罵られて捨てられた。あの暗闇の中で、エレノアは自分が存在することの意味すら見失っていた。
けれど、今はこの温もりのある腕の中にいる。 自分の才能を、自分の努力を、誰よりも正当に評価し、全身全霊で守り、愛してくれる人がいる。
(……ああ、私はもう、怯える必要はないんだ)
エレノアの胸に、溢れんばかりの安らぎと幸福感が満ちていく。 彼女は自分を抱きしめるヴァルハイトの腕にそっと両手を重ね、彼の胸元に頭を預けた。
「……ヴァルハイト様」
「なんだ?」
「私を追放してくれた王国に、今は感謝しているくらいです。……だって、そのおかげで、私をこんなにも大切にしてくださる方に出会えたのですから」
「……エレノア」
「私の技術も、私の頭脳も……私という人間のすべては、ヴァルハイト様と、このガルディニア帝国のものです。私が描く未来は、すべてあなたと共にあります」
エレノアが振り返り、恥ずかしそうに、けれどまっすぐに微笑むと、ヴァルハイトの息が止まった。
次の瞬間、ヴァルハイトは耐えきれなくなったようにエレノアの額に、頬に、そしてそのまま熟した果実のような唇に、深く甘い誓いの口づけを落とした。
「……覚悟しておけ、エレノア。余は君を二度と放すつもりはない。死が分かつその日まで、一生余の膝の上で甘やかされることになる」
「ふふ……はい。ヴァルハイト様となら、どこまででも」
暖炉の火が二人の影を大きく揺らす。 冷血皇帝の過剰なまでの独占欲と、居場所を得た天才少女の深い忠愛。 二人の固い絆が結ばれたその夜、ガルディニア帝国は至高の居場所とともに、真の黄金期へと踏み出そうとしていた。




